セーブ制度導入50年~プロ野球ブルペン史
「幕張の防波堤」小林雅英が語るクローザーの極意(前編)

 権藤博が指揮を執り、監督1年目で横浜(現・DeNA)を日本一に押し上げた1998年。11月のドラフト会議では、のちに絶対的な抑えとなる小林雅英が、ロッテから1位指名(逆指名)された。

2005年のリーグ優勝、日本一に大きく貢献した剛腕は"幕張の防波堤"の異名をとったが、入団当初、ロッテ首脳陣は先発で期待していた。リリーフ転向への経緯から小林に聞く。

小林雅英は「打たれてもベンチのせい」という無責任の境地で抑え...の画像はこちら >>

【2年目に先発ローテーション入り】

「僕自身、先発でやっていくつもりでしたけど、そんなに甘い世界ではないと思っていました。ただ、ちょうど監督が山本功児さんに代わって、功児さんの元年のドラフト1位だということで、すごくかわいがっていただきました。開幕一軍で、すぐに中継ぎで登板しました。がむしゃらに投げるばかりでしたが、オールスター明けに『先発やってみろ』っていう話をいただいたんです」

 8月3日のダイエー(現・ソフトバンク)戦、小林はプロ初先発を果たして8回6安打1失点。上々のスタートを切ると、同14日には先発でプロ初勝利。1年目から46登板したうち10試合に先発して3完投、5勝5敗。124回1/3を投げて防御率2.68という数字を残した。

「当時は中継ぎでも2イニング、3イニングを投げていたので、1イニング1イニングの積み重ねでした。先発としての調整も練習もしてないので、そこはできないのは当たり前だと思って投げていたら、ある程度、先発という役割としては何試合か成功しましたね」

 山梨・都留高時代から速球で注目されていた小林。日本体育大時代は真っすぐとフォーク、スライダーという投手だったが、東京ガスに入社後、シュートを習得した。ただ、プロ入り後はあまりフォークを使わなくなり、緩急もなく、長いイニングを投げるには球種が少ない印象もあった。

それでも先発は務まると首脳陣が判断したのは、ボール自体に力があったからなのか。

「それもあったと思います。シュートは今で言うツーシームで、ちょっとだけずらすイメージで投げたのがよかった。僕にとって真っすぐはコントロールするのが難しいボールでしたけど、シュートは『ちょっとでも動いてくれれば』っていう安心感が増えたので、どんどん腕を振れるようになって、社会人で球速も上がったんです。それで1年目は先発でいけちゃったんですよ」

 迎えた2年目の99年。初めて開幕からローテーションに入った小林は、開幕投手の黒木知宏に次いで2試合目に登板する。ところがこのダイエー2連戦で両投手とも打ち込まれ、開幕3試合目の西武戦に先発した武藤潤一郎も、7回途中6失点と散々な内容。黒木、武藤には実績があっただけに、小林への影響は小さくなかった。

「ジョニーさん(黒木)と武藤さんが打ち込まれたからって、開幕ローテーションに初めて入る人間にいろんなことを期待されてもできるわけがないじゃないですか(笑)。それなのに『ふたりが打たれたから......』と考えすぎてしまって、『球数を投げなきゃいけない』『イニングを稼がないといけない』『きれいに抑えなきゃいけない』というように余計な思考が入ってきてしまって。変に意識してしまったんです」

 投球が窮屈になり、攻めるのではなく守りに入り、先発2試合目は5回4失点、3試合目は7回6失点で3連敗。150キロに迫っていた真っすぐの球速も140キロ前後に落ちていた。

【先発からリリーフへ】

 監督の山本は小林の二軍降格を考えていたなか、ブルペンコーチの佐々木信行が「中継ぎでもう1回チャンスを」と進言。4月25日の日本ハム戦でチャンス到来となった。

「1点負けている状況、しかも7回無死満塁の場面でポンって放り込まれて。なんでかわからないんですけど、こうしなきゃいけないっていう考え方から、がむしゃらに腕を振って、強いボールを投げて、とにかく1個のアウトを取りにいくという思考に切り替わったんです。たぶん1年目の前半から後半にかけて自然にできていたことが、先発になってできなくなっていたんだと思います」

