礒部公一インタビュー(2)
かつての近鉄"いてまえ打線"の逸話

(インタビュー1:楽天の歴史的大失速はなぜ起きたのか。「外国人野手で当たりを引かないと厳しい」>>)

 今シーズンオフ、NPBから"近鉄戦士"がいなくなった。

ヤクルトの坂口智隆が、今季限りでユニホームを脱ぐことを決意したからだ。球界再編から18年、坂口の引退によって近鉄バファローズでプレーした選手はついにゼロとなった。そんな年にオリックスバファローズが26年ぶりの日本一を決めたのは不思議な"縁"も感じさせる。

 一方で、コーチ陣や解説者に目を向ければ、近鉄OBがいまだに存在感を放っているのは事実だ。球団最後の選手会長として、近鉄バファローズ消滅の渦中にいた礒部公一氏もそのひとりだろう。

 そんな礒部氏に、オリックスバファローズの日本一、近鉄時代の秘話、来季から西武ライオンズで指揮をとる松井稼頭央やDeNAの三浦大輔監督ら、交友が続く野球人たちとの逸話を聞いた。


「最後の近鉄戦士」坂口智隆の引退に喪失感。OB磯部公一が語る...の画像はこちら >>

2001年9月26日、劇的なリーグ優勝を決めた近鉄の(左から)中村紀洋、タフィ・ローズ、礒部公一

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――今季、オリックスバファローズが日本一となりましたが、どのような感覚で見ていましたか?

礒部公一(以下・礒部):「オリックスが日本一になり、SNSで『オリックスバファローズ優勝おめでとう』と発言したんです。するとオリックスバファローズのファンの方から、『礒部さんにそう言ってもらえるのが本当に嬉しい』と連絡をいただきました。18年前は本当にいろいろあったので、正直なところ今でも『同じバファローズでも全然違うもの』と考えていますが、素直に日本一は嬉しかったですね。今年のオリックスバファローズは強かった。心の中では、『イーグルスのほうが先に日本一になってよかった』という想いもあるので、複雑は複雑ですね(笑)」

――坂口選手が引退し、ついに近鉄時代を知る現役選手はいなくなりました。

礒部:「彼が入団してきたのが2002年ということもあり(2004年シーズンをもって近鉄球団は消滅)、直接的なつき合いはほとんどないんです。
ただ、やはり近鉄最後の選手としてその動向はチェックしていましたね。非常に技術が高い選手だからあれだけ息の長いプロ生活を送れ、『1年でも長く近鉄OBとして続けて、近鉄の名前を残してほしい』と思っていました。やはり引退は悲しいですし、『ついに誰もいなくなったか』という喪失感もあります。そんな年にオリックスバファローズが日本一になるんだから、不思議な巡り合せですね」

――その一方でコーチ陣に目を向ければ、投手では吉井理人、阿波野秀幸、赤堀元之さん、野手では村上隆行、真喜志康永、的山哲也、藤井彰人さんら、指導者として活躍するOBも多いです。なぜ近鉄出身の選手は今でもコーチとして重宝されているのでしょうか。

礒部:「近鉄の選手って、とにかくめちゃくちゃ練習したんですよ。

それもバッテイング練習ばかり(笑)。僕が入団した頃も、秋季キャンプでは、大げさではなく朝から晩までバットを振らされていました。今の時代に根性論をそのまま押しつけるのはよくないですが、そこまで練習することの何がいいかというと、状況に応じた技術の引き出しの数が増えることだとは感じます。

 疲れや体力的な問題もあるので、シーズン中は常にいい状態で出場することが難しい。ただ、悪い時も『こういうケースはどうしたらいいのか』という選択肢が練習量によって補えてくるんです。これは絶対的にあると思います。
"いてまえ打線"なんて呼ばれていましたが、近鉄の打者に"天才"はいなかった。"雑草魂"を根底に持ち、練習量で才能を伸ばしていった選手がほとんどです。その練習量によって増えた引き出しが、コーチ業に活きてくる部分もあるんじゃないでしょうか」

――今季ドラゴンズで打撃コーチを勤めた中村紀洋さんは、礒部さんと同じ年齢で、盟友とも呼べる存在です。

礒部:「ノリのコーチ就任は、素直に嬉しかったですね。現役時代の彼を見て、『こいつには勝てないな』と思わされるほどタイミングの取り方がうまく、手首の使い方も柔らかかった。ただ、いろいろ話を聞くと、水谷実雄さんたちに鬼のように練習をさせられたというんです。
『だから今の自分がある』と。ノリは努力型の"天才"ですよ。自分に厳しく、侍のような部分がある男ですが、打撃の引き出しや理論は特筆すべきものがあります。彼の指導でどんな選手が育っていくか、本当に楽しみですよ」

――来季は礒部さんも交流が深い松井稼頭央さんが、ライオンズで指揮を執ります。どんな野球を志向するとみていますか?

