私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第24回
「8人の明神」と称された男の知られざる苦悩~明神智和(3)

◆(1)明神智和はボコボコにやられたフランス戦後「出ないほうがよかった」と落ち込んだ>>

◆(2)明神智和「ピッチに立って戦いたい...とはまったく思わなかった」のはなぜか>>

 2002年日韓W杯、グループステージを首位で通過した日本代表。決勝トーナメント1回戦のトルコ戦に向けて調整を進めていくなかでアクシデントが起きた。

 ストライカーの柳沢敦が首痛でトルコ戦の出場が絶望的になったのだ。明神智和と柳沢は1997年ワールドユースで一緒に戦ってから親交を深め、代表チーム内では一番仲がよかった。

「グループリーグ突破を決めたあと、ヤナギ(柳沢)が首を痛めてトルコ戦(の出場)が無理になったんです。本人のことを思うと残念でしたし、チームにとっても痛かった。

 練習で誰が代わりになるのかなって思っていたら、西澤(明訓)さんが1トップで、(2列目に鈴木隆行に代わって)アレックス(三都主アレサンドロ)が起用されることになった。西澤さんについては、力があることはみんながわかっていたので、何ら問題はないという感じだったんですけど、アレに関しては『えっ? アレが!?』って感じで、ちょっとざわつきましたね(笑)」

 2002年6月18日のトルコ戦、試合会場となる宮城スタジアムは雨だった。

 前線のメンバーが代わって、どうなるのか。明神は「選手間では動揺はなかった」というが、それまでとは若干違う空気を感じていた。

 試合の入り方において、それまで高い集中力で隙を見せなかった日本だったが、トルコ戦は開始早々の前半12分、セットプレーから先制点を許した。

「早い時間での失点だったので、大きなダメージとかはなくて、僕はむしろ『これから』という気持ちのほうが強かったですね。でも、時間が経過するごとにトルコのしたたかさがすごく感じられて、逆に自分たちは『うまくいかないなぁ』という焦りが強くなっていくのを感じていました。

 それは、自分たちの流れが悪いからというよりも、トルコがそうさせていたからです。

だから、なかなか攻め手がなくて、狙いを絞れなかった。僕らは『トルコの力を見誤ったな』と思いましたね」

 右ウィングバックでプレーしていた明神だが、後半からは稲本潤一に代わって出場した市川大祐が右ウィングバックに入り、明神はボランチのポジションに入った。

「ボランチになってから、試合の流れを変えられるようなプレーをしたかったんですけど、攻撃面ではそれができず......(自分は)まだまだ力が足りないと痛感させられました」

 試合は後半も淡々と進んでいった。そして、そのまま試合終了のホイッスルが鳴り、日本は0-1で敗退。ベスト16でW杯の冒険を終えた。

「う~ん......なんか終わってしまったなという感じで、(力を)出しきって終わった感はまったくなかったです。

ツネさん(宮本恒靖)とかは、マツ(松田直樹)を上げてパワープレーにいくとか、戦術変更を考えていたようでしたが、僕はそれすらも思いつかなかった。

 ただただトルコのしたたかさが目について、『このチームに勝つのは容易じゃない』と試合の途中で思ってしまった。その時点で負けですよね」

明神智和が「トルコの力を見誤った」と語る日韓W杯 トルコ戦で...の画像はこちら >>
 雨に濡れ、涙を流す選手が多いなか、明神も込み上げてくるものがあった。

「寂しかった、ですね。こんなすばらしいチーム(での戦い)と、こんなにすばらしい大会が終わってしまった。もう同じメンバーでW杯を戦えないのは、本当に残念でした。

試合後、もっとやれることがあったんじゃないかとかいろいろと考えたんですが......、やっぱりトルコは強かったです」

 明神にとって、世界を相手に3試合を戦って得られた経験は、サッカー選手としての成長を促すものだった。守備はもともと強かったが、自らに改めて必要だと感じたのは、攻撃力だった。トルコ戦でボランチに入った時、その力のなさを思い知らされた。

 それゆえ、ボランチの稲本が2試合で重要なゴールを決めたことは、大きな刺激となった。明神は点が取れるボランチこそ、今後のスタンダードになることをW杯の試合から感じ取った。

「このW杯が終わってからは攻撃を、すごく意識するようになりました。

トルコ戦の後半、僕もミドルシュートを打ったんです。でも、あまりヒットしなくて、枠にいかなかった。

 そういうシュートを最低限枠に飛ばす、さらに決めるというのが世界に出て行く選手。(シュートを外した時に)『その差だな』って思いましたね。これからは、『守備はできて当たり前。攻撃面で得点やアシストなど、目に見える結果を出していかないといけない』と思いました」

 2002年日韓W杯から2年後の2004年シーズン、攻撃への意識を高めた明神は柏レイソルで5ゴールをマーク。

その評価はまた一段上がり、点が取れる怖いボランチに変貌した。

「ワールドカップの舞台で悔しい思いをして、自分に足りないところを突きつけられたけど、年齢に関係なく、そのことを意識して練習していけば『変われるんだなぁ』って思いました」

 W杯での戦いを終えて、ボランチとしての迫力を増していった明神だが、日韓W杯直後はすぐに次のドイツW杯へ、というふうに切り替えることはできなかった。

「W杯が終わったあと、少しオフをもらって(所属の)チームに合流したんです。でも、オーバートレーニング症候群みたくなったりして、調子がもうひとつでした。そういうこともあって、自分の体をどうにかしないといけないという気持ちが強く、すぐに4年後のことを考えることはできなかった」

