【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶.3
瀬古利彦さん(中編)
陸上競技のなかでもひときわ高い人気と注目度を誇るマラソン。五輪の大舞台で世界の強豪としのぎを削った、個性豊かな日本人選手たちのドラマは、時代を越えて人々の心を揺さぶる。
そんなレジェンドランナーの記憶をたどる本連載。今回はマラソン戦績15戦10勝と無類の強さを誇った瀬古利彦さん。全3回のインタビュー中編は、出場が幻に終わった1980年モスクワ五輪の悔しさを乗り越え、金メダル候補として迎えることになった1984年ロサンゼルス五輪について振り返ってもらった。失意のうちに終わったレースの裏には壮絶なドラマがあった。
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【不定期連載】五輪の42.195km レジェンドランナーの記憶
【ケガをすると大好きなビールが飲めない】
1980年のモスクワ五輪、日本はボイコットを決めた。早稲田大を卒業し、エスビー食品に入社したばかりだったマラソン代表の瀬古利彦は「五輪で走る」という夢を断たれた。それでも瀬古は気持ちを切り替え、翌年4月のボストンマラソンに出場し、2時間09分26秒の大会新記録で優勝した。
だが、この後、トラック種目での欧州遠征中にヒザを痛め、長期にわたりレースから遠ざかることになった。
「故障して走れなくなったんですけど、それまで5年間、大学1年の時からずっと頑張ってきたので、これでようやく休めると思うと、なんかうれしかったんですよね。このまま4年後のロサンゼルス五輪まで走り続けるとなると、正直しんどいなと。ただ、意外とケガ(の症状)が重かったんです」
ケガは、ちょっとよくなって走ると、また痛みが出てくる。その繰り返し。どんどん月日は過ぎ、年が明けても状態はよくならなかった。
「最初は休めていいなって思っていたけど、やっぱりケガはダメですね。私は、走ること以外、やりたいことが特にないのでヒマだし、走っていないので(体重管理のために)大好きなビールも飲めない。私は酒好きなので、飲めないとつまらないんですよ。やっぱりマラソン選手は走らなきゃと思いました」
【相談のできる友人はいなかった】
当時の瀬古は、指導を受ける中村清監督の自宅の隣のアパートに住んでいた。
「本当は監督の家から離れた場所に住みたかったのですが、たまたま隣のアパートに空きが出たので、『お前、そこに入れ』と言われたんです。そこから監視の日々ですよ。自由にどこかに行くのはもちろん、ケガをした時に三重の実家に帰るのもダメでした。毎日、監督の家でご飯を食べていたのですが、だんだんそういうのが重荷になってきたんです。ありがたい話ですけど、もう自分もいい大人ですから、もう少し自由にさせてほしいと思っていたのですが、言えなかった」
中村監督からすれば、故障中の選手が実家に戻れば、練習ができないうえに食べすぎてしまうのでコンディションの管理が難しい。1984年に開催されるロサンゼルス五輪は、瀬古が年齢的に一番いい時期に走ることができるので、そのチャンスを逃したくない気持ちが強く、常に自分の目の届くところに置いておきたかったのだろう。
瀬古はそんな苦しい時間を過ごしながらも、1983年に入り、見事な復活を遂げる。2月に1年10カ月ぶりのマラソン復帰レースとして東京国際マラソンに出場すると、日本人初の2時間8分台となる2時間08分38秒の日本新記録で優勝。そして、次のターゲットは12月の福岡国際マラソン。
「(ケガの痛みがなくなり)走れるのが楽しかったですし、うれしかったですね。大学に入った頃のようにフレッシュな気持ちで走ることができたし、走りたいと思うようになったので、きつい練習も楽しく感じられました(笑)」
その年の福岡国際マラソンには、瀬古の他、宗兄弟(茂、猛)、ジュマ・イカンガ-(タンザニア)、当時世界最高記録を保持していたアルベルト・サラザール(アメリカ)ら世界の強豪が顔を揃えた。瀬古は40kmまで息をひそめていたが、そこからイカンガ-と一騎打ちになり、トラックの残り100mでスパートし、優勝した。大レースに強い瀬古はロス五輪の金メダル候補と期待を集めた。
