野球人生を変えた名将の言動(13)

掛布雅之が語る吉田義男 前編

(連載12:「打撃の神様」川上哲治の指導法 V9時代の巨人の5番・末次利光は「ボールだけしか見えなかった」瞬間があった>>)

 指導者との出会いが、アスリートの人生を大きく変える。阪神の主砲として本塁打王3回、打点王1回など数々のタイトルを獲得。

1985年には球団初の日本一に4番打者として貢献した掛布雅之氏は、3度にわたって阪神の監督を務めた吉田義男氏との出会いが自身の野球観に大きな影響を与えたという。
 
 インタビュー前編では、サードのレギュラーポジションを得た時の心境や、衝撃を受けたという吉田監督の"攻める守り"に関するエピソードについて聞いた。

若き日の掛布雅之が驚き 阪神の監督になった吉田義男が実践した...の画像はこちら >>

【吉田監督から「サードを守ってもらうから」】

――掛布さんが吉田監督に初めて会ったのは、プロ入り2年目のシーズンの1975年。吉田監督が1回目の阪神の指揮官を務めた時でしたが、最初の印象は覚えていますか?

掛布雅之(以下:掛布) 僕は高卒(千葉・習志野高)でプロに入って2年目。とにかくがむしゃらでしたから、吉田監督がどんな方なのか見る余裕もなかったですね。とにかく「この方の下でやっていくんだ」という思いだけでした。

 あと、吉田監督が"牛若丸"の愛称で呼ばれ、球史でも屈指の名遊撃手であることは聞いていました。

今のようにYouTubeなどで映像を見られる時代ではありませんので、「いったいどんな守備をしていたんだろう」と、すごく興味を持っていましたね。

――掛布さんはプロ1年目で一軍デビューを果たし、1、2年目は佐野仙好さんとサードのポジションを争っていました。

掛布 そうですね。2年目のシーズン前半は佐野さんと併用される形で試合に出ていました。それと、一軍守備コーチの安藤統男さんにサードの守備を徹底的に鍛えられたのですが、それが吉田監督の意向であると聞いた記憶があります。

 転機になったのは、オールスター期間中の出来事です。

練習中、吉田監督に「シーズン後半からサードを守ってもらうから」と言われたんです。つまり、レギュラーとして起用していくということですね。

――それを言われた時はどんな気持ちでしたか?

掛布 「実力でサードのポジションをつかみ取った」と言えるほどうまくはなかったですが、それでも激しいポジション争いを経てチャンスをいただけたという意味では、"与えられたポジション"ではありませんでした。だから「もう、このポジションは誰にも渡さないぞ」という思いでしたね。吉田監督から言われた「サードを守ってもらうから」という言葉はインパクトがありましたし、今でも忘れられません。その言葉をきっかけに、阪神のサードのレギュラーとしての野球人生がスタートしたわけですから。

【あれほど"攻めダルマ"な監督はいない】

――吉田監督はご自身が名遊撃手だったこともあり、守備に関しては厳しかったですか?

掛布 厳しかったですし、キャンプを通じて徹底的に守備をしごかれましたね。僕はキャンプで、"守る野球"のことだけしか考えていませんでした。あと、吉田監督は包み込むようなボールの捕り方を嫌うんです。常に「ボールを攻めろ、攻めろ」と。「攻めて捕って、ボールを殺せ」と言うんです。

 同じくショートの名手だった広岡達朗さんは、どちらかというとボールを包み込むように捕るタイプのショートだったという話を聞くのですが、吉田さんの場合は包み込むのではなく、目の前ですべてのプレーを完結させるんです。

――具体的に、どういうことですか?