 2006年ドイツW杯を目指す日本代表は、ジーコが新指揮官として招聘され、新しいチームが立ち上がった。日韓W杯組の選手が多数メンバー入りし、明神も徐々に「自分も」という気持ちが強くなかった。

 2003年6月、フランスで開催されたコンフェデレーションズカップの時に初めてジーコジャパンに招集された。しかし、明神に試合出場の機会は訪れなかった。

「ジーコジャパンになって、2003年のコンフェデの時に呼ばれましたけど、試合にはまったく出られなくて、少し腐っていました。チームは、技術レベルの高い選手が多く、ジーコもそういう選手が好きそうでした。だから、『自分みたいなタイプはあまりいいとは思っていないんだろうな』って、勝手に思い込んでいました。

 そのせいか、練習でもいいパフォーマンスを発揮できなくて......。試合に出ればやれる自信はありましたし、代表にも『ずっと呼ばれたい』と思っていたんですが、コンフェデ以降、呼ばれなくなった。そこからは、自分の頭のなかから代表が離れていって、(所属の)チームのことに専念、みたいな感じになっていきました」

 テレビで見る日本代表は、ともに戦ってきたメンバーが数多くいて、世界の強豪といい勝負をしていた。その際、明神の胸に去来するのは、かつてのメンバーからどんどん遅れていく、という怖さと悔しさだった。

「当時、テレビで(日本代表の)試合を見ていましたけど、ほんと複雑でしたね」

 ドイツW杯が開催される2006年シーズン、明神はアカデミー時代から所属していた柏レイソルを離れ、ガンバ大阪へ移籍した。

「2002年W杯の代表メンバーがどんどん成長しているなか、自分が成長するためには『環境を変えないといけない』と思いました。ガンバでは、ヤット(遠藤保仁)やフタ(二川孝広)をはじめ、うまい選手がたくさんいて、自分のよさを引き出してもらえた。そうしているうちに、攻撃する楽しさがわかってきて、またひとつ、サッカー選手として成長できたなと思いました」

 明神はガンバで主力としてプレー。数々のタイトル獲得に尽力した。その後、2016年に名古屋グランパスに移籍し、2017年にはJ3の長野パルセイロへ移籍。2019年シーズンを最後に、現役を引退した。

「(引退の際に)現役への未練はまったくなかったです。シーズン途中で引退を決めて、最終戦を迎える時は悲しくなるのかなって思っていたんですけど、笑顔で終われた。自分では『やりきったな』という思いでしたね。

 その後、(ガンバのアカデミーで)コーチをしていますけど、プレーヤーとして『サッカーをしたいな』とか、『ピッチに入りたい』とか、そういった感情が芽生えることもなく、むしろ『もう体を動かしたくないな』みたいな(苦笑)。今は指導者として、いろいろと学びたい気持ちのほうが強いです」

 明神と同世代の面々は、今やその多くがサッカー指導者として活躍している。あらゆる大会やトレセンなどで、現役時に一緒に戦ってきたメンバーと顔を合わせる機会も多いという。面白いのは、現役時代よりもサッカーの話をしていることだ。

「(鹿島アントラーズユースの監督を務める)ヤナギをはじめ、U-17日本代表のコーチをしている廣山(望)や、U-18日本代表の監督になった船越(優蔵)にもよく会います。みんなに会うと、サッカーの話しかしないんですよ。現役の頃は、全然しなかったんですけどね(笑)。

『(指導している)チームはどうなの?』『どんな練習してる?』『今の子どもたちと、どう接している?』『戦術とかシステムはどんな感じ?』とか、もうサッカーの話が止まらない。でも、そういう話が楽しいですし、『サッカーっていいな』って思いますね。昔はライバルとかでしたけど、今は日本サッカー界を盛り上げていく同志みたいな感じです」

 明神は現在、ガンバユースのコーチとして育成年代の指導にあたり、今後の日本サッカー界を背負って立つ選手たちを育てている。世界で通用する選手をひとりでも多く送り出して、いずれはトップチームの指揮を執りたいと思っている。

 選手が成長するうえで、自分のことを理解し、試合で起用してくれる監督に出会うことの重要性は、明神自身が一番理解している。そういう意味では、明神にとって、フィリップ・トルシエとの出会いは非常に大きかった。

 そのトルシエから「8人の明神と3人の天才がいれば......」と言われ、絶大な信頼を得ていた明神。彼は、その言葉をどう受け止めていたのだろうか。

「それって、本人から聞いたことがなくて(苦笑)。でも、『自分のことを理解してもらえているなぁ』といううれしさがありました。

 そう言ってもらえるからこそ、その分、プレーで見せる責任があると思っていましたし、そうして使ってもらったことで、僕は成長することができた。最初はすぐに怒るし、理不尽なことをするし、『なんだ、この人』って感じでしたけどね(笑)」

(文中敬称略/おわり)

明神智和(みょうじん・ともかず)
1978年1月24日生まれ。兵庫県出身。1996年、柏レイソルユースからトップチーム入り。長年、主将としてチームを引っ張る。その後、2006年にガンバ大阪へ移籍。数々のタイトル獲得に貢献した。一方、世代別の代表でも活躍し、1997年ワールドユース(ベスト8)、2000年シドニー五輪(ベスト8)に出場。A代表でも2002年日韓W杯で奮闘した。国際Aマッチ出場26試合、3得点。現在はガンバユースのコーチを務める。