私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第21回
ブラジルW杯での悔しさを糧にして~青山敏弘(2)

◆(1)「難しくなっている」青山敏弘がブラジルW杯コートジボワール戦で前半から感じていたこと>>

 2014年ブラジルW杯の初戦、日本はコートジボワールと対戦し、本田圭佑のゴールで先制。1点をリードして前半を終えた。

しかし、日本の強みである左サイドの攻撃を相手に封じ込まれて、その打開策として後半9分、長谷部誠に代えて遠藤保仁を投入。2点目を狙いにいった。

 一方、1点ビハインドのコートジボワールは反撃に転じるため、後半17分にエースのディディエ・ドログバを投入してきた。すると、チームのムードがガラッと変わった。スタジアム全体も大きく沸き立って、異様な雰囲気となった。

 ベンチで戦況を見守っていた青山敏弘は「ここで、ドログバか」と思った。

「コートジボワールはドログバを出すことで、(ゲームの)雰囲気や状況を変えたいと思ったんでしょうね。実際、(ドログバが)入ったことで、スタジアムがすごく盛り上がって雰囲気が一変した。(コートジボワールも)攻撃のスイッチが入って、スピードアップしていくのを感じました。

 自分らは我慢の時間だったんですけど、その後、すぐに追いつかれて、突き放されてしまった。世界レベルの選手の存在感は『強烈だな』と改めて感じました」

 ドログバが入った2分後、日本は同点弾を許し、さらにその2分後に勝ち越しゴールを奪われた。流れが一気にコートジボワールに傾いて、日本は明らかに混乱していた。

 青山は、いざ自分がピッチに入った場合のことを想像しながらゲームを見ていた。

「(一変した試合を)見ていて、(日本は)かなり厳しい状況にありました。でも僕は、代表での試合経験が少なかったですし、あそこまでイケイケのアフリカのチームと対戦したことがなかった。だから、自分が入ったら何ができるのか? 正直なところ、あまりイメージできなかったですね」

 アフリカのチームは一度調子に乗ると、手がつけられなくなる。この時のコートジボワールもまさにそうで、ドログバの登場と逆転劇で勢いづき、パワーアップした前への推進力によって、日本自慢の攻撃を制した。

 日本はそのまま1-2で敗れ、初戦を落とした。

「初戦の負けは痛かったです。相手に力で持っていかれたような試合で、負け方も強烈だった。試合後、選手からは前向きな言葉も出ていたし、初戦を失ったショックを感じさせないムードを作ろうとしていましたけど、やっぱりちょっと(チームの)雰囲気が変わってしまいました。

 自分たちのサッカーができず、結果を出すことができなかったのは、このあとのことを考えても大きかったと思います」

 そうした状況にあって、青山は複雑な心境でいた。

「このチームは攻撃がメインで、どんな強豪相手にも撃ち合って戦ってきた。そうやって結果を出してきた選手が多かったこともあって、攻撃的な姿勢を貫くというメンタルのブレはなかったです。

それは(前回の2010年)南アフリカW杯と異なり、『攻撃的に戦って結果を出さないといけない』という意識がみんな、強かったというのもあったと思います。

 でもそれが、(初戦に敗れて)偏った方向にいったというか......。次の日の練習から(それまでのチームとは)雰囲気が変わってしまった。"我慢強く戦う"という意識が薄れて、"とにかく攻撃して点取る"みたいなムードになり、本来よかった攻守のバランスが崩れているなって思いました」

 とりわけ攻撃陣は、初戦を失い、グループリーグ突破のための得失点差も考えて「2点、3点、取って勝つぞ」という意識へと一気に傾いていった。

 サッカーにおいて、どんな相手に対しても、攻守のバランスを欠いては勝てない。チームを率いるアルベルト・ザッケローニはもちろん、選手の誰もがそのことはわかっていたはずだ。

が、過剰に前掛かりになる攻撃陣を、もはや誰も止められなくなっていた。

 初戦を落とすと、グループリーグ突破は困難になる――そのことを誰もが理解しており、2戦目のギリシャ戦は、絶対に勝たなければならない試合になった。

 日本は中盤で攻撃を組み立てる香川真司を外して、大久保嘉人を先発で起用。前線の枚数を増やして得点力アップを図ったが、その攻撃はなかなか機能しなかった。

 さらに前半38分、退場者を出したギリシャが戦略を変更。引いて守りを固め、ドロー狙いにシフトしたことで、日本は余計に決め手を欠いた。

後半から遠藤を入れ、日本はより攻撃的に出たが、ゴールは遠かった。

 ベンチに控えていた青山は、初戦とは違って、自分がピッチに入った時のプレーがイメージできていた。

「相手に退場者が出て、(日本が)一方的に攻める展開になったけど、相手にしっかり守られていたので難しい状態でした。でもだからこそ、(自分が試合に)出たかったですね。勝負どころでいきたかった。何ができるのかは別として、この試合は『自分が一番いける』『一番やれそうだな』と思っていましたし、チャレンジしたいという気持ちが強かった」

