【平成の名力士列伝:栃ノ心】手術を乗り越え時間をかけて大関に...の画像はこちら >>

連載・平成の名力士列伝42:栃ノ心

平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの人々の記憶に残っている。

そんな平成を代表する力士を振り返る連載。今回は、五輪を目指せる格闘センスを備え大相撲の世界に飛び込んだジョージア出身の栃ノ心を紹介する。

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【心が折れかかるも厳しい稽古で奮起】

 格闘技が盛んなジョージア出身で、角界入りしなければ「柔道でオリンピックに出場していたでしょうね」と話す。「1回も負けたことがなかった」という練習相手が、2012年ロンドン、2016年リオデジャネイロの2度のオリンピックで同国代表選手だったからだ。15歳でヨーロッパジュニア選手権2位、サンボにも打ち込み、こちらは17歳でヨーロッパチャンピオンに輝いている。

 恵まれた体格と抜群の格闘センスで相撲の大会にも借り出され、平成16(2004年)7月、大阪で行なわれた世界ジュニア相撲選手権大会では、数日前から稽古しただけで臨み、いきなり無差別級3位に入賞した。この時、優勝したのはのちの大関・豪栄道だった。

 1年後、東京・両国国技館での同大会でも個人戦重量級、団体戦ともに2位となり、チームメートだったのちの臥牙丸はこれをきっかけにいち早く入門を決意したが、自身は柔道か相撲かで、進むべき道に迷いに迷っていた。

 ちょうどそのころ、同じジョージア出身でヨーロッパ初の幕内力士となった黒海が横綱・朝青龍を倒し、格闘王国の母国でも大きな話題となったことで、プロスポーツとしての魅力を感じ、角界入りを決意。洋々と来日して平成18(2006)年3月場所で初土俵を踏んだが、想像以上の厳しさに"格闘エリート"も新弟子時代は心が折れかけた。

「思った以上に苦しかったですね。違う国から来て、生活もまったく違うし、最初はちょっとショックだった。もう無理と思って、何回も帰ろうと思った」

 しかし、心をつなぎとめてくれたのは、厳しい稽古だった。

「稽古をすると気持ちが変わるんです。自分の力を出しきって熱くなって、それで気持ちがどんどん変わってきて頑張ろうってなっていった」と語っている。大半の力士は「稽古は嫌いだが、強くなるためにやらなければならない」と思っている。「稽古が好き」とキッパリ言いきるのは、栃ノ心くらいであった。

 ひとたび相撲部屋の環境に慣れれば、出世は早かった。入門から2年あまりの平成20(2008)年5月場所、20歳で新入幕を果たすと、平成22(2010)年7月場所で新三役となる小結に昇進。なかなか三役で勝ち越すことはできなかったが、横綱、大関対戦圏内の平幕上位から小結に常にいたのは、右四つになり左上手を引きつけて胸を合わせて攻めるという、持ち前の怪力を生かしたひとつの型を持っていたからだ。

【手術後のゼロからのスタートで幕内初優勝、そして大関昇進】

 いずれ三役に定着すると思われたが、平成25(2013)年7月場所5日目、德勝龍を寄り切った際に、右膝の前十字靭帯と内側側副靭帯を断裂する重傷を負った。医師からは手術を勧められたが、そうなればリハビリも含め少なくとも半年は土俵を離れることになり、番付も大きく下がることになる。25歳とこれからの時期だっただけに手術には消極的だったが、師匠の春日野親方(元関脇・栃乃和歌)から「俺は37歳まで相撲を取った。お前もしっかり治せば、あと10年は取れる」と励まされ、患部にメスを入れる決断をした。

 4場所連続休場で番付は三段目にも近い幕下55枚目まで落ちた。

稽古再開直後は、部屋の三段目力士にも勝てなかった。自信を失いかけたが、体が相撲を思い出すと徐々に本来の力を取り戻し、復帰場所から幕下2場所、十両2場所で4場所連続優勝。再十両2場所目は史上5人目となる15戦全勝の十両優勝を成し遂げると、8場所ぶりに幕内に返り咲いた平成26(2014)年11月場所は11勝4敗で4度目の敢闘賞を受賞し、復活をアピールした。

 取り口もこれまでのパワー一辺倒から、腰を十分に落として低く踏み込み、左は下からおっつけながら得意の上手を引くという理詰めの相撲にモデルチェンジ。従来の力強さに加え、うまさも磨かれ、平成28(2016)年5月場所は10勝をマークし、初の技能賞も獲得。翌7月場所は新関脇に昇進した。

 前頭3枚目で迎えた平成30(2018)年1月場所は、初日から10連勝の横綱・鶴竜を栃ノ心が1差で追っていたが、11日目に初黒星を喫した鶴竜がその後、大失速。栃ノ心自身は1敗のまま白星を重ねていき、14日目、松鳳山を寄り切って初優勝を決めた。優勝インタビューでは「日本人の皆さん、それから私の国の皆さん、本当に胸がいっぱいで、本当にありがとうございました」とどん底を味わった男の口からは、感謝の言葉が自然と口をついて出た。

 この場所から14勝、10勝、13勝と3場所合計37勝というハイレベルの成績で同年5月場所後、大関に昇進。新入幕から所要60場所、新三役から所要47場所はいずれも史上1位のスロー昇進記録。30歳7カ月での昇進も年6場所制となった昭和33(1958)年以降に初土俵を踏んだ力士としては、史上4位の高齢昇進だった。

 その後は右足親指や右太ももの負傷など、度重なるケガに悩まされ、一度は1場所で大関に復帰したものの、大関在位は通算7場所に終わった。陥落以降も満身創痍ながら長く土俵を務め、令和5(2023)年5月場所中に引退を表明。親方から「あと10年は取れる」と言われたあの日から、ちょうど10年が経っていた。

 翌年2月4日、引退相撲で髷とも別れを告げ「日本に来たときはひとりも知っている人がいなかった。今日はこんなにたくさんいる」と協会には残らなかったが、ジョージア出身初の大関は万感の思いで17年に及んだ現役生活を全うした。

【Profile】
栃ノ心剛史(とちのしん・つよし)/昭和62(1987)年10月13日生まれ、ジョージア・ムツケタ出身/本名:レヴァニ・ゴルガゼ/所属:春日野部屋/初土俵:平成18(2006)年3月場所/引退場所:令和5(2023)年5月場所/最高位:大関

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