 小林は、まず6番の田中幸雄を三振に打ちとり、つづく7番の上田佳範を併殺に仕留め、無死満塁のピンチを無失点で切り抜けた。そしてベンチに帰った時、はたと気づく。

「『あっ、これだけ一生懸命がむしゃらに1個のアウトを取りにいかないと、自分は通用しないピッチャーなんだ』と。小難しいことを考えるとか、配球云々とかじゃなくて、その時にキャッチャーと交わしたサインのボールを、しっかり投げにいく。その結果、打たれるか打たれないかのどちらかだと。0点か100点しか、結果の採点はないんだと気づいたんです。

 先発ピッチャーなら、7回3失点、6回1失点だったら、負け投手でも『ナイスピッチングだったね』って評価されて、70点、80点、90点って点数をつけられるでしょう。でも中継ぎ、抑えはそうじゃなく、0点か100点。そのほうが思考もパフォーマンスもすごくはっきりしていて、自分の性にも合っているなという気づきでもありました」

 以降、リリーフ専任となった小林は「自分のパフォーマンス、自分の思考、自分のボール」で1個のアウトを全力で取りにいくことに徹した。

それは投球イニング数も、走者の有無にも左右されなかった。

【突然のクローザー転向】

 そうして中継ぎで安定し始めた夏場、抑えのブライアン・ウォーレンが不振に陥る。不正投球疑惑などの問題もあったなか、8月17日、日本ハム戦でのことだった。

「8回を抑えてベンチに帰ったら、当時ピッチングコーチの井上祐二さんが『マサ、もう1回行ってくれ』って言うから、『えっ??』となって。『僕の気持ちは終わった』とホッとしているし、ウォーレンが行くと思っているから気持ちも切れている。『無理です。絶対に無理です』って言ったんです。そしたら『ウォーレンがこんな感じだし、いいから行ってくれ』って言われて」

 コーチからの懇願のようだが、実際には監督の山本からの指令である。「功児さんが行けと言っているから断り切れない」と、意を決した小林は井上に言った。

「じゃあ行きます。ただ、打たれようが何をしようが、僕は手を上げてあそこに向かっていませんよ。『行け』って言ったのはベンチということを、失敗した時にはちゃんとマスコミに言ってください。

お願いします」

 小林にとって初めてのセーブシチュエーションは、嫌々マウンドに上がるなど、仕方なく臨んだものだった。まして、3対2とリードはわずか1点だった。それでもなんとかゼロに抑えて、プロ初セーブを挙げたのだが、ウォーレンは前年に最優秀救援投手のタイトルを獲っている。普段からブルペンで抑え投手を間近に見て、手本にできるところはなかったのだろうか。

「結局、抑えの彼より僕が先にブルペンを出ちゃうんで、8回から9回までの過ごし方はあんまり見ることがなかったですね。ただ失敗した時は、ベンチ裏の折れたバットが積んであるところから一本持ってきて、ロッカーでそこらのモノを殴っている音が聞こえてきたり、暴れたり......そうやってスッキリして帰ってくるところは見ていましたね。

 あと登板間隔が空くと、試合が終わり、ちょっと照明が落とされたなかでランニングしたり、ブルペンキャッチャーの人と強い球でキャッチボールをしたり......そういうルーティンは見ていたんです。だからウォーレンの人間性はどうかわからないですけど、抑えという役割に対する責任感はすごく持っていた。逆に、今の自分にはそこまでできないなと。もう無責任の境地ですよね」

 抑えとなった小林は14セーブを挙げ、失敗はなし。その原動力が"無責任の境地"だった。

「チームの勝利だとか、勝ち投手の権利だとか、ほかの選手の成績とか考えていたら、もう重すぎて......絶対自分のパフォーマンスはできないと思っていました。

『ベンチのせい、俺は手を上げていない』っていう無責任の繰り返しで、2000年のシーズンは終わりました」

(文中敬称略)

つづく>>


小林雅英(こばやし・まさひで)/1974年5月24日、山梨県生まれ。都留高、日本体育大、東京ガスを経て、98年のドラフトでロッテから1位指名を受け入団。2年目以降はロッテのクローザーとして活躍。2005年は最多セーブのタイトルを獲得するなど、チームの絶対的守護神として「幕張の防波堤」の異名をとった。通算200セーブを達成したあと、MLBのクリーブランド・インディアンス(現・ガーディアンズ)に移籍。帰国後は巨人、オリックスでプレー。11年に現役を引退し、その後はオリックス、ロッテでコーチを務め、19年は女子プロ野球の投手総合コーチに就任。21年から24年まで社会人野球のエイジェックで投手総合コーチを務めた

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