Jリーグ30周年・特別インタビュー
北澤豪が語るJリーグ創世記の思い出(後編)

◆北澤豪・前編>>Jリーグ誕生秘話「スパイクの裏に特注で鉄板を入れて...」

 1993年のJリーグ開幕を現役選手として迎えた北澤豪さんは、2002年までピッチに立った。Jリーガーとして10年間プレーしたあとは、メディアでの活動と並行して日本サッカー協会(JFA)の特任理事や国際委員を務め、国際協力機構(JICA)や国連UNHCR協会と連携して社会貢献活動に取り組んできた。

 現在はJFA参与とフットサル委員長の肩書を持ち、日本障がい者サッカー連盟の会長も務めている。その視線はサッカーを多角的にとらえ、日本社会におけるサッカーの在り方にも向けられている。

◆北澤豪1993年→2023年「今昔フォトギャラリー」(10枚)>>

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サッカーを通して様々な社会貢献活動に取り組む北澤豪さん

── Jリーグ開幕から30年。最初の10年は選手として、その後の20年はピッチの外側からサッカーに携わってきました。

「競技者だった当時は、Jリーグの歴史を作っていくぞ、という思いが一番強かったですね。あとはどうやってPRをしていくか。

それによってマーケティングの範囲が広がってくる、というところまで意識していました」

── 開幕直後の環境の急変に対する戸惑いは?

「僕自身はあまりなかったですね。Jリーグが開幕する前年のナビスコカップあたりから、お客さんが増えていくのを実感しながらプレーできるのは幸せでした。

 プロ化されてサラリーが増えるとかいうこと以前に、お客さんが増えてくれることが単純にうれしかったですね。というのも、僕は高校卒業後に本田技研へ入社してサッカーを続け、そのあとに読売サッカークラブへ移籍してプロ化を迎えたので」

── いわゆる社員選手からのスタートでした。

「企業スポーツからのスタートです。日本の社会構造としてはありだと思っていたけれど、スポーツの発展を考えると難しいところはあるかな、とも思っていました」

「10年後もカズさんには現役でプレーしてほしい」北澤豪が考えるJリーグの未来図「アジア支援、SDGs、障がい者、高齢化…」

日本代表での北澤豪氏(左)と三浦知良(右)

── プロにふさわしい高いレベルのサッカ--を観客に提供しなければいけない、という思いもあったのでは。

「それについては、Jリーグ開幕とともに来てくれた外国人選手、外国人監督の存在が大きかったですね。それから、GKコーチやフィジカルコーチのような専門的なスタッフが増えました。用具係もそうでしょう」

── ホペイロと呼ばれる用具係はヴェルディが先駆けでした。

「当時は『どうなの?』という感じでした。日本的な教育で言うと『自分のことは自分でしなさい』という感じになる。でも我々としては、スパイクについた芝や泥を落とす時間もサッカーに注ぎたい。

そのためにホペイロがいる、という考えです。

 ホペイロがスパイクをピカピカに磨いて、練習着からユニフォームまできちんと管理してくれる。それに感謝をして練習に取り組む、という姿勢も生まれました」

── メディカル系のスタッフも増えましたね。

「チームドクターはJリーグ開幕以前からいたかもしれないけれど、フィジカルコーチがいてトレーナーがいて......という感じではなかったですね。Jリーグ開幕による大きな変化と言えば、育成もあげられるでしょう」

── Jリーグのクラブは育成組織を持つことが義務づけられました。

「ヴェルディの前身の読売サッカークラブには育成組織があって、僕もそこの出身だけれど、ほかの企業チームはなかったでしょう?」

── 横浜F・マリノスの前身の日産自動車も育成組織を持っていましたが、読売クラブほどには力を入れていなかった印象です。

「育成組織を持たないということは『あなたたちの組織の中長期プランはどうなっているんですか?』ということですよね。会社の福利厚生ならそれでもいいかもしれないけれど、クラブとして歴史を積み重ねていくためには、人を育てていかなければいけない。

 そうすると、指導者養成も必要になってくる。さらに言えば、クラブの在り方がプロの発想になっているのか、経営戦略を立てているのか」

── Jリーグは「地域密着」「地域貢献」を打ち出してスタートしましたが、ホームタウンと双方向の関係になるまでには、やはり時間を必要としました。

「スタート時は親会社とか企業の力を借りながらで、当時はスポンサーだったけれど、今はパートナーという位置づけになっている。協同しましょう、ということですよね。

 振り返って考えると、Jリーグはサッカーの競技力向上だけでなく、スポーツ文化の振興とか国民の心身の健全な発達を理念として掲げている。そういう理念があるからこそ、クラブは地域に根づいていく必要があった。

 企業もまた、根づかないといけなかった。プロサッカーというスポーツ産業が生まれて、走りながら考えて、気づきながら取り入れて、育ってきた30年じゃないかな、と感じます」

── 北澤さん自身は引退後、セカンドキャリアは一貫してフロント側に立っていますね。サッカーとは直接的な結びつきが見えにくい活動にも積極的に取り組んでいます。

「たとえば、アジアの途上国支援は『日本サッカーがアジアの代表であるなら何をするべきか?』といった視点からも考えていて、JICAを通してアジアへの指導者派遣の仕組みを作りました。

 アジア全体のレベルを上げていかないとJリーグは孤立してしまうし、ワールドカップにつながる強化にもならない。アジアの横のつながりを広げていくための活動を、引退後はずっとやってきました」

── アジアの国々で活躍する日本人指導者は増えていますね。

「アジア各国の代表チームで、日本人が監督を任される時代になりました。アジアのレベルが上がれば、いい選手がJリーグに来るような動きが出てくる。ヨーロッパや南米の外国人選手の目線も、アジアに向けられてくる。

 アジアが世界のサッカーの中心になれば、ワールドカップで優勝することだって夢じゃない。僕がやっている活動は、ワールドカップ優勝を意識したものなんです」

── そこまで大きな視点に立っていたとは!

