空手家・佐竹雅昭が語る「K-1」と格闘家人生 第10回

(第9回:佐竹雅昭のための大会、K-1グランプリが初開催 無名のキックボクサーの拳に「痛ぇ! なんだこのパンチは!」>>)

 現在の格闘技人気につながるブームの礎を作った「K-1」。その成功は佐竹雅昭を抜きには語れない。

1980年代後半から空手家として活躍し、さらにキックボクシングに挑戦して勝利するなど、「K-1」への道を切り開いた。

 59歳となった現在も、空手家としてさまざまな指導、講演など精力的に活動にする佐竹氏。その空手家としての人生、「K-1」の熱狂を振り返る連載の第10回は、第2回K-1グランプリでの準優勝を振り返る。

佐竹雅昭が振り返るK-1準優勝 23歳のピーター・アーツは「...の画像はこちら >>

【K-1に"バブル"が到来】

 1993年に開催された第1回K-1グランプリで、佐竹は優勝したクロアチアのブランコ・シカティックに準決勝で敗れた。その試合からわずか2カ月後の6月には、ドン中矢ニールセンと3年ぶりの再戦。さらに9月にはスタン・ザ・マン、12月にジェフ・フォーランス、翌年の3月にはアーネスト・ホーストと、ほぼ3カ月に1試合ペースという過酷なスケジュールでリングに上がった。

 ニールセンとの再戦からの4試合は、ホーストには敗れたものの3勝1敗。休む間もないタイトな日程は、佐竹自身はもちろん、「K-1」という新しい格闘技イベントの人気が一気に爆発したことを意味する。

 佐竹は時代の中心にいたが、心は冷静だった。

「興行が成功すると、外から新しい人を入れることになります。そういう人たちは、僕ら選手が地道に結果を残して大会を作ってきた苦労も知らないし、なかには『私のほうが偉い』みたいな上から目線で接してくることもあるんですよ。

 K-1の人気が上がれば上がるほど、スタッフはおかしくなっていきました。スタッフ同士の妬みのようなものもありましたし、そういう人たちを20代で間近に見られたことは、人生のいい勉強になりました。

人とのつき合い方を学びましたね」

 世の中はバブルがはじけて不況に突入した時期だったが、K-1にはバブルが到来していた。佐竹は海外のボクシングジムなどで修行を重ねる一方、マスコミへの露出も多くなった。

「1990年代前半は、テレビのレギュラーを週4、5本いただきました。ラジオも文化放送で『佐竹雅昭の覇王塾』という番組が日曜日の夜に始まりましたし、映画『1・2の三四郎』では主演を務めさせていただいた。

 CDも出しましたし、芸能活動という意味では、ほとんどのことをやらせていただきましたね。そんな活動を見た人のなかには『佐竹は稽古せずテレビにばっかり出ている』と言う人もいましたが、稽古は手を抜いていませんでしたよ」

 さまざまなオファーに対応するために、個人事務所も設立した。

「石井(和義)館長から『自分で会社を作れ』とアドバイスされて、館長の紹介で司法書士と相談して会社名も『有限会社ショッカー』と決めたんですが......30万円の手付金を司法書士に渡したら、持ち逃げされました(苦笑)。

 それで、僕が個人で別の税理士の先生を見つけて、ファンクラブのみんなから会社名を募集してつけた名前が『怪獣王国』。自分で事務所を借りて社員も5人雇いました。年収は億を超えましたよ」

【シカティックとの再戦は「一番いい試合」】

 そんななか、シカティックにリベンジする機会が訪れる。1994年4月30日、K-1グランプリの第2回大会が開催された。

 会場は前年と同じ代々木第一体育館。出場選手は、佐竹とシカティックに加え、オランダからピーター・アーツ、ロブ・ファン・エスドンク、アンドレ・マナートの3選手が参戦。

さらに、アメリカのパトリック・スミス、イギリスのマイケル・トンプソン、そしてスイスの空手家、アンディ・フグが出場した。

 大会の目玉は、極真会館時代に「外国人最強の空手家」とうたわれたフグの参戦だったが、1回戦でパトリック・スミスに1ラウンドKOで惨敗する。そんな衝撃の試合もあったなかで、佐竹は初戦の相手であるマイケル・トンプソンを3ラウンドTKOで下す。そして続く準決勝、前年と同じ状況でシカティックと対戦した。

