野球人生を変えた名将の言動(9)

関本賢太郎が語る岡田彰布 後編

(前編:岡田彰布監督の「魔法の言葉」で関本賢太郎は長距離砲を断念。「「お前、勘違いしたらあかんで」>>)

 阪神OBの関本賢太郎氏に聞く岡田彰布監督とのエピソード。

後編は、関本氏が思う岡田監督の野球、2005年のリーグ優勝の行方を大きく左右することになった中日との激闘の裏側などについて聞いた。

2005年阪神VS中日の伝説の天王山。岡田彰布は判定に激怒、...の画像はこちら >>

2005年9月7日の中日戦で、判定に抗議する阪神の岡田監督(中央)

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――インタビュー前編で、岡田監督は相手の心理を考えた野球に徹しているというお話がありました。そういった"岡田イズム"は、第一次政権時(2004~2008年)にはチーム全体に浸透していたんですか?

関本 浸透していましたね。岡田さんが二軍のコーチや監督を務められていた時に育った選手たちが、のちに一軍の主力選手になりましたから。僕以外にも、沖原佳典さん、藤本敦士さん、濱中治、ピッチャーでいえば井川慶藤川球児、久保田智之。これらの選手たちは、岡田監督の指導を若い頃から受けていたので、一軍でも戸惑いはまったくなかったと思います。


 だから、今年の阪神の懸念点を挙げるとすれば、今の選手たちは岡田さんの考えを理解してプレーできるまでに時間がかかるかもしれないということです。岡田さんの野球を肌で感じながら一軍に上がった僕らとは違いますからね。いかに"理解する時間"を短縮できるかがポイントになるでしょう。春季キャンプ、オープン戦でどれだけ岡田さんの野球をチームに浸透させられるのか。懸念点はそれぐらいです。

――岡田監督の起用や采配、試合運びは手堅い印象がありますが、関本さんが現役時代に感じていた岡田監督の野球を言葉で表すとすれば?

関本 「気づいたら勝っていた」ですかね。
派手な勝ち方を好む監督ではないですし、普通に戦っていたら勝っていた、という感じです。試合の終盤に代打攻勢で逆転を狙うことよりも、クリーンナップが打点を稼いで、先発ピッチャーが6回ぐらいまでしっかり投げてリリーフ陣につないで、という手堅い戦い方。どちらかといえばディフェンシブな野球です。

 ちなみに、岡田さんは将棋がめっちゃ強いんです。そこでも派手に攻めるのではなく、ディフェンスを固めながら相手の隙が出た時にポンっと攻める感じでした。野球に対する考え方と一緒でしたね。

――先を読む力があり、勝負どころをわかっている、という感じでしょうか?

関本 そうですね。試合が開始して間もない段階で、だいぶ先のイニングのことを想定しながら、目の前で起きていることにも対応する。そのように、常に同時進行で考えていました。試合の中盤にはこうなって、終盤にはこうして勝ちきるというイメージができているんだと思います。試合中に「アレを用意しておけ」とよく言っていましたが、常に先を読んでいるからこその指示でしたね。

――第一次岡田政権時には、勝負にかける熱い気持ちも垣間見せていました。

中日との優勝争いを繰り広げていた2005年9月7日のナゴヤドーム(現バンテリンドーム ナゴヤ)での中日戦、サヨナラ負けのピンチの場面で、岡田監督はそのシーズンで初めてマウンドに出向き、久保田智之投手(現阪神一軍投手コーチ)を叱咤激励しました。二塁手として出場していた関本さんもマウンドに集まっていましたが、当時の状況を振り返っていただけますか?

関本 あの試合は、優勝するために絶対に落とせない天王山でした。大事な場面で僕が絡むプレーも多かったですね。9回表の二死満塁で僕がライト前ヒットを打ち、そこで本塁を突いたセカンドランナーの中村豊さんが微妙なタイミングでアウトになったり、9回裏の谷繁元信さんのセカンドゴロを僕が捕ってホームに送球したら、そちらは微妙なタイミングでセーフになって3-3の同点になったり......。もつれにもつれた試合でした。

 阪神にとって不運な判定がふたつ続いたこともあって、岡田さんが激怒して審判に抗議し、選手を引き揚げさせてあわや没収試合という中断もありました。
その後の9回裏のピンチで岡田さんがマウンドに来たんですけど、久保田に「俺が責任とるから、むちゃくちゃしたれ」と言ったんです。

――その言葉を受けて、久保田さんはどうなりましたか?

関本 キャッチャーの矢野燿大さんと久保田は、「もう開き直って、インサイドに攻めていこう」と、攻めの姿勢に転じる覚悟を決めたように見えました。久保田は代打で出てきた渡邉博幸さん、タイロン・ウッズを2者連続三振で打ち取ってピンチを乗りきり、延長11回表、9回裏に悔しい思いをした中村さんがホームランを打って4―3で勝つことができました。

――岡田さんの喝によってチーム全体の士気が高まり、その後の優勝に向けたラストスパートにもつながっていった?

関本 そうですね。その試合後、当時の中日の落合博満監督が「監督の差で負けた」とコメントを残されたそうですが、監督同士の駆け引きも含めて壮絶な試合だったと思います。あの試合に勝ったことで、阪神が優勝を手繰り寄せることができたのは間違いありません。



――指揮官がそういう姿勢を見せてくれるとチームが結束しますね。

関本 そもそも選手たちは「岡田さんの采配を忠実に遂行できれば優勝できる」と思っていました。余計なことはしないで、「打て」と言われたらヒット打つし、「バント」と言われたらバントを決める。選手が必要以上に本能や勘のようなものを働かせてプレーすることはなかったです。

――シンプルですね。

関本 その分、選手たちは采配を遂行するための技量を高めなければいけません。先ほど話したように、岡田さんの野球はディフェンシブな野球なので、特に接戦をモノにできる守備力を求められました。

 あと、僕は2番を打つことが多かったのですが、2番バッターにはバントや(右バッターの場合は)右打ちなどで走者を進めること、ピッチャーに球数を多く投げさせて、クリーンナップにいい条件で打ってもらうといった役割があります。そういう"つなぎ"の仕事をしっかり遂行できるように、室内練習場では球数を多く投げさせるためのカットの練習などもよくしていました。

――関本さんにとって、岡田監督との出会いは重要でしたか?

関本 間違いなくターニングポイントです。高卒でプロ入りして2年目の1998年に岡田さんがコーチとして阪神に復帰(二軍助監督兼打撃コーチに就任)されて、プロ野球選手としてのイロハや、プロとしての試合運びなどを教わりました。あのタイミングで、のちに一軍の監督になられる岡田さんの指導を受けられたことは、自分の野球人生にとってものすごく大きかったです。

【プロフィール】
関本賢太郎(せきもと・けんたろう)

1978年8月26日生まれ、奈良県出身。天理高校3年時に夏の甲子園大会に出場。1996年のドラフト2位で阪神タイガースに指名され、4年目の2000年に1軍初出場。2004年には2番打者として定着し、打率.316の高打率を記録した。2007年には804連続守備機会無失策のセ・リーグ新記録を樹立。2010年以降は勝負強さを買われ代打の神様として勝負所で起用される。2015年限りで現役を引退後、解説者などで活躍している。通算1272試合に出場、807安打、48本塁打、312打点。