箱根駅伝で駒澤大・藤田敦史監督が「三本柱」を1区から配置した...の画像はこちら >>

駒澤大・藤田敦史監督インタビュー前編

 出雲駅伝と全日本大学駅伝を圧勝し、箱根駅伝では1万m27分28秒50の佐藤圭汰(2年)を筆頭に、鈴木芽吹(4年)、篠原倖太朗(3年)という1万m27分40秒未満の自己ベストを持つ三本柱を擁し「1強」と評されていた駒澤大。史上初の2年連続学生駅伝3冠の可能性は高いと見られるなか、箱根本戦では三本柱を1区から3区に並べて先手を取る作戦に出た。

しかし、勝負をかけた3区で青山学院大にトップの座を奪われ、その後、一度も主導権を握り返すことはできなかった。往路新記録の5時間18分13秒、総合でも10時間41分25秒の大会新記録で逃げきった青学大に、6分35秒差の2位に終わった。

 長年チームを指導してきた大八木弘明総監督からチームを引き継ぎ、今季から指揮を執る藤田敦史監督は、箱根初陣を終えて何を思うのか。あらためて今季の戦いぶりを振り返ってもらった。

【同じメンバーで戦おうとしすぎた】

――箱根駅伝前は、準備や選手のコンディション含めてどのような状態だったのですか。

「中大さんみたいに体調不良者が続出したわけでもなく、16人、10人と良い状態の選手を揃えるかを考え抜き、実際に揃えられたと思っています。体調管理を徹底しつつも体調不良者が出ることも想定に入れ、練習の持って行き方や取り組みなどを考えながら実践していったので、悪くはなかった。

ここがダメだったなっていう大きな課題は見当たらないので、そんなに悪くなかったと思っているんですが......」

――青学大との違いを感じた部分はどこですか。

「ひとつ言えるのは、三大駅伝をやっていく中でうちは三つ取るつもりでいたけど、青学大は箱根にフォーカスして準備していたことです。それが前提にある上で、もうひとつ、自分で振り返って感じたのは、青学大と比べて選手層がそこまで厚くなかったこと、限られたメンバーだけで3冠を達成しようとしていたことです。出雲と全日本まではギリギリの状態でも成績を出せたので良かったんですが、その後、全日本でアンカーを走った山川拓馬(2年)が股関節に痛み出て1カ月ぐらい練習ができず、さらに(全日本5区区間2位の)伊藤蒼唯(2年)もインフルエンザに罹り、いざ練習再開となった時に足に痛みが生じて11月中はほとんど練習ができなかった。青学大では、例えば、田中悠登(3年)選手がダメだったら別の選手に代えられると思うけど、今のうちだとそこまでの選手層がつくれなかった。そこが一番の課題ではなかったかと思います。

また、箱根のレース展開でいえば、今の選手たちは記録会慣れしているので先頭に出ても昔のようにひとりで走れないわけではなく、(放送局の)中継車をペースメーカーにしてドンドン逃げていってしまう。そう考えると、青学大を往路で逃がしてしまった時点で、もう厳しかったというところです」

【"三本柱"を1区から並べた意図】

――三本柱を1区から3区まで配置したのは、万全を期す思惑だったと思いますが、篠原選手を4区に配置するのではないかという見方もありました。

「当初のプランとしては、篠原の4区ももちろん考えていました。出雲と全日本は使わなかったけど、(当初1区の配置だった)白鳥哲汰(4年)の状態が良かったので白鳥、芽吹、圭汰、篠原、山川で往路を考えていた。ただ、全日本が終わったタイミングで山川に不安が出て11月は練習ができなくなった時に、"これは金子伊吹(4年)を(5区で走れるよう)作り込んでいくしかないな"と考えました。2年前の5区区間4位の金子はこの4年間でも一番状態が良かったですし、今年の山(の戦い)はレベルが高くなる前評判もあったので、悪い状態で山川を5区で勝負させたくなかった。上り(のコース)では股関節に負担がかかるのでちょっと怖いなと。

だからわりと早い段階で金子の5区を考えていました。

 金子は、結果的には前回大会の山川ぐらいで走ってくれたのでよかったんですけど(1時間10分44秒・区間3位)、山川と比べると不安はあった。5区に金子を置くことでチームとしても『お前たちが貯金をつくるんだよ』という意識を持たせて篠原と芽吹、圭汰を並べて少しでもリードを稼ぎ、万全ではないとはいえ山川も4区ならしのいでくれるという思いがあって、あのオーダーにしました。でもその目論見は3区で逆転されたので、私の見通しが甘かったということです」