「前年の試合で、彼のパンチが信じられないほど痛いことは身に染みてわかっていたので、とにかくパンチは頭で受けることを考えて挑みました」

 ガードを固め、アゴを引くことを徹底するなど防御に注力した。攻撃は、相手のパンチに合わせてローキック、接近戦になればヒザ蹴りを放った。さらに、バックブローの変則技でシカティックを翻弄。相手の右ローキックに合わせたカウンターの左フックを入れるなど、シカティックの動きを封じた。

 初めてキックボクシングの試合に挑んだ1990年6月30日のドン・中矢・ニールセン戦から約4年。佐竹は攻守ともに、グローブを着けた戦いに急速に対応していた。結果は、KOは逃したが、2-0の判定勝ちでリベンジを果たした。

「作戦も完璧にはまりましたし、ほぼ自分が思い描いた通りの動きができました。

あのブランコ戦は、僕がK-1で試合をしたなかで一番いい試合だったと思っています」

【決勝、アーツとのギリギリの試合】

 リベンジを飾ったあとの決勝戦で待ち受けていたのはピーター・アーツだった。"オランダの怪童"とも呼ばれたアーツは当時、23歳。192cmの長身を生かしたハイキックを武器に、キックボクシング界で世界ナンバーワンへと駆け上がろうとしていた時だった。

 佐竹は1992年10月4日、大阪府立体育会館での「格闘技オリンピックⅢ」でアーツと対戦し、5ラウンド引き分けに持ち込んでいた。2年ぶりの再戦も、圧倒的なパワーを誇るアーツに必死に食らいついた。

「この2年前、アーツと初めて戦った時にヒザ蹴りがすさまじくて、あばらを折られていたんです。だからこの決勝戦では、ヒザをもらわないようにと考えていました」

 その言葉どおり距離を取った1ラウンドは、アーツのパンチに合わせたローキックが効果的に入った。しかし、アーツパンチとローキックのコンビネーションに押され始めると、2ラウンドにはロープに詰められ、警戒していたヒザ蹴りを浴びた。

 佐竹もローキックで抵抗するが、手数で圧倒される。最終3ラウンドでは、パンチの連打で棒立ちになる場面もあった。ダウンこそ奪われなかったが、3-0の判定で敗れた。

「アーツはめちゃくちゃ強かった。

ヒザ蹴りをもらいたくないから、こっちは距離を取っていましたが、そうなると手が伸びてくる。パンチも蹴りも強烈でしたね。ただ、試合後に石井館長から、アーツが『逆に俺がアゴに一発もらっていたら倒れていた』と言っていたことを聞いて、そこまで追い詰めることができたのかと思いました。それくらい、お互いにギリギリの試合だったんです。

 それにしても、ブランコに勝ったと思ったら今度はアーツですよ。この連戦は、我ながら『ようやったな』と思いますよ。あの時のK-1は"怪獣"の集まりでした。ゴジラ、キングギドラ、ラドンなどが一斉に集結したような怪獣大戦争。あんな時代は、そのあとの日本の格闘技界にもなかったと思います。あれだけの選手が集まる大会を開催するのは、もう無理なのかもしれませんね。とにかく、ブランコ、アーツの2連戦は、僕のK-1でのピークだったと思います」

 優勝こそ逃したが、世界2位という結果を手にした。K-1での日本人選手の準優勝は、それから10年後の2004年に武蔵が準優勝するまで誰も成し遂げることができなかった。

佐竹は当時、世界に通じる唯一のヘビー級戦士だった。

「僕に先生はいませんでしたが、正道会館に中山猛夫師範がいてくれたおかげで強さの準値がわかったことが大きかったです。専門的なトレーナーがいたらもっと強くなっていたかもしれませんが、そこは今言っても仕方がないことです。

 何しろ、僕の前にヘビー級で世界と戦う日本人選手がいなかったわけですから。すさまじく大変な闘いの連続でしたけど『自分の信じたことを貫こう』と思っていましたし、そう言い聞かせること以外に、あのしんどい試合に挑むモチベーションを保つ術はありませんでした。本当に、命をすり減らして闘っていましたね」

 その後、K-1は大きな盛り上がりを見せることになるが、佐竹は徐々に、崩壊につながる違和感を抱き始めるようになった。

(連載11:佐竹雅昭が感じていた「K-1崩壊」の兆し ブームとともに「拝金主義になっていった」>>)

【プロフィール】

佐竹雅昭(さたけ・まさあき)

1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。

2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。

編集部おすすめ