私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第20回
ドイツと南アフリカ――2度のW杯で体感した真逆の試練~玉田圭司(2)

◆(1)玉田圭司が語る「史上最強」の日本代表が味わった悪夢

 2006年ドイツW杯、日本は初戦のオーストラリア戦で逆転負けを喫し、2戦目のクロアチア戦を引き分けて勝ち点1と、グループFで最下位だった。

 最終戦の相手はブラジル。

決勝トーナメント進出には最低でも2点差以上の勝利が必要だが、それがどれほど困難なことか、日本の選手は理解していた。ジャイアントキリングの可能性がないとは言えないが、精神的には相当追い込まれていたと言える。

 ブラジル戦の当日の朝、玉田圭司はジーコに部屋に来るように言われた。するとそこには、巻誠一郎と稲本潤一もいた。

「ジーコからは『おまえたち3人を先発させるから』と言われました。テンションが上がりましたね。

一番戦いたかった相手なので、『ついにきたか』って感じでした」

 ブラジルは、ロナウドをはじめ、ロナウジーニョやカカ、カフーやロベルト・カルロスなど多彩なタレントをそろえ、日本戦を前にしてすでに2勝を挙げ、決勝トーナメント進出を決めていた。ただ、チームはもうひとつまとまりを欠いていて、その評判は決して高くなかった。

 そうしたなか、玉田は「どんな感じなのだろう」と探りながら試合に入った。だが、即座にブラジルの強さを感じたという。

「開始してすぐにすごい攻撃にさらされて、圧倒されました。世界トップレベルのすごさを肌で感じましたね。

2連勝してグループリーグ突破を決めていたブラジルは、決勝トーナメントに向けてウォーミングアップみたいに捉えていたのかもしれないですけど、だからこそ、すごかったし、強かった。

 余裕がある時の強さは本当に手がつけられない。自分たちは最初からピンチの連続で、何点とられてもおかしくなかったです」

 それでも、日本はGK川口能活の好セーブもあり、なんとか必死に耐えていた。その間、玉田はずっとブラジルDFラインの背後を狙っていた。成功はしなかったものの、玉田はそういった動きを何度もトライしていた。

「ブラジルは両サイドバックが上がって、攻撃に人数をかけている。

朝、ジーコに呼ばれた時も『ブラジルにも隙がある。サイドバックの裏を狙え』と言われていたので、そこを突こうと狙ってはいました」

 そうして、ブラジルの猛攻に耐えているなか、前半34分に先制ゴールが生まれた。

 三都主アレサンドロがドリブルで持ち上がり、中央から左に流れた玉田にスルーパス。それを、玉田が見事に決めた。その瞬間、スタジアムは大きな歓声に包まれ、日本ベンチは沸き立った。

玉田圭司が振り返る「今でも『最強』だと思っている」日本代表「...の画像はこちら >>
「アレ(三都主)とは、左利き同士で感覚が合うんです。
あのボールの持ち方も、左利きの彼独特のものなんですが、だからこそ『パスが出てくるな』って思ったんです。

 あと、巻がDFを引っ張ってくれたのも大きかった。シュートはボールを受ける際、GKを2回見て、位置を確認してから狙って打ちました。あの大会のあと、『あのシュートをもう1回打って』とよく言われるんですけど、なかなかできないです(苦笑)。

(自らのゴールを)あまり鮮明に覚えていないのは、感覚で動けたから。本当に、試合に100%集中していたから、とれたゴールだったと思います」

 玉田の周囲には大きな歓喜の輪が生まれ、中田英寿は興奮した表情で玉田に抱きついた。

 だが、幸せな時間はほんの一瞬だった。日本が先制すると、ブラジルは明らかにギアを上げてきた。玉田のゴールが"眠れる巨人"を起こしてしまったのだ。

「点が入る前から何点とられてもおかしくないぐらい攻撃されていましたけど、僕が点をとったことで、(ブラジルの)その攻撃はさらに火がついたような状態になりました。『点をとりにいくぞ!』『ロナウド、よろしく!』みたいな空気が流れて、ガラッとムードが変わりました」

 日本はブラジルの分厚い攻撃に圧倒されたが、できればそれを凌いで、前半を1-0のまま終わらせたかった。しかし、ブラジルはそんなプランもあっさり粉砕。

前半のアディショナルタイム、ロナウドがゴールを決めて同点とした。

「本物のストライカーは、点のとり方を知っている」

 玉田は、淡々と喜ぶロナウドを見ながらそう思った。

 後半はブラジルが出力をさらに高めて、日本はもはや成す術がなかった。ピッチにいた玉田は、「(ブラジルの選手は)みんな、うまいというより、怖い」と感じたという。

 ブラジルの分厚い攻撃に日本は対応できないまま、次々と失点を重ねた。結局、1-4と完敗を喫して、グループリーグ敗退が決まった。

「正直、3試合のうち、ブラジル戦以外は力が拮抗していて、どちらが勝ってもおかしくないと思っていました。ですから、W杯はどうしても結果を求められる大会なので仕方がないのですが、『結果だけで評価してくれるな』という思いもありました。

"たられば"になりますが、オーストラリア戦に勝っていれば、勢いに乗ってクロアチアにも勝って、2勝でブラジルに挑める可能性もあった。そういう意味では、やはり初戦がすべてだったかなと思いますね」

