2023年の日本はWBC優勝に始まり、バスケのW杯では48年ぶりに自力での五輪出場権を獲得、ラグビーのW杯でも奮闘を見せた。様々な世界大会が行なわれ、スポーツ界は大いなる盛り上がりを見せた。

そんななか、スポルティーバではどんな記事が多くの方に読まれたのか。昨年、反響の大きかった人気記事を再公開します(2023年3月2日配信)。

※記事内容は配信日当時のものになります。

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2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。

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パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
~HAKONE to PARIS~
第12回・吉田祐也(青学大―GMO)前編

「選手寿命を縮めるとしか思えない練習」月間1200キロを走っ...の画像はこちら >>
 吉田祐也のマラソンデビューは、衝撃的だった。

 青学大卒業間近の別府大分毎日マラソンで並み居る実業団選手を置き去りにして総合3位、日本人トップの2時間8分30秒の記録をマークした。現役引退のラストレースだったはずが、図らずも現役続行を決める人生最大の転機となり、今も吉田は走り続けている。あれから3年、吉田の視線の先には、何が見えているのだろうか──。

 まず吉田の人生を大きく変えた青学大への進学。青学大に決めたのは、シンプルな理由からだった。

「青学大を含め3大学から声をかけていただきました。

青学大に決めたあと、他の強豪校からも声がかかっているぞと言われて(苦笑)。その監督とは面識があったので、最初に聞いていたら悩んでいたかもしれないですね。最終的に青学大を選んだのは、僕がミーハーだったからです(笑)。田舎の高校でしたし、当時は箱根駅伝を最終目標にしていたんですが、青学大は高2の時に初優勝して輝いて見えました。どうせやるなら一番強いチームに入って刺激を受けて競技をやろうと思って青学大に決めました」

 吉田が入学した2016年当時、青学大は箱根駅伝2連覇を達成し、チームは箱根3連覇、大学駅伝3冠を目標に掲げていた。安藤悠哉主将をはじめ、一色恭志(現GMO)、田村和希(現住友電工)、下田裕太(現GMO)らがおり、大学トップレベルのチームだった。

「チームには意気軒昂として入ったんですけど、すぐに心が折れました。僕はインターハイも都大路も経験していないですし、レベル的には北関東レベルの選手だったんです。でも、部内は都大路やインターハイで優勝しているとか、強豪校でキャプテンをしていたとか、高校のトップクラスの選手が集結していました。レベルが高くて、入った当時はまったく歯が立たなかったんですが、強い選手と一緒に生活しているだけでもすごい刺激になりました」

【練習できているのに、なんでダメなんだろう】

 1年時、青学大は出雲、全日本を制して2冠達成。同期の鈴木塁人(現SGホールディングス)は出雲に出走し、1区5位と堂々とした走りで大学3大駅伝デビューを果たした。吉田は4年間で一度は箱根駅伝を走りたいと思っていたが、チームが次々と駅伝を制覇していくなかで気持ちに変化が生じてきた。

「塁人が出雲に出て活躍したり、チーム内で駅伝の選考をしていたり、山上りをやっているのを見ていると、2年目から3大駅伝のどれかには絡みたいという気持ちが自然と出てきました」

 2年時、同期の鈴木、竹石尚人を始め、1年生の神林勇太ら有力なルーキーが台頭し、吉田は駅伝を走るチャンスを得られなかった。

吉田が駅伝の舞台を踏むのは、3年の全日本大学駅伝まで待つことになる。

「初めて駅伝に出るまで長かったですね。僕は、故障して長期離脱することはなかったんですが、逆に練習ができているのにレースで結果が出なくて......。可もなく不可もなくみたいな結果が多く、一発当てるみたいなレースができなかったんです。練習できているのに、なんでダメなんだろうってすごく考えました。ただ、他のチームのエースと比較するとなんかひと押し足りないというのも感じていて、そこは何が足りなのか、すごく悩みました」

 練習ができているのに結果が出ないことは往々にしてあることだ。

しかし、同じ練習を積んでいる選手が結果を出していることもあるので、「なぜ?」という気持ちが大きくふくらんでいった。練習では他の選手と同じレベルで走れていても、いざ駅伝になると吉田の名前は外れた。

「もうひと押し足りないのが一体何なのか、わからないままでした。箱根もそうですが、僕はいつも11番目の選手だったので、監督の目には、駅伝に出すには不安要素があると思われていたんだと思います。実際、自分では認めたくなかったですけど、他の選手と自分を並べてみると、自分でもこの選手のほうが強いよなって思っていたので納得するしかなかったですね」

【3年時は当日変更で箱根駅伝出走ならず】

 3年時、実りの秋が訪れる。5000mは4度自己ベストを更新、秋の全カレ(全日本インカレ)の1万mで日本人トップの3位に入賞するなど、一気に表舞台に躍り出た。

「全カレは、練習の一環みたいな感じで出たんですが、暑くて湿度が高いなかのレースになり、先頭集団の選手が落ちてきたんです。

それを拾っていくなかで日本人トップになれたという感じでした。タイム的にはかなり遅かったんですが、レースに勝てたこと、監督に評価してもらえたのがすごく大きかったですね。吉田は大舞台、強いんだなっていう印象を監督に与えられたことで、全日本大学駅伝の出場につながったんだと思います」

