ベテランプレーヤーの矜持
~彼らが「現役」にこだわるワケ(2025年版)
第3回:山田直輝(FC岐阜)/前編
「8~9割方、気持ちは固まっていました」
2019年に「自分を再生してくれたチーム」である湘南に復帰して6シーズン目。毎年のように残留争いに巻き込まれながらも、それを含めて湘南でのプレーを楽しんできたが、このシーズンだけは、それまでとは違う息苦しさを覚えるようになっていたという。
「ああ、引退する時が来たんだな」
だが、家族にその思いを告げた際に返ってきた言葉が、山田の考えを一変させる。
「パパ、サッカー選手じゃなくなっちゃうの?」
娘からの真っ直ぐな問いかけに言葉を詰まらせていたら、さらに妻の言葉が追いかけてきた。
「大好きで始めたサッカーを、もう少し、楽しんでやってもいいんじゃないの?」
そのふたつの言葉は、消えかけていたサッカーへの情熱を再燃させる。それがFC岐阜でのキャリア続行につながった。
◆ ◆ ◆
FC岐阜に取材に訪れた5月の半ば。山田直輝はフィジカルトレーナーとともに、個別のトレーニングに向き合っていた。
「そもそも僕は、若い頃からケガが多かったので、年齢が上がるほどケガが増えるという感覚にはなったことがないですけど、20代前半と今の体が違うのは明らかなので。そう考えても『40歳をすぎて現役を続けている選手は、バケモンだな』と(笑)。30代半ばになった今だからより、そう思います。僕も早くみんなとサッカーがしたいです」
表情は明るい。
「妻や娘の言葉を聞いて『このまま終わったら後悔するな』って思った瞬間に、消えかかっていた心の炎が、自分でもびっくりするくらい、今までにないほど、燃え上がったんです。そしたら今度は、一気に『現役を続けたい!』って思いが強くなって。そのタイミングで、岐阜に声を掛けてもらったこともあり、『やるぞ!』という気持ちになった。
しかも、小松裕志社長が描く『岐阜で一番愛されるクラブになりたい』というビジョンや『子どもたちに夢を』という理念にもすごく惹かれたというか。僕自身、キャリアを重ねるなかで『子どもたちや社会に対して、サッカーで何を還元できるのか』を考えることが増えていただけに、すごく共感が持てた。また、僕の力を貸してほしいっていう言葉もすごく刺さって、その想いに応えられる自分でありたいと思いました。
それだけに今、こうしてコンディション調整が続いているのはもどかしいんですけど、僕はそれを含めて山田直輝だと思っているので。プロになってからはずっとケガと歩んできたキャリアだったと考えても、今の自分をしっかり受け入れているし、ここから必ず巻き返せると信じています」
彼の言葉にもあるとおり、ケガとともにキャリアを歩んできた。
浦和レッズのアカデミーで育った山田が、トップチームに昇格したのは2009年。前年度に2種登録選手としてトップチームデビューを飾っていた彼は、1年目からフォルカー・フィンケ監督によってその才能を評価され、J1開幕戦からメンバー入りを果たす。
プロとして初めてJ1のリーグ戦に出場したのは、第2節のFC東京戦だ。
「正直、2種登録選手の時はまったく自分のプレーが出せなかった分、トップチームに昇格した2009年は『わがままでもいいから自分のプレーを出そう』と腹をくくったんです。当時の、個性派の先輩方が顔をそろえるレッズで、今になって考えると我ながらすごいなって思いますけど(笑)、2種登録選手として過ごした1年間があったから、そういう気持ちになれたんだと思います。
実際、1年目から自分を出せなければ、このチームではプレーできないって思っていたし、何より、スタジアムを真っ赤に染めるレッズサポーターの前で自分のプレーを見せたかった」
同じタイミングでトップチームに昇格した高橋峻希(現Y.S.C.C.横浜)や原口元気(浦和)らの存在も、刺激になった。
「3人、すごく仲がよかったんですけど、一方で、誰が試合に出る、誰がベンチに入った、誰がメンバーに入っていないのか、っていうふうに、1年目からお互いをすごくライバル視していました。その関係性も自分を高めてくれる要素のひとつでした」
怖いものは何もなく、当時はただただ、チャレンジできるのがありがたい、うれしいという気持ちで突き進んでいたという。唯一、日本代表に招集された際に、錚々たる顔ぶれを前に気後れして自分を出しきれなかったのは「もったいなかった」と振り返ったが、その経験を含め、必死になってサッカーに食らいつく日々が幸せで、楽しかった。
そのキャリアに最初のブレーキがかけられたのは、日本代表として2010年1月に戦ったアジアカップ予選・イエメン戦だろう。同試合で右腓骨骨折を負った山田は6月に戦列に復帰したものの、8月に再び同箇所を骨折。残りのシーズンをリハビリに費やすことになる。
「最初に腓骨を骨折した時も、2回目も、治りさえすればまたサッカーができると思って、リハビリには前向きに取り組んでいたんです。でも、いざ復帰してみたら、体のキレというか、感覚というか、表現が難しいんですけど、考えずとも自然にできていたプレーができなくなってしまっていた。
頭と体の感覚が合わなくなったというのかなぁ。その時に、これがピッチを離れる代償なのか、と思い知りました。それでもプレーを続けていたら、少しずつ感覚は戻ってきたんですけど、2012年3月に今度は左膝前十字靭帯を断裂してしまって。しかも、なかなかよくならず、結果的に1年4カ月くらい時間がかかって2014年の夏に復帰しました。