――青学大のように"しのぐ1区"ととらえ、2区の鈴木選手から勝負をかけるという選択肢はなかったのですか。

「それも考えました。1区で多少遅れたとしても1分以内で収めてきたら、芽吹の2区なら1時間6分30秒は硬いという見通しがあったからです。

そこで前に出て圭汰でズドンと行くイメージはありました。ただ、芽吹にとっては初めての2区だったんですね。私も2区を2回走っていますが、2回目の方が圧倒的に走れるんです。権太坂まではある程度力を使わずに行き、上り終わってからの下りから力を入れて、上りが続く最後の3kmはもう根性で粘るということは、実際に1回経験したことでわかる。でも芽吹は初めてだし、彼の勝ち気な性格からすると前半突っ込んでしまって最後は打ち上がる(ペースダウンする)かもしれないという心配もありました。

 だから篠原を1区に置いて確実に先頭で行けば、芽吹も落ち着いて入れると考えていたのです」

【5区を軸に考えたゆえの往路オーダー】

――鈴木選手が追う展開を避けたかったことも大きな要素だったと思いますが、全体的には5区を中心に往路の戦い方を考えていたことがわかります。

「そうですね、5区を軸に考えていました。金子は結果的には区間3番で走っているけど、今年の5区は68分台の争いになる可能性も秘めていました。彼も22年に走った時は1時間11分だったから、もしそのタイムならそこで3分やられる計算になる。そうなった時にどう対応するかを考えると不安もありました。山川も11月に練習を中断したとはいえ、状態は上がってきていたので、彼を復路という選択肢は出てこなかった。それに篠原も単独走よりも集団走や下り基調のほうが本領発揮できるので、タイプ的には1区か3区。

そうなると3区は間違いなく単独走が得意な圭汰になるので、適材適所を考えたら、やっぱり篠原1区となりました」

――5区を金子選手と決めた時点で、自信を持って往路に起用する選手となると、山川選手を含めた4人しかいなかったということですね。

「そうなんです、そこの選手層の薄さですね。ただ、それは、出雲、全日本と戦っていく中でも、すごく感じていました。出雲も勝ちましたけど、ひとりでも主力が故障していたら厳しかったですし、全日本も同様でしたけど、赤津勇進(4年)、花尾恭輔(4年)など戻ってきた選手たちがいたのでまだ戦えたという印象です。ただ、箱根は『ひとりでも欠けたら厳しいな』というのは頭の片隅にはありました。それで11月に入って山川と伊藤がちょっと練習できなくなった時に、"これはちょっとまずいな"という感じで......。

 幸い11月下旬ぐらいで目処が立ってきて練習も始められたので、「あのふたりなら1カ月あればなんとか戻せるかな」と見ていたのですが、やっぱり付け焼き刃でやっていた部分もあった。山川は寒いのが苦手だったので、そういう条件面でも味方しなかったですね。4区は雨や寒い中でのレースとなったので、結局寒くて動かずに突っ込めずに、気持ちばかり焦ってしまってどんどん差が開いた感じでした。いろんな面で味方してくれなかったなという感じはします」

――2区の鈴木選手も3区の佐藤選手も、最初の5㎞通過は14分0秒くらいでしたが、もう少し速く入るという考えはなかったのですか。

「それは想定どおりですね。2区にしても3区にしても、最初に突っ込みすぎると2区なら最後の3kmで止まったり、3区なら海岸出てからちょっと止まったりする可能性があります。そこは大八木(弘明・総監督)からも『あまり突っ込み過ぎるな』とも言われていたので。ただ、青学大があまりにもよかったですね」

――青学大の黒田朝日選手は2区の序盤から集団などを使ってレースを進めていたと思えば最後に一気にペースを上げ、気づいたら駒大の鈴木選手との差を13秒も詰めていました。

「あれは本当にうまかったなと思いますね。黒田選手は初めての2区なのにそんなに突っ込まずに来て、ラスト3kmで勝負かけてきたじゃないですか。そこからみるみる詰まってきた感じなので、あれはちょっと、してやられたなっていう感じです。だから振り返ってみると、選手層しかり、戦術しかり、区間配置しかり、いろんな面で劣っていたと感じています」

後編〉〉〉藤田敦史監督インタビュー「今度はうちが」

【Profile】藤田敦史(ふじた・あつし)/1976年、福島県生まれ。清陵情報高(福島)→駒澤大→富士通。1995年に駒澤大に入学。前監督の大八木弘明(現・総監督)の指導の下、4年連続で箱根駅伝に出場。4年時には箱根4区の区間新記録を樹立。1999年に富士通に入社し、2000年の福岡国際マラソンで当時の日本記録をマーク。世界選手権にも2回(1999年セリビア大会、2001年エドモントン大会)出場。現役引退後は、富士通コーチを経て、2015年から8年間、駒澤大のヘッドコーチを務める。2023年4月に駒澤大監督に就任し、1年目は出雲駅伝、全日本大学駅伝で共に優勝。箱根駅伝は総合2位。