「ケガから復活して優勝して、ここまではよかったんです。ただ、ここからロス五輪に向けて練習を始めたんですけど、調子がまったく上がらない。監督の機嫌もすこぶる悪くて、取材に来たテレビ局の記者にいつも怒鳴っていましたからね。私もなんか変な状況だなって思いながら走っていました。一生懸命やっているのにうまくいかない。どうしたらいいんだろう。今みたいに友人とかに聞ければいいけど、当時は監督に友人も作っちゃいけないと言われていたので、話ができる友人がいなかったんです」
【ロス五輪2週間前にドクターストップ】

ロス五輪の1カ月前になっても、瀬古の調子は一向に上がらなかった。練習が終わると、どっしりした重さと疲れがやってくる。
「調子がよくないうえに練習不足だと感じていたので、ロスの暑い気候に合わせて暑い東京で練習をしていたんです。さすがに日中は厳しいので夜6時ぐらいから始めて、40kmを走り終えてから夜ご飯になるんですけど、疲れすぎて食べられないんです。練習を休みたい気持ちもありましたが、監督から『疲れているとか、休みたいとか言ってはいけない』と言われていたので、自分に『大丈夫、大丈夫』と言い聞かせて走っていました」
五輪2週間前には20kmのタイムトライアルを行なった。午後6時、明治神宮外苑の気温は31℃の蒸し暑い夜だった。最初の10kmを31分で走ったが、後半の10kmは36分もかかった。フラフラになり、そのままトイレに行くと、血尿で便器が真っ赤に染まった。さすがに「やばい」と思い、監督に伝え、翌日に病院に行くとドクターストップがかかった。
「医者に走っちゃダメだと言われました。正直、なぜそこまで自分を追い込んでいるのか、なぜそこまでやるのか、自分でもわからなかった。これが五輪というものの正体というか、プレッシャーなのかなと思いましたね」
瀬古は体を休め、負担がかからないようにウォーキングをした。だが、迫ってくる五輪と自分の現状を照らし合わせると、頭はパニック寸前だった。
「誰にもこのことは言えないし、マスコミに話したらえらいことになってしまう。
そうしたら気持ちがスッと晴れたんです。なんかすごく元気になって、『あっ、これはいける』と思い、栄養ドリンクを飲みながらレース本番4日前に日本を出発しました」
【「もう数カ月早くおふくろに泣いて電話しておけばよかった」】
レース当日、瀬古は「ケツをまくったので、ダメでもいいから走る」と覚悟を決めていた。スタートから先頭集団に入り、15kmまではラクに走ることができた。25kmを過ぎると、調整ミスのせいか、脚に疲労を感じた。それでも歯を食いしばって先頭についていったが、勝負の35kmから徐々に遅れていった。瀬古は疲労困憊の表情でゴールし、14位に終わった。
「レースをスタートした時、すごくラクに走れたので、もう数カ月早くおふくろに泣いて電話しておけばよかったなと思いましたね(苦笑)。ロスのレースの映像は、怖くて見られなかったです。だって自分が負けるのを見るのは嫌ですし、それを見るとあの時の苦しい1年間を思い出すじゃないですか。私はもう二度とあんな苦しいところに戻りたくないと思っていたので、見る気にならなかったんです」
瀬古がロス五輪のマラソンに敗れた夜、新宿の歌舞伎町には落語家の三遊亭楽太郎(後の六代目・三遊亭円楽/故人)が現われた。楽太郎は瀬古のそっくりさんとしても知られ、人気を博していたが、この時は日本代表のユニフォームを模したものを着て、帽子のつばをうしろにしてかぶっていた。
「瀬古利彦、皆さんの期待に応えられず、すいませんでした」
そう言って、何度も頭を下げた。
「本当は私が謝らなくてはいけないんですけど、楽太郎さんが先に日本で謝ってくれた。これはありがたかったけど、申し訳ない気持ちもあり、複雑でした」
苦しんだオリンピックから解放され、帰国した瀬古は人生において大きな転機を迎えることになる。
(つづく。文中敬称略)
瀬古利彦(せこ・としひこ)/1956年生まれ、三重県桑名市出身。四日市工業高校から本格的に陸上を始め、インターハイでは800m、1500mで2年連続二冠を達成。早稲田大学へ進み、箱根駅伝では4年連続「花の2区」を走り、3、4年時には区間新記録を更新。