そしたら、サッカーをしているのかもわからなくなるくらい、自分のなかにあったはずの"感覚"がなくなってしまっていたんです。ピッチのどこに立てばいいのか、その時々で何をすべきかすらわからなくなっていました」
とはいえ、2度の腓骨骨折を負ったあとと同じように、プレーを続けていればいつかは取り戻せると信じて戦い続けたが、いつまでたっても自身の軸にしてきた"感覚"が戻ってこない。以降も「絶望の淵に突き落とされたような状態」から抜け出すことはできなかった。
「こんな感じでプレーしているなら、プロサッカー選手として生きているべきじゃない」
しかしながら、自分を諦めきれず、「環境を変える以外に、自分を再生する道はない」と、初めて浦和を離れる決断をしたのは、2014年末だ。
期限付き移籍先に選んだのは、湘南ベルマーレ。
「当時の湘南は曺(貴裁)監督のもと、(2014年の)J2をぶっちぎりで優勝してJ1に昇格していたし、そのサッカースタイルのなかで、はたしてプレーできるのかという不安はありました。自分がすぐにJ1で試合に出られる状態にあるとも思えなかっただけに、J2のクラブで試合経験を重ねたほうがいいんじゃないか、と考えたこともあります。でも、曺さんの熱量や想いに触れて、この人のもとでサッカーをしたいと思った。
ただ......僕は今でも、あの時の湘南からのオファーを、戦力としてというより、僕をもう一度ピッチに立たせてやりたい、という曺さんの優しさのオファーだったと受け止めています。だって、戦力として求めてくれているなら、会話のなかで『湘南を助けてくれ』とか『一緒に戦おう』って言葉が出てくるはずなのに、曺さんはひたすら『必ず、おまえを再生させる。俺のところに来い』だったから。しかも、それまでなんら面識がなかった僕を、ですからね。その想いは本当にありがたかったし、実際に加入してからもめちゃめちゃ手を焼いていただきました」
事実、湘南に加入した2015年について、山田は「練習では誰よりも雷を落とされ、誰よりも多くの個人ミーティングをしてもらった」と振り返る。リーグ戦には17試合しか出場できず、先発出場もわずか4試合にとどまったが、それでも、その時間は少しずつ山田に新たな武器を植えつけていった。
「2014年に浦和を離れた時の僕は、ある意味"ゼロ"の状態にリセットされていたので。湘南では、子どもの頃にプロサッカー選手を目指した時と同じくらい、濃い時間を過ごさないとプロサッカー選手でいられなくなると思っていたし、ここで変われなければプロサッカー選手をやめるしかないと必死でした。
サッカーを頭で考えられるようになったのも、チームの勝利のためにプレーできるようになったのも、あの時間があったから。何より、人間性の部分で成長できたのは、以降のキャリアを戦ううえでの大きな武器になった。あの時の、曺さんを含めた湘南の環境がなければ、絶対に僕はもう一度ピッチに立つことができなかったと思っています」
生まれ変わった自分を公式戦で確認できたのは、湘南への加入から約1年半がすぎた2016年の終盤だ。チームとしてはJ2降格を余儀なくされたものの、シーズン最終盤に入って先発をまかされることが増えた山田は、自身の変化を実感しながらシーズンを終える。だからこそ、そのタイミングで浦和に復帰することも考えないではなかったが、彼は湘南への残留を決めた。
「曺さんに口酸っぱく求め続けていただいたことが、2016年の終盤頃からようやくプレーで表現できるようになっていたとはいえ、自分に確証を持てるほどではなかったですから。何より、湘南を降格させてしまった、力になれなかったという悔しさを晴らすためにも、湘南に残って1年でJ1に復帰させたいと思いました。また"新しい自分"が1シーズンを通して戦えるのかに挑戦してみたいという気持ちも強かった」
その思いのままに、自身にとって初めてのJ2を戦った2017年。開幕戦から先発のピッチに立った山田は、"闘える"選手として変貌した姿を存分に示しながら躍動した。リーグ戦への出場はフィールド選手ではチーム最多タイを数える39試合。その時間によって、確かな自信が芽生えるのを感じたという。
「自分が今、どのくらいのレベルにいるのかを知る1年にしようと思っていたなかで、シーズンを通して全力で相手チーム、選手と本気でやり合えたのは自信になりました。
そして、その自分を体感できたからこそ、山田は浦和復帰を決心する。湘南からも期限付き移籍延長のオファーは受けていたが、最後は自分自身が「後悔しない選択」を選んだ。
(つづく)◆山田直輝「サッカーがうまけりゃいいんでしょ的なダメ人間」はこうして変わった>>
山田直輝(やまだ・なおき)
1990年7月4日生まれ。埼玉県出身。多彩なアイデアと卓越した技術を誇るミッドフィルダー。浦和レッズのアカデミーで育ち、2009年にトップ昇格。1年目からレギュラーの座をつかみ、日本代表にも選出された。しかし翌年、日本代表のアジアカップ予選、イエメン戦で負傷。以来、ケガで泣かされることが続く。2015年に湘南ベルマーレに期限付き移籍し、2018年に浦和へ復帰。2019年、再び湘南に期限付き移籍し、翌年完全移籍。そして2025年、FC岐阜に加入した。