■『今こそ女子プロレス!』vol.17

里村明衣子インタビュー前編

 真っ赤な和風のガウン、オールバックの髪、太い眉――。風格ある佇まいに、観客は息を呑む。

大きなパフォーマンスをするわけではない。ただ彼女がゆっくりと歩くだけで、会場の空気が一変する。入場だけで、彼女は試合を"支配"してしまう。

 里村明衣子――。圧倒的な強さを誇り、「女子プロレス界の横綱」と呼ばれるレスラーである。男子レスラーとも対等に闘い、時に勝利することもある。

センダイガールズプロレスリングの代表取締役でありながら、2021年、世界最大級のプロレス団体・WWEとコーチ兼選手契約を結んだ。今や世界の"Meiko Satomura"として、その名を轟かせている。

里村明衣子が語る、15歳から始まった壮絶プロレス人生 初戴冠...の画像はこちら >>

 彼女と対戦した選手は異口同音に言う。「リングの上だと、すごく大きく見える」――。実際は157cmと、プロレスラーとしては小柄なほうだ。それがコンプレックスで、手先の動かし方や所作からコスチュームのデザインに至るまで、大きく見せる技術を追求したという。

しかし、なにより内側から湧き出る人間としての大きさが、彼女をリング上で大きく見せているような気がしてならない。

 里村に激動の半生を振り返ってもらった。彼女の生き方には、生きる上でのヒントが散りばめられている。

【家庭が荒れる中で出会ったプロレス】

 里村は1979年、新潟県新潟市に生まれた。父、母、7つ上の姉、5つ上の姉がいる。しっかり者の印象があるが、意外にも末っ子で、可愛がられて育った。

 家から徒歩5分のところに柔道場があり、姉が通っていたこともあって3歳から通い始めた。

「新潟県で一番厳しい道場」と言われるだけあって、3歳の里村も厳しい稽古をさせられた。嫌々ながら週2回通った。

 幼い頃から自立心が強く、ひとりで行動することが好きだった。3歳の時からひとりでスーパーに買い物に行って周囲を驚かせた。何事にも挑戦したい欲が強く、小学校1年生からピアノを始め、続けて習字、塾、陸上も始めた。月曜日から日曜日まで、毎日習い事をした。

 人との集団行動は苦手だった。保育所に行く時も「なんでここに来なきゃいけないの?」とずっと思っていた。小学校に上がっても人と接するのが嫌で仕方なかったが、1年生の時、担任の先生がダンス好きで、休み時間にダンスを教えてもらうのが楽しかった。

「人前に出ることの楽しさとか、いつか目立つ仕事がしたいという気持ちはその時に芽生えました。将来の夢は女優でした」

 保育園の時、建設業を営んでいた父は知り合いの保証人になり、莫大な借金を負った。両親もふたりの姉も、お金のことでケンカが絶えず、家庭は荒れていった。

「とにかく早く家を出たい」という気持ちが募っていった。

 家庭が荒れるなか、中学2年生の春にプロレスと出会った。姉に連れられて新日本プロレスを観戦し、ひと目でハマった。女子プロレスの存在を知らなかったため、「私が世界で最初に女子プロレスを作ってやろう」と思ったが、姉から女子プロレスがあることを聞き、レンタルビデオ屋で女子プロレスのビデオを借りた。

 1993年4月2日、全日本女子プロレス横浜アリーナ大会。里村は「女がプロレスをしても大したことないだろう」と思っていたが、とんでもなかった。

北斗晶、神取忍、豊田真奈美......。彼女たちの激しくも美しい闘いを見て、「世の中にこんなに強い女性がいるんだ!」と衝撃を受けた。

 テレビで女子プロレスのドキュメンタリーが放送された。試合の舞台裏で、新人選手が先輩の付き人として雑用をするシーンを観て、「自分もここで修行したい」と思った。

「スターになる前はこういう苦労があるんだ。スポットライトを浴びているだけじゃないんだというところにすごく感動して。ここで修行したら、人として成長できると思いました。柔道よりも、もっと厳しいことに挑戦したかったんです」

 両親には「女の子なんだから」と反対されたが、「だからやるんじゃん」と思った。人と違うことをしたいからこそ、わが道に行く。自立心の強い里村にとっては当然の選択だった。

【1カ月のうち1週間は徹夜で練習】

 1994年、長与千種率いるGAEA JAPAN(ガイア・ジャパン)の旗揚げを知る。年功序列に関係なく、練習も自由な時間に来ていいという。人数が少ないため「すぐにトップになれる」と思ったこともあり、オーディションを受けた。中学で自ら柔道部を設立し、3年生の時に県大会で優勝した里村は、トップの成績で合格した。

 1995年1月に入門。中学3年生だったが、3学期は学校に行かなくても卒業できるように、校長が教育委員会に掛け合ってくれた。

 4月15日、後楽園ホールでの加藤園子戦にて、史上最年少レスラー(15歳)としてデビュー。新人とは思えない闘いを見せ、ほかのデビューした新人たちと共に「驚異の新人」と呼ばれた。

 1980年代、社会現象を巻き起こしたクラッシュ・ギャルズのイメージカラーは、ライオネス飛鳥が青、長与千種が赤だった。クラッシュ解散後にGAEA JAPANを旗揚げした会社は、加藤に青、里村に赤の水着を着せ、"第二のクラッシュ・ギャルズ"を誕生させようと構想した。しかし、クラッシュをリアルタイムで見ていなかった里村は、「私はそれを望んでいなかった」と話す。