礒部:「稼頭央は野球に対して驚くほどストイック。若さもあり、球団も2軍監督まで経験させていることから、長期的に任せたいと思っているはずです。

よく選手と話すし、コミュニケーションもうまいので、来年はある程度若手を使いつつ、その中でリーダーになれるような選手を作っていく部分もあるのではないかな、と。基本的には若い野手を育てながら、攻撃面から手をつけていくとみています」

――また、同じ年の三浦大輔さんもDeNAで結果を残していますね。

礒部:大輔は"番長"なんて呼ばれていますが、すごく優しい男なんですよ。温厚で繊細。もともとDeNAは投手陣が課題でしたが、大輔が監督になってからは自分の経験をふまえて投手陣と密にコミュニケーションをとりながら、うまく投手陣を立て直したと思いますね。頭が柔軟で、人に任せるところは任せる。ヘッドコーチ(来季は巡回コーチ)の青山道雄さんに全体の補佐、参謀をしてもらいながら、野手は打撃コーチに任せるという。そういったバランス感覚と柔軟性が大輔の能力だと思いますね」

――今後も期待ですね。礒部さんは球団再編後に楽天でプレーされていますが、あらためて近鉄というチームのカラーはどういうものだと捉えていますか?

礒部:「近鉄はアットホームというか、関わる人みんながファミリーのような感覚でした。裏方さんはもちろん、親会社の人や出入り業者まで知っているというような。大阪ノリみたいなところもやっぱりあって、仰木彬監督の時は、ビールのイッキ飲みの速さでスタメンを決めるようなこともありましたね(笑)。

 ただ、オンとオフの切り替えがうまいチームで、オフはすごく庶民派でした。大阪の普通の居酒屋で、吉岡雄二さん、タフィー(ローズ)に僕、たまにノリみたいなメンツでよく飲んで、その後はカラオケにみたいな。タフィーの歌がとんでもなく下手だったのはよく覚えています(笑)。そんなタフィーも野球になると非常に研究熱心で、相手投手の分析をすごくする男でした。タフィーは普段グリップが細いバットを好んでいましたが、シュートを多投する左投手と対戦する時は、私のところに来て『バットを交換してくれ』というんですよ。それで本当に打っちゃうから『すごいな』と。特に打つことに関しては球団全体で、そういった求道者的な空気感がありました」

――当時の選手たちとは連絡を取り合ったりはするんでしょうか?

礒部:「回数自体はそこまで多くはないですね。あ、でも今年、タフィ(ローズ)とは久しぶりに一緒に仕事をしたんですよ。相変わらず元気そうで、『ヨッシャー!』など変な日本語を使っていました(笑)。ノリとは時々連絡を取る程度ですが、やはり2004年でチームがバラバラになってしまった、というのは大きいと思いますね。今でもみんなで集まって話したいな、と思うこともありますよ」

――礒部さんから見て、近鉄魂は球界にどのような形で残っていってほしいと感じますか?

礒部:「今年亡くなられた元球団代表の足高圭亮さんとは、近鉄を離れたあともおつき合いがずっと続いていました。昔の話や先人の方々に教えられたことを、私も足高さんから伝え聞いていたんです。その時に感じたのは、やはり近鉄という球団は"雑草魂"があり、圧倒的な練習量で才能を伸ばしてきたということです。

 今NPBにいるコーチたちは、近鉄時代の経験を活かして選手育成に当たっている。そして私自身も近鉄で学んだこと、歴史の重みはさまざまな形で伝えていきたい。それらが近鉄魂として球界に受け継がれていってほしい、というのが私の願いでもあります」

(インタビュー3:が苦手だった投手5人をランキング。ダルビッシュ有ら大エース、パ・リーグ時代は荒れ球で「ガンガン攻めてきた」投手も>>)

【プロフィール】
礒部公一(いそべ・こういち)

1974年3月12日生まれ、広島県東広島市出身。三菱重工広島時代、1996年のドラフト会議で近鉄バファローズから3位指名を受け入団。2年目からレギュラーに定着して"いてまえ打線"の一角を担い、2001年には12年ぶりのリーグ優勝に貢献した。2003年から選手会長を努め、翌年の近鉄とオリックスの合併問題・球界再編問題の労使交渉に奔走。2005年に東北楽天ゴールデンイーグルスに創設メンバーとして加入し、初代選手会長に就任。2008年に引退するまで「ミスターイーグルス」としてチームを牽引した。引退後はコーチとして球団に残り2017年まで後進の育成に努めた。2018年からは解説者として活躍中。
現役時代の通算成績・・・1311試合出場、打率.281、1225安打、97本塁打、517打点