 その後、日本は香川も投入したが、ギリシャの厚い守りに跳ね返された。ジリジリと時間だけが過ぎていって、ピッチはもちろん、ベンチも焦りの色が濃くなっていった。

「なかなかチャンスを決めきれなかった。1点でも入っていれば終わっていたと思うんですけど、それをさせないギリシャのしたたかさがあった。守り方を知っているな、というのはすごく感じました。

 そこをどうこじ開けていくのか、どう攻めるのか、ちょっと難しかったですね。最終的には自分たちの特徴であるパスワークでの打開を諦めて、パワープレーが多くなってしまって......。それが、その時の最善の選択だったかどうか、僕にはわからないですけど、試合が終わるまでずっと『(自分を)出してほしい』と思っていました」

 日本は最後までギリシャの守備網を崩せず、0-0のドローに終わった。相手よりひとり多い状況にありながら、1点を奪うことさえできなかった。あれほど攻撃力を磨いてきたにもかかわらず、結果を出せなかったことのショックが、試合後に整列した選手の表情からも見て取れた。

 日本は2試合を終えて、1分け1敗の勝ち点1。グループリーグ突破のためには、最終戦のコロンビア戦に勝って、コートジボワールが引き分け以下、という厳しい状況に追い込まれた。

 青山はW杯という舞台で、"自分たちのサッカー"をやる難しさを改めて感じていた。

「"自分たちのサッカー"というのを突き詰めて、自信を持ってやってきたけど、それができなかった時にどうすればいいのか。僕の経験では、その答えを見つけるのはすごく難しかった」

 窮地に立たされた日本は、一段と攻撃的な思考が強まった。練習でも両サイドバックが上がり、より攻撃偏重のスタイルへ移行。攻撃時には、センターバックの今野泰幸吉田麻也しかいない状態になっていた。

 チーム内に殺気立った空気が流れるなか、青山はザッケローニに呼び出された。移動の前日だった。ザッケローニに「Ready?(用意はいいか)」と聞かれた青山は、即座に「Yes」と答えた。青山はコロンビア戦での「先発があるな」と思った。

青山敏弘がブラジルW杯で痛感した「自分たちのサッカー」の限界...の画像はこちら >>

 迎えた3戦目のコロンビア戦。青山は山口蛍ではなく、キャプテン・長谷部とのダブルボランチでスタメン出場を果たした。それまで、山口とは何度もコンビを組んで、ザッケローニからも高い評価を受けてきたが、長谷部と組んだのは2013年9月のグアテマラ戦以来だった。

 ともあれ、グループリーグ最強の相手と決勝トーナメント進出を賭けて戦えることに、青山の気持ちは高ぶっていた。

 試合は、前半17分にPKで失点。格上のコロンビアを相手に、2点を奪って勝たなければならない厳しい状況に追い込まれた。

「先制点を取られて......、勝たないといけなかったので、早く追いつきたかった。そのため、ボールを早く動かしていくというのを考えていたんですが、攻め急いでしまい、行ったり来たりする展開になり、コロンビアのペースになってしまったんです。

 ハセさん(長谷部)には、『おまえならもうちょっとボールを持てるだろ』と言われたんですが、気持ちが前へ前へとなって、タテに入れすぎてしまった。ボランチとして、チームを落ち着かせてゲームをコントロールするのがすごく難しかった」

 コロンビアは想像以上に個のレベルが高かった。おかげで、相手に長くボールを持たれる厳しい時間が続いた。

 しかし前半終了間際、岡崎慎司のゴールで同点に追いついた。

「すごくチームが盛り上がりましたね。でも、僕はすぐに気持ちを切り替えた。コートジボワール戦と同じく、後半が勝負だなって思っていたからです」

 そして後半、ピッチに出ると、スタンドから大きな歓声が上がった。青山が相手のベンチを見ると、コロンビアの若きエースが出陣の準備をしていた。

(文中敬称略/つづく)◆青山敏弘が指摘するブラジルW杯での惨敗の理由>>

青山敏弘(あおやま・としひろ)
1986年2月22日生まれ。岡山県出身。作陽高3年時にサンフレッチェ広島の特別指定選手に登録される。卒業後、そのままサンフレッチェ入り。以降、サンフレッチェひと筋でプレー。2012年、2013年、2015年と3度のリーグ優勝に貢献し、その際はベストイレブンにも選出された。日本代表メンバーとしても活躍。2014年ブラジルW杯に出場した。