7月1日、神戸。ヴィッセル神戸のアンドレス・イニエスタが、Jリーグでのラストマッチを戦っている。

北海道コンサドーレ札幌戦の57分に交代で退くときには、ピッチに向かって深々とお辞儀をした。

 イニエスタは日本人以上に、日本人のようだった。その日本人とは「古き良き日本」とも言い換えられる。礼節を重んじ、責任感が強く、和を大事にする。退団セレモニーでは、三木谷浩史会長が、殿様から家臣に下賜するように名刀を贈呈していたが、なんだか妙に様になっていた。

「スペインを遠く離れて、家にいるような気持ちにはなかなかならないものです。

しかし、神戸ではそれを感じられました。みなさんが示してくれた愛情やリスペクトに感謝しています」

 イニエスタはセレモニーでもそう言って、ひたすら敬意を示した。

「2018年に神戸へやってきて5年。このクラブを大きくする、という約束は果たせたと思います。皆さんにも私のように、このユニフォームに誇りを持ってほしい。今日は別れの日になりましたが、『アディオス(さようなら)』とは言わず、『アスタ・ルエゴ(またね)』と言うことにします。

日本に戻って来たいし、ここは我が家ですから」

 あらためてイニエスタが神戸、日本サッカーに残したものとは?

イニエスタが5年間で神戸に残したもの 「バルサ化」の夢ではな...の画像はこちら >>

試合後のセレモニーで歓声に応えるアンドレス・イニエスタ(ヴィッセル神戸)

「アンドレス(・イニエスタ)ほど、負けたあとに悔しがっている選手はいない。温厚な見かけだから、わからないかもしれないが、負けを憎んですらいるよ。そういう選手だからこそ、高みにたどり着けた」

 かつて神戸を率いたフアン・マヌエル・リージョ監督はそう語っていた。

 FCバルセロナとスペイン代表であらゆるタイトルを勝ち取ってきたイニエスタの「常勝精神」は、神戸というノンタイトルだったクラブにとって、革命的な刺激だった。チームメイトが勝利後に満足した表情を浮かべていると、スペインで「ドン」の敬称で呼ばれるイニエスタは周りを叱咤した。

「このチームに入団してから、まだ3連勝がない。

勝ち続ける。そうやって上位を目指し、タイトルの可能性が出て、アジアチャンピオンズリーグ(ACL)にも結びつく。バルサでは最高16連勝した。最後のシーズン(2017-18シーズン)は、1敗しかしなかった」

【日本サッカー界に示したもの】

 イニエスタの"勝者の啓発"は大きかった。

 2019年シーズンには早くも成果が出る。天皇杯で優勝。

クラブ史上初のタイトルとなった。それによってACL出場権も手に入れた。1年半で、強さの土台ができたのだ。

 2020年シーズンにはスーパーカップで横浜F・マリノスと激闘を演じ、3-3からPKでしぶとく勝利している。PK戦のトップで蹴ったのはイニエスタで、見事に決めた。たて続けにタイトルを獲得した。

 常勝精神の真骨頂は、アジア制覇を目指したACLの戦いで出た。イニエスタの体調は最低だったが、強行出場で決勝トーナメントに導いている。さらにベスト8に進むゴールも記録。準々決勝ではケガを押して出場し、PK戦でキッカーを務め、ベスト4躍進の立役者になった。鬼気迫る勝利への執念がチームを奮い立たせた。

 その後、全治4カ月と診断される重傷は代償だろう。

 しかし、イニエスタは蘇った。2021年シーズン、序盤はケガで不在ながら、復帰後は大車輪の活躍で、クラブ史上最高順位の3位に押し上げた。イニエスタ自身、2度目のベストイレブンにも選ばれている。

 日本サッカー全体に、イニエスタは本物の価値を示した。棒切れのような足で、細身の体にもかかわらず、わずかなタイミングのずれと圧倒的ボール技術で、簡単に相手と入れ替わる。キックひとつも幻術のようで、最後の瞬間までキャンセルできるだけに、守る側は軌道が読めない。試合のたび、サッカーの奥深さを表現した。掛け値なしにJリーグ史上最高の選手だった。

 ひとりイニエスタの影響を受けた選手の名前を挙げるとするなら、2018年から3シーズン半をともに過ごした日本代表FW古橋亨梧になるか。

 古橋はもともとスプリント力が際立っていたが、高いレベルでプレーする経験が乏しく、荒削りだった。それがイニエスタからパスを受け取ることで、最上のタイミングを体に染み込ませた。サミュエル・エトー、ダビド・ビジャ、フェルナンド・トーレスといった名だたるストライカーから「最高のパサー」と言われたイニエスタからのレッスンは極上だった。

【「まだやれる」という自負も】

 結果、古橋は移籍先のセルティックでもすぐ結果を叩き出し、昨シーズンは得点王、MVPにも輝いている。

 2022年に古橋が退団すると、徐々にイニエスタは孤立していった。大迫勇也武藤嘉紀が復調して影響力を増し、前線からのプレッシングとカウンターを駆使した戦いに変更。イニエスタがいると、どうしてもプレスに綻びが出てしまい、全体のラインが下がり、浮いた存在になった。

「バルサ化」

 そんなお題目は有名無実と化した。

 2023年シーズン、イニエスタには居場所がなくなっていた。

「この数カ月は難しい時間を過ごしてきました。ピッチでプレーするために最善を尽くしてきましたが、監督にとって答えは『ノー』だったということで、ここでプレーを続けるのは難しいと判断しました」

 札幌戦のイニエスタは試合勘の鈍さを露呈させていた。ワンツーひとつとっても味方と合わない。ほとんど前を向いてボールを触れなかった。

「スーパーマンはいないので、4、5カ月も試合をしていないと、最高のレベルを出すのは厳しいです」

 無念そうに語った彼は、「まだやれる」という自負があるのだろう。その執着こそ、彼を世界最高の選手にした。負けを認めたら終わりだ。

 ゴール裏のサポーターから大歓声を受けたイニエスタは、自画像の垂れ幕を見つめながら目元を拭った。5年間という在籍期間は短くはない。ふたりの子供も生まれた。渦巻く思いがあったはずだ。

 セレモニーの最後、チームメイトから胴上げされた。イニエスタに敬意を払わない選手はいない。8度、宙を舞った。その光景こそ、彼が日本に残した集大成だったかもしれない。

 新天地は未定だ。