両手を突き上げ、紺碧の空を仰ぎ見る彼女の胸に去来したのは、歓喜か、感慨か、それとも安堵だったろうか──。

 身をひるがえし、大きく息を吐き出すと、パートナーのティム・プッツ(ドイツ)とかたく抱擁を交わした。

 全仏オープン、混合ダブルス優勝。それは加藤未唯にとって、いくつもの「チャレンジ」と「精神的な困難」を経た末にたどり着いた、このうえない大会のフィナーレだった。

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表彰式でようやく笑顔を見せた加藤未唯

 女子ダブルス3回戦での出来事は、もはや詳しい説明は不要だろう。試合のポイント間に加藤が相手コートへ返したボールが、バウンドすることなくボールガールに当たる。これが"危険な行為"と見なされ、失格となった。

 この時点で、あるいは混合ダブルスの出場権も、剥奪されたかもしれない。

ただ、大会側やWTA(女子テニス協会)の配慮もあり、混合ダブルスには引き続きの出場が許された。

 混合ダブルスの3回戦が行なわれたのは、女子ダブルスで失格となった翌日。しかも試合が組まれたのは、前日と同じコートだった。

 試合の準備を進めながらも「もう日本に帰りたい」の思いに襲われる。同時に「それではいけない。同じコートで試合をしてこそ、自分のプラスになる」と、己を鼓舞する声も胸に響いた。

 葛藤の末に、最終的に勝ったのは後者の声。それでも前日は食べるものも喉を通らず、試合の日も「朝のアップの時まで気持ちが入らない」状態だった。

 その時、加藤に寄り添い、「長いハグで気持ちを整えさせてくれた」のが、パートナーのプッツ。

「本当に、彼には助けてもらって感謝しています」

 そのような言葉を、彼女は今大会中に、幾度も口にした。

 人間性も、そしてプレー面でも加藤が全面的な信頼を寄せるプッツだが、ペアを組むのは実は今回が初めて。それどころか、ふたりは直前までそれぞれ違うパートナーと組むはずだった。

【運命の1分で誕生した急造ペア】

 混合ダブルスの出場登録は大会会場で行なわれ、ペアを組む2選手のランキング合計値で出場の可否が決まる。そこで選手たちは、カットラインのあたりをつけてパートナー選びをするのだが、実際のところはフタを開けてみなければわからない。

 そして今大会は、混合ダブルスに出場する選手のレベルが、例年よりはるかに高かった。出場登録デスクの前では、予定していたパートナーとでは出場できないことが判明し、途方にくれる選手たちが溢れたという。

 加藤も、そしてプッツも、そのような当てが外れた面々のひとりだった。

「僕はもともとベルギーの女子選手と組む予定だったんですが、彼女とでは(出場枠に)入れないことがわかったんです」

 柔和な笑みを浮かべ、3カ国語を操るドイツ人は、流暢な英語で説明する。

「もう締め切りの1分前。

これは入れないな......と途方に暮れていたら、ミユも同じように立っていたんです。ミユはサンダー・ジレ(ベルギー)という選手と組むはずだったんですが、やはりふたりも入れないという。

 そこでサンダーは、親切にも『よかったらミユと組んだらどう? そうしたら入れるよ』と僕に言ってくれたんです。僕らは、その時が初対面。そこでミユのほうに向かっていくと、彼女が最初に僕にかけてくれた言葉は『あなたのランキングは?』だったんだ」

 ユーモアなその語り口に、会見室が笑いに包まれる。「結果オーライ」の急造ペアが誕生したのは、文字どおりの"ラストミニット"だった。

 今になって振り返ると、それは加藤にとって、"運命の1分"だったかもしれない。

 1回戦の時点で加藤は、まずはパートナーのダブルスの腕前に驚かされた。プッツの巧みなフェイントに、自分が引っかかってしまったほどだという。

 2回戦では、プッツの高いコミュニケーション力と、紳士的な振る舞いに感嘆する。チェンジオーバー時にベンチに座っていると、日よけの傘を差すボールキッズに「僕はいいから、彼女を日陰にしてあげて」と気を遣ってくれたという。

【彼がずっと助けてくれた】

 そして、3回戦──。

 加藤にとってもっともつらく、ゆえにもっとも大事だったこの試合を切り抜けた時、加藤は「心地よくプレーさせてくれた」と、パートナーへの謝意を真っ先に口にした。

 準決勝に勝利した時も、加藤はまだ「試合を楽しめていない」と視線を落とす。

 その彼女が、縦横にコートを駆け、男子選手のストロークにも身体ごと飛び込みボレーを決める"らしい"プレーを発揮したのが、対ビアンカ・アンドレースク(カナダ)/マイケル・ヴィーナス(ニュージーランド)の決勝戦だった。特に、第1セットを失い、迎えた第2セットの中盤頃から見せ場が続いた。

 並走状態で迎えた第9ゲームで、2019年全米オープン単優勝者のアンドレースクがボレーをミスして「あー!」と落胆の声を上げるのを、加藤は反撃の機と捉える。快足を飛ばしてドロップショットを拾い、頭上を越そうとする相手の返球をスマッシュで叩き込んだ。

 このゲームをブレークすると、続くサービスゲームではパートナーの緊張を察し、自ら仕掛けてセットを奪うボレーを叩き込む。

 10ポイント先取のマッチタイブレークでも、立ち上がりからボレー、そしてスマッシュと、加藤の小柄な身体が宙を舞った。これまで「ずっと助けてくれた」プッツを最後は加藤が牽引するように、ふたりはフィニッシュラインを駆け抜けた。

 テニス大会の慣例である、表彰式でのウイナースピーチ。

 加藤は「英語があまり得意ではないから...」と少し恥ずかしそうに笑い、用意してきた紙を取り出した。

 パートナーのプッツ、女子ダブルスパートナーのアルディラ・スチアディ(インドネシア)、コーチ、そして励ましの声を届けてくれた世界中の人たち──支えてくれたすべての人々に、あふれる感謝の思いを述べる。

 そして、失格試合の対戦相手には「またいい試合をしましょう」と呼びかけ、ボールガールに「無事でいてほしい」の願いを送った。

 この優勝で加藤が手にしたのは、歓喜か、感慨か、それとも安堵だったろうか。

 表彰式を終えたあとの加藤は、ボールを当ててしまったボールガールのもとを訪れ、彼女が無事コートに戻っていることを喜んだ。

「私の父も、ボールキッズをやっていたんです」

 少女からは笑顔とともに、そんな言葉が聞けたという。