空手家・佐竹雅昭が語る「K-1」と格闘家人生 第9回

(第8回:前田日明に「勝った」と思った瞬間 石井館長が激怒したリングス最後の試合の内情>>)

 現在の格闘技人気につながるブームの礎を作った「K-1」。その成功は佐竹雅昭を抜きには語れない。

1980年代後半から空手家として活躍し、さらにキックボクシングに挑戦して勝利するなど、「K-1」への道を切り開いた。

 59歳となった現在も、空手家としてさまざまな指導、講演など精力的に活動にする佐竹氏。その空手家としての人生、「K-1」の熱狂を振り返る連載の第9回は、衝撃と熱狂の第1回K-1グランプリを振り返る。

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【佐竹を中心にK-1開催が決定】

 佐竹は1992年10月29日、名古屋レインボーホールでの長井満也戦を最後に、前田日明が主宰する「リングス」から離れた。翌年1月には、無差別級のグローブルール大会「トーワ杯カラテ・ジャパン・オープン」で2年連続となる優勝。そして同年の4月30日、代々木第一体育館で開催された「K-1 GRAND PRIX '93」に出場する。

「K-1」の「K」は、キックボクシング、空手、カンフーなど、あらゆる立ち技系格闘技の頭文字。異なる格闘技の選手が一夜のトーナメントで一番を争うことから「1」がつけられ、「グランプリ」は、「F1グランプリ」から取られた。

 主催は、佐竹が所属していた正道会館。館長の石井和義を中心にさまざまなブレインが企画し、フジテレビが試合の中継、イベント開催に全面協力した。大会がゴールデンウィーク中の代々木第一体育館で行なわれたのは、同所を中心にフジテレビが総力を挙げて開催したイベント「LIVE UFO」の企画の一環として実施されたため。

 しかし佐竹は、直前まで石井館長からK-1開催の構想を聞いていなかったという。

「リングスに参戦していた時から、僕が武者修行に行ったタイ、オランダに館長も同行したことがあって。

海外のジム、プロモーターたちと会っていたので、そこでK-1をやる考えが生まれたのかもかもしれないけど、僕は聞いていませんでした。ただ、リングスに上がっている時に、館長が『佐竹、リングスはさっさとやめて自分たちで大会をやろう』と言われたことはありましたけどね」

 石井館長を中心に、格闘技関係者が企画したK-1。フジテレビが全面協力したことで大会は実現した。ただ、こうしたイベントの成功には、大衆を引きつけるスターの存在が不可欠。その中心に据えられたのが「佐竹雅昭」だった。

【周囲の励ましに「自分がやってみろよ」】

 空手界で実力を知らしめ、ドン中矢ニールセンをキックボクシングルールでKOして格闘技ファンに知られ、リングス参戦でプロレスファンにもその名が浸透した。さらに佐竹は、テレビ出演、雑誌のコラムなどで格闘技を見ない一般大衆にも名前が広がり始めていた。

「K-1」は佐竹のためのイベントと言っても過言ではなかった。具体的な話を聞いたのは、ベントが開催される1993年の4月初旬頃だったという。

「館長から『フジテレビと一緒にLIVE UFOの中でK-1っていうのをやるんだ』と聞きました。僕も格闘技の人気が出てきたことを実感していましたし、何か起爆剤になる大会があれば、さらに大ブームが起きる予感はありました。

 僕自身も、世間で人気が上がっていることは自覚していました。あの頃は、マスコミの仕事をしながらも稽古を欠かさずやっていましたし、我ながらよくやっていたと思いますよ」

 初めてのK-1には、日本の空手界から佐竹と後川聡之が、ムエタイからチャンプア・ゲッソンリットが参戦。

さらに、後にK-1を盛り上げるオランダのピーター・アーツやアーネスト・ホースト、クロアチアのブランコ・シカティック、アメリカからモーリス・スミスも出場。そこに、本職はアメフトの選手で、アマチュアボクシングのアメリカ代表候補にもなったトッド・"ハリウット"・ヘイズを加えた8人が、一夜のトーナメントで優勝を争った。

 優勝までは1日で3試合を強いられるため、試合形式は3分3ラウンド。KOも10カウントではなく5カウントというルールとなった。優勝賞金は10万ドル(当時のレートで約1100万円)だった。

 迎えた試合当日。会場の代々木第一体育館は超満員の観衆で埋め尽くされた。佐竹は、1回戦で米国のトッド・ヘイズと対戦した。

「トーナメントに関しては、空手で1日6試合といったことを何度も経験していたので、『なんとかなるだろう』と思っていました。ただ、正直なところ『勝てるかどうかはわからない』と考えていました。ニールセンとやってから3年でいろんな選手と戦ってきて、みんな強いと思っていたからです。

 1回戦の相手だった選手も、試合前には周りから『楽勝だよ』なんて言われて......僕を励ましてくれようとしているのはわかりましたが、『いやいや......自分がやってみろよ』と思ってましたよ。

案の定、闘ってみると、本職がアメフトで体はデカイし、パワーがあって強かったです。ファイターたちはみんな必死で来ますから、絶対に倒せる保証なんかないんです」

【あまりに痛かったシカティックの拳】

 周囲の期待と重圧。すべてを背負った1回戦は、2ラウンド45秒、1ラウンドから有効だった右ローキックでヘイズを倒し、準決勝にコマを進めた。相手は、出場選手のなかで最年長、38歳のシカティックだった。

 オランダのチャクリキジムに所属していたが、佐竹が同ジムへ練習に行った時にはシカティックはおらず、存在を認識していなかったという。しかし佐竹は当時27歳。11歳も上の相手だけに、スタミナでは勝てる自信があった。

「ブランコのことは知らなかったですし、試合前は『何とかなるかな』と思ったんですが......パンチがものすごく"硬い"んです。『痛ぇ! なんだこのパンチは!』と驚いて、『グローブに何か入れてるんと違うか?』と思うほどでした。あの痛さは、脳に響くというよりも、顔面を金づちで殴られたような痛さ。パンチをもらうたびに『痛い!』と思っているうちに負けていました」

 試合は3ラウンド45秒、左フックでのKO負けだった。

「あの試合で記憶にあるのは、痛かったことだけ。

あれほど痛い思いをしたのは、ブランコのパンチだけです。すさまじい破壊力でした」

 シカティックは、決勝戦でアーネスト・ホーストを1ラウンドKOで沈め、栄えある第1回大会の王者になった。戦前の主役は佐竹だったが、日本では知名度が低かったシカティックが優勝したことが、逆に強烈なインパクトを与えた。

 佐竹は、第1回大会の衝撃をこう振り返る。

「当時、ヘビー級のキックボクシングで世界最強とうたわれていたのはモーリス・スミスでした。僕も格闘技オリンピック(1992年3月26日、東京体育館)でモーリスと対戦して、パンチの当て方がものすごくうまかったんです。

 その試合は、空手ルールとキックルールのミックス試合で引き分けたんですが、あの強いモーリスが準決勝で、当時は無名だったホーストにハイキックでKO負けしたんですよ。あれは衝撃でした。『世界には、自分が知らない強敵がまだまだいるんだな』と実感しました」
 
 大会は大きな反響を呼び、翌年に第2回大会が決定する。佐竹は、リベンジを期して参戦した。

(第10回:佐竹雅昭が振り返るK-1準優勝 23歳のピーター・アーツは「めちゃくちゃ強かった」>>)

【プロフィール】

佐竹雅昭(さたけ・まさあき)

1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。

大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。

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