 吉田は、監督の信頼をつかみ、全日本大学駅伝に出走。5区区間賞で、優勝に貢献した。

「全日本を走れたことは正直、箱根を走った時よりもうれしかったです。3大駅伝を走りたいと思っていたなかで、初めての駅伝でしたし、区間賞を獲れて優勝できた。一生忘れないでしょうね」

 全日本大学駅伝での快走は、通常であればそのまま箱根駅伝につながる。全日本は箱根の前哨戦とも言われ、そこに出走する選手は体調不良や故障でもないかぎり、箱根を駆けるケースが多い。吉田も結果を出せたことで、箱根が現実的に見えてきていた。畳み掛けるように全カレ3位で出場権を得たオランダ・ナイメーヘンの15キロレースに出場し、10位になった。

「このレースで鈴木健吾(神大―富士通)さんと変わらぬタイムで走れたので、箱根も走れる自信がありました。でも、同時期に行なわれた世田谷ハーフで岩見(秀哉・現住友電工)、飯田(貴之・現富士通)ら後輩たちの結果がよくて、雲行きが怪しくなってきたんです。最終的に監督がどっちを選ぶのかというと、ハーフをきっちり走れていて、一発当てられる選手を優先するだろうと。そうなると自分が箱根を外れるかもしれないと思っていました」

 吉田は、箱根駅伝のエントリーメンバーの16名に入り、10区を言い渡された。だが、箱根駅伝の復路、吉田は当日変更で鈴木塁人と入れ替わった。

「当日変更は、レースの2日前に言われました。それまでどっちつかずの状態で待たされていて、2日前に替えられるのは本当にイヤでしたね。これは長く続いてきたことですけど、当事者になるとやっぱり気持ちの負担がすごく大きいんです。実際、僕はそこで心が折れてしまいました。ただチームは2度目の3冠、箱根5連覇を目指していたので、そこでどうこう言って雰囲気を悪くするわけにもいかない。だから、自分の気持ちを必死に引っ込めていましたね。結局、優勝できず、自分の気持ちも折り合いがつかず、2月まで折れた気持ちを引きずってしまいました」

【原晋監督を見返したいと一致団結】

 4年になり、鈴木塁人が主将になった。

 新体制後の4年生ミーティングでも吉田の気持ちは落ち込んだままだった。だが、同期の仲間が「1年間、一緒に頑張ろうぜ」と声をかけてくれたことで気持ちが前向きになった。そうしてスタートをきったが、鈴木塁人ら4年生がなかなか結果を出せず、原監督と衝突することが増えた。

「僕らの代は、いろいろ悩みましたね。監督からは、レースを走る度に怒られました。練習は引っ張っていけるんですけど、結果が出ないので、監督から『4年生がこんな結果で』みたいなことをいつもミーティングで言われたんです。僕ら4年生は、いつか見返してやろうと思っていたので、それが団結する源になっていったんだと思います」

 吉田にとっては、高校時代から思い描いてきた大学4年間で1度、箱根駅伝を走るという目標はラストチャンスになった。そのため、のちに「練習の虫」とも言われるようになる誰もが驚くような練習量を自らに課した。

「最後だからぶっ壊れてもいいからとりあえずやろうと考えていました。夏合宿ではフリーの日、朝90分ジョグ、昼に12キロ、午後に90分ジョグをして、月間で1200キロぐらい走っていました。今考えると選手寿命を縮めるとしか思えない練習ですが、そうして地道に距離を踏むのが自分には合っていたんです。チームとしても僕がそれだけ走ることで監督から『吉田と飯田(貴之)があれだけやっているんだから、お前たちもやるんだ』とチームを奮い立たせる感じで言っていたので、そういう面でもよかったのかなと思います」

 その努力が報われ、8月の終わりには箱根駅伝の4区を言い渡された。

 そして、目標の舞台に立ったが、吉田はほとんど記憶がなかった。

「4区をどういうふうに走ったのか、ほとんど記憶がないんです。応援に来てくれた友人はわかったんですけど、監督車からの監督の声とかもほとんど耳に入らなくて......。手を上げたり、そういう反応は無意識のうちにしていたんだと思います。ほんと、必死でした」

 終わってみれば、相澤晃(東洋大―旭化成)が出したタイムを24秒も縮める区間新で、チームをトップに押し上げる走りで優勝に貢献した。1度きりの箱根だったが、その経験はその後の陸上人生に、どんな影響を与えたのだろうか。

「4年の時にラストチャンスだと思って夏合宿に追い込んで練習をしたんですけど、それでも故障せずに大丈夫ということがわかって結果にもつながった。それがあったから今、実業団でも充実したトレーニングができています。僕にとっては、それを知れたことが箱根を走ったうえでの大きな収穫になりました」

 箱根駅伝後、吉田は別府大分マラソンを駆けた。箱根のために夏合宿でハードな練習を課して、こなしたことがマラソンの脚作りの土台になった。

「自分がやってきたことが間違っていなかったことを証明することができたのでよかったです」

 その自信をもって、吉田はGMOで競技生活を継続していくことになる──。

後編に続く>>「世界を目指すというのが恥ずかしく思えてきた」大迫傑の練習に衝撃