掛布 自分の目の前でボールを捕って、目の前でボールを放すようなイメージです。

自分の目が届かないところでのプレーがないので、ボールを捕ってから投げるまでが早いんでしょう。

 それと、吉田さんも1回目の阪神の監督を務められた時は若かったので、実際に守備の動きを目の前で見せてくれたのですが、めちゃくちゃうまいんですよ。ボールがグラブに入った瞬間に右手に持ちかえていましたし、難しい当たりも簡単にさばいていました。

 何よりも驚いたのは、二盗を刺す時の走者へのタッチです。キャッチャーの送球を捕った瞬間に、走者にタッチしている感じでした。動きが軽やかで無駄がないんです。

見ていて惚れ惚れしましたし、もう芸術品でしたね。

――"攻める守り"を実演してくれたわけですね。

掛布 目の前で見せられると説得力が違いますね。藤田平さんも「カケ(掛布氏の愛称)、よっさん(吉田氏の愛称)は『攻めろ、攻めろ』って言い続けるからな」と言っていました。とにかく攻める守りをチームに浸透させていました。「野球の攻撃は、守りから始まるんだ」「打つことだけが攻撃ではない」と念を押されました。

 守備にしろ攻撃にしろ、野球のすべてにおいて、あれほど"攻めダルマ"な監督はいないと思います。「すべてを攻撃的なリズムでやれ」ということ。大人しくて沈着冷静な印象を持たれることもあるようですが、内に秘めた闘志はすごいですし、誰よりも攻める気持ちは強いですよ。

――「攻める守り」という発想は、もともと掛布さんの中にもありましたか?

掛布 いや、そういう発想はなかったので衝撃的でした。なので、攻める守りをしなかった選手は怒られるのですが、積極的に動いた結果としてのミスに対しては、選手を責めることがありません。「むやみやたらと前に出ろ」ということではないのですが、とにかく攻めろ、ということです。

――守りのミスで、吉田監督に怒られてしまったエピソードはありますか?

掛布 いや、僕はそんなに怒られるタイプではなかったんです。意外と優等生な感じでやらせていただきましたんで(笑)。とにかくサードに打球が来たら、向かっていく。その姿勢だけは常に意識して守っていましたね。

【選手を「大人」として扱っていた】

――掛布さんに対する吉田監督の評価が高かったということかもしれませんね。ちなみに、吉田監督が1回目の監督を務められた時と2回目とで、違いを感じることはありましたか?

掛布 2回目の監督に就任された1985年、僕はちょうど30歳になるシーズンだったのですが、選手たちを「大人」として見てくれていたような気がします。自分自身が責任を持たないとダメだぞ、と思わされるような環境を作ってくれました。

――自主性を尊重してくれたということですか?

掛布 そうです。例えば、遠征に行って連敗が続いてチームの雰囲気が悪い時などは、吉田監督のほうから「門限無しだぞ」と言ってくれたり。外出などに関しては基本的に自由にしてくれていましたし、僕らのことを信頼してくれているんだなと。選手を自由にさせることは、監督としてすごく勇気のいることだと思うのですが、僕らは意気に感じて頑張ろうと思い ましたし、より責任感を持てるようになりました。

 吉田監督が1回目の監督をされていた時は、僕も若かったのでがむしゃらでしたし、吉田監督と話す機会はほとんどありませんでした。ただ、1985年は自分がチームの中心選手になっていて、吉田監督と話す機会もありました。その時に感じたのは、すごく選手のことを考え、大人として見てくれているということでした。

 僕が30歳で真弓(明信)さんが32歳、ランディ(・バース)が31歳、オカ(岡田彰布氏の愛称)が28歳、平田勝男が26歳でしたが、僕だけでなく、そういったレギュラーの選手たちをすごく信頼してくれていたと思います。

(中編:岡田彰布監督と吉田義男監督の共通点「守り重視」と「起用法」>>)

【プロフィール】
掛布雅之(かけふ・まさゆき)

1955年5月9日、千葉県生まれ。習志野高校を卒業後、1974年にドラフト6位で阪神に入団。本塁打王3回、打点王1回、ベストナイン7回、ダイヤモンドグラブ賞6回、オールスターゲーム10年連続出場などの成績を残した。球団初の日本一になった1985年は不動の四番打者として活躍。1988年に現役を引退した後は、阪神のGM付育成&打撃コーディネーター、2軍監督、オーナー付シニア・エグゼクティブ・アドバイザー、HANSHIN LEGEND TELLERなどを歴任。野球解説者や評論家、YouTubeなど活躍の場を広げている。