「僕は障がい者サッカー連盟の会長をしていますが、ドイツは知的障がいのワールドカップをやったら満員になる。日本はどうでしょう?」

── 満員は......難しいでしょうね。

「うまいサッカー、すごいサッカーだけでなく、"人の心を動かすサッカー"が見たいわけじゃないですか。そうしたら、日本代表でも知的障がい者でも、同じマインドで見ることができないといけない。そういう国にならないといけないと思っているので、障がい者サッカーに関わっているんです。

 誰もが楽しめるという目線でサッカーを考えるようにならないと、ワールドカップでは優勝できないかもしれない。Jリーグのクラブが障がい者のチームを持つことは、その第一歩かもしれませんね」

── なるほど。

「それはフットサルも同じで。僕はJFAのフットサル委員長もやっていますが、ブラジルでは11歳まで100パーセントの選手がフットサルをやっている。それによって『サッカー王国』と呼ばれる国のレベルが築かれている。日本はどうかと言うと、まだまだサッカーと同じ目線で見られないところがある」

── たしかに、そのとおりですね。

「ブラジルは、フットサルもビーチサッカーも強い。自分なりの日本サッカーの将来設計として、そうなるべきだと思っています。シニアになってもサッカーができる場所がないといけないし、障がいを抱えた人でもサッカーができる国にならないといけないでしょう」

── 北澤さんの活動を聞いていると『スポーツで、もっと、幸せな国へ。』というJリーグの100年構想が思い浮かんできます。

「そこは追っているつもりです。自分の社会貢献活動は、2001年にまとめられたMDGsの8項目に落とし込まれるようにやってきて、MDGsからSDGsへ継承された今は17の持続可能な開発目標を意識しています」

── その視点とサッカーが、どのように結びついていきますか?

「SDGsには『貧困をなくそう、飢餓をゼロにしよう』という目標がありますが、日本国内では経済的な貧困を目の当たりにする機会はなかなかない。しかし海外へ出ていくと、貧困や飢餓がはっきりとした形で目に入ってくる国がある。

 海外でプレーする選手たちは、日本とは違う社会があることを敏感に察知している。川島(永嗣)くんや長友(佑都)くんと障がい者サッカーの話をすると、ものすごく理解を示してくれる。そういう選手が増えている。サッカーを通したグローバルな視点は大事だな、と思いますね」

── お話を聞いていると、やりたいことがたくさんありそうですね。

「高齢化がこれだけ進んでいるのだから、高齢者の方に人生のやり甲斐を持っていただくために、シニアのトップリーグがあってもいいかもしれない。Jリーグのレフェリーはある年齢になるとJリーグの舞台から下りるけれど、まだまだ稼働できる人的資源を使わないのはもったいない、というのが個人的な意見で。

 時代の流れに合わせて、年齢でカットするという発想は持たないほうがいい。大切なのは、サッカー界をどうやって発展させていくか。そのためには、今あるものをどうやって生かしていくかを考えるべきでしょう。」

── 北澤さんの考えるJリーグの未来図については?

「僕らの子どもたちの世代がJリーガーになってきて、10年後には3世代にまたがっているかもしれない。僕らの世代にとっての孫の世代が、プロ選手としてピッチに立っているはず。そうするとまた、違う価値観が入ってくるでしょう。

 かつての僕が刺激を受けたように、違う価値観を取り入れて新しいものを想像していってほしい。そのうえで、ここからの10年とか20年は、社会課題の解決にサッカー界、スポーツ界がこれまで以上に積極的に取り組んでいくべきでは」

── スポーツを通した社会課題の解決には、すでにJリーグも各クラブも取り組んでいますね。

「日本国内で言えば、少子化や高齢化はもちろん、地方の過疎化や介護といったものも考えていくべきでしょう。環境問題にしても、スタジアムへの交通手段を考えることが解決策のひとつになる。自家用車での来場を控えてもらえば、温室効果ガスを減らすことにつながります。それから......」

── それから?

「10年後もカズさんには現役でプレーしてほしいですね(笑)」

── 親交の深い北澤さんから、ぜひお願いをしていただければ。

「僕が何か言わなくても、カズさんなら続けているような気がしますけれどね(笑)」

<了>


【profile】
北澤豪(きたざわ・つよし)
1968年8月10日生まれ、東京都町田市出身。修徳高から本田技研工業サッカー部を経て1991年に読売クラブへ加入。圧倒的なスタミナを武器に「中盤のダイナモ」としてヴェルディ黄金時代を支える。日本代表58試合3得点。2002年に現役引退後はサッカー解説者を務めるかたわら、サッカーの普及活動にも尽力中。現在は日本サッカー協会参与、フットサル・ビーチサッカー委員長、日本障がい者サッカー連盟会長。