 クラッシュの栄枯盛衰を描いた『1985年のクラッシュ・ギャルズ』(柳澤健/文藝春秋)の中で、GAEA JAPAN3期生の広田さくらはこう言っている。「私たちは長与選手に飼われていた」――。

「飼われてはいないです。全員が団体を大きくしようとストイックになりすぎていた。月に1回の後楽園ホール大会を、最低でも満員にする意気込みでやっていて、実際に10年間、満員でした。私はあの経験をして本当によかったと思っています。今後、あの時代よりも厳しいことは絶対に経験しないでしょうから」

 2000年に公開されたイギリスのドキュメンタリー映画『ガイア・ガールズ』で、GAEA JAPANの選手たちは軍隊さながらの厳しい生活を送っていることが描かれている。里村はあの映画を観た時、「こんなもんなんだ」と思ったという。

「映画で描かれた厳しさは、実際の10分の1にも満たないくらいです。徹夜で練習しているシーンとかもなかったですけど、実際は1カ月のうち1週間は徹夜してましたから。ビッグマッチの前日は寝たことがないです。寝ずに練習しろと。試合前の準備も忙しかったので、『寝ちゃいけない』という考えが植えつけられていました」

 厳しさのあまり、新人が入っては辞め、入っては辞めていく。下が育たなかったために、里村は長与の付き人を7年間も務めることになった。

【客を呼べないチャンピオン】

 1999年、初めてのタイトルマッチに臨んだ。対戦相手はアジャコング。恐怖心を克服するために朝から晩まで練習し、自分を追い込んだ。追い込みすぎてベスト体重から7kg落ちた。試合に敗れ、長与に言われた。「対戦相手に失礼だ。それじゃ敵わないよ」――。

「とにかく、『自分の限界を更新していかなければいけない』と思っていたんです。前回の試合よりも、もっとすごいものを見せなきゃいけない。お客さんが求めるものもどんどん大きくなってくるので、それに乗っからなきゃと思って、ずっと追い込んでいました」

 観客が求めるものが大きくなると、選手はより高度な技を繰り出すようになる。それによってケガをする選手が後を絶たないが、長与はそこもちゃんと見抜いていた。

「試合で高度な技を連発すると、長与さんに言われるんです。『技を乱発したところで、お客さんは記憶にないよ』って。メインイベントが終わったあとに、その大会でお客様は何発の技を覚えているかといったら、たぶんひとつかふたつ。だから、めちゃくちゃ記憶に残るワンシーンを見せられないと、無駄な技を乱発しているだけだと」

 2001年12月15日、アジャコングとのタイトルマッチに勝利し、生え抜き選手として初のAAAWシングル王者となった。社長の友人が祝ってくれることになり、会食の席が設けられた。日本一美味しいピザ屋だという。しかし、ひと口食べた後に「美味しいです」の言葉が出てこなかった。

「美味しいって言っていいのか? 自分の感情を表現していいのか? わからなかったんです。先輩に話しかけちゃいけなかったですし、自由もなかったので。『ピザ、美味しいです』も言えないチャンピオンなんて、本当のチャンピオンじゃない。ショックでした」

 リングの上では、すべてが観客に伝わる。会社にチャンスを与えられているが、里村明衣子はまだそこまでの器じゃない――。女子プロレス人気が下降したこともあり、里村がチャンピオンになってから客足が遠のいていった。

 チャンピオンになったにも関わらず、会社の規則は厳しいままだった。里村は長与に「門限20時を廃止してください」と直訴した。自分が自由にならなければ、プロレスラーとして先はないと思った。

 世代闘争もしたが、会社は「1期生はまだ団体のトップに行かせられない」とジャッジした。ライオネス飛鳥がGAEA JAPANのリングに上がり、長与と「クラッシュ2000」を結成。全日本女子プロレスやJWP女子プロレスのレジェンドレスラーたちもGAEA JAPANに参戦するようになった。

 そんななか、頭角を現したのが後輩の広田さくらだった。強さを追い求める里村とは真逆のスタイル。へなちょこキャラとコスプレでコミカルな試合をする。長与とタッグ「チーム・エキセントリック」を組み、ブレイクした。人気も話題も広田に持っていかれ、里村は悔しくてたまらなかった。

「広田は広田で、一番下っ端で、雑用も全部任されて、本当に大変だったと思うんです。めちゃくちゃ意地がある子だから、どうにか自分の路線を開拓するために必死に考えてたんですよね。それを当時、わたしは考えられなかった」

「このままではいけない」と思っていた矢先、パチンコにハマり、さらには椎間板ヘルニアで長期欠場した。2005年4月10日、GAEA JAPANは解散を発表。瞬く間にどん底に落ちていった。

(後編:WWEに門前払い→トリプルHも絶賛でオファー増加 海外挑戦の振り返りと、日本女子プロレスの現状>>)

【プロフィール】
里村明衣子(さとむら・めいこ)

1979年11月17日、新潟県新潟市生まれ。3歳から柔道を始め、中学で自ら柔道部を設立。3年生の時、県大会で優勝する。1995年1月、GAEA JAPAN入門。同年4月15日、後楽園ホールでの加藤園子戦にて、15歳の史上最年少レスラーとしてデビュー。2001年12月15日、アジャコングとのタイトルマッチに勝利し、AAAWシングル選手権を獲得。2005年4月、GAEA JAPANが解散し、2006年7月9日、新崎人生とともに仙台サンプラザでセンダイガールズプロレスリングを旗揚げ。2011年8月、新崎人生より独立し、代表取締役に就任。2021年1月、WWEとコーチ兼選手契約を結び、6月10日、ケイ・リー・レイを下し、NXT UK女子王座を獲得した。157cm、68kg。X:@satomurameiko