「史上最強のチーム」と言われた日本代表だが、勝つためには何が足りなかったのだろうか。

「欧州でプレーしている選手が多かったし、経験のある選手もたくさんいた。我が強い選手が多かったけど、僕は、それは悪いことじゃないと思っていました。それがチームとしてまとまると、2002年よりももうワンランク上のチームになっていたと思うんです。でも(チームとして)まとまりきらなくて、一人ひとりの役割も明確じゃなかった。

 ただ、僕は今でもあの時の日本代表が"最強"だと思っています。(2010年の)南アフリカW杯のチームもよかったけど、ドイツのメンバーの個の強さ、うまさが抜きん出ていました」

 チームとして結果を残せなかったが、26歳の玉田個人にとっては居心地がよく、多くの収穫を得た大会になった。

「ゴールを決めることができましたし、ブラジルとか、世界のトップに対しても、自分の武器は通用するなと思いました。同時に、上には上がいるな、というのも感じられた。

 でも、この大会で一番学べたのが、サッカーって楽しいものなんだということ。こういう大会でもブラジルの選手は余裕をもって楽しんでいたし、それを(同じピッチで)プレーして肌で感じることができた。

 僕も楽しんでこそ、自分のプレーを発揮できるタイプ。引退するまで、それを忘れずにプレーしたのですが、そのことをこのドイツW杯で再確認することができたんです」

 ドイツW杯が終わったあと、玉田は4年後の南アフリカW杯のことは特に考えていなかった。それでも、もう一度代表でプレーしたい気持ちがあったので、所属する名古屋グランパスでのプレーに集中した。

 ただ、セフ・フェルフォーセンが指揮官だった当時のチームで、玉田は燻っていた。2007年シーズンの終わりには、「(このまま)セフが指揮を執るなら、チームを離れたほうがいい」とも考えていたという。

 そんな玉田にとって、大きな転機となったのは2008年、ドラガン・ストイコビッチが名古屋の監督に就任したことだった。

「この時は、(自分にとっていい流れとなる)3つのことが重なったんです。ひとつは、ピクシーが監督になってくれたこと。もうひとつは、久米(一正)さんがGMになったこと。そして、岡田(武史)さんが代表監督になったことです」

 チームから離れることも考えていた玉田だったが、次期監督にストイコビッチが決まったことを聞いた。さらに、日本代表の岡田監督から久米GMに連絡が入っていることを知らされた。岡田監督は「玉田を代表に戻したいから、どうにかしてくれよ」と、久米に伝えていたという。

「ピクシーが来ることが決まり、久米さんから岡田監督がそう望んでいることを聞いて、『おまえ、どうするんだ』って久米さんに言われて。その場で『頑張ります』と答えました」

 そして2008年3月、玉田は南アフリカW杯アジア予選に挑む日本代表に招集された。1年8カ月ぶりの代表復帰だった。

 その際、玉田は岡田監督に声をかけられた。

「FWには高原(直泰)さんがいたけど、(岡田監督から)『僕のことを中心に考えている。年齢的にも上のほうだから、おまえがFW陣を引っ張ってくれ』と言われました。そういうこともあって、岡田さんにはジーコの時と同じような信頼感を抱いていました」

 玉田は、自らのことを「非常にわかりやすい性格」だという。監督に信頼されると、その期待に100%の力を発揮して応えてきた。うまく乗せてくれれば、気分が上がっていいプレーを見せてきた。

 ブラジル人のような気質があり、監督の信頼をモチベーションに戦うことができる、誰かのためにファイトできるプレーヤーだった。それゆえ、代表で不慣れな1トップに指名されても、一生懸命にこなした。

「最初は『自分が1トップ?』って感じでした。でも、1トップでも『ずっと前で張っていろ』とは言われず、わりと自由にやらせてくれた。岡田さんが評価してくれたのは、決定力というよりもボールを奪われない力があること。前線でボールをキープし、時間を作るプレーをすごく評価してくれた。

 それに、うしろにはシュンさん(中村俊輔)やヤットさん(遠藤保仁)がいて、いいボールが出てくる。こういう人たちと『クラブで一緒にやりたかなったなぁ』と思いましたし、僕はすごくやりやすかったです」

 玉田は、そのまま"岡田ジャパン"の主力となって、南アフリカW杯アジア最終予選を無事に突破した。

 だが、W杯本番を前にして、チームは勢いを失っていた。テストマッチでも敗戦を重ねて現地入りした。

 岡田監督はこの時、システム、戦術、メンバー、そしてキャプテンまで代える決意を秘めていた。

 玉田の肩には、冷たい風が吹き始めていた。

(文中敬称略/つづく)◆玉田圭司が振り返る南アフリカW杯での苦悩>>

玉田圭司(たまだ・けいじ)
1980年4月11日生まれ。千葉県出身。習志野高校卒業後、1999年に柏レイソル入り。2002年のシーズン後半から多くの出場機会を得て、以降は主力として定着。2004年には日本代表入りを果たす。その後、2006年に名古屋グランパスに移籍し、2010年にクラブ初のリーグ制覇に貢献した。その間、日本代表でも活躍し、2006年、2010年と2度のW杯に出場。2021年に現役を引退。現在は現役最後に所属していたV・ファーレン長崎のアンバサダー兼アカデミーロールモデルコーチを務めるなど、指導者として日々奔走している。