ベテランプレーヤーの矜持
~彼らが「現役」にこだわるワケ(2025年版)
第3回:山田直輝(FC岐阜)/後編

ケガに泣かされ続けた山田直輝「サッカーがうまけりゃいいんでし...の画像はこちら >>

前編◆「引退」への気持ちが固まっていた山田直輝の考えを一変させた家族の言葉>>

"新たな山田直輝"を手に入れた彼が、浦和レッズへの復帰を決めたのは2018年だ。この時も湘南ベルマーレからは期限付き移籍延長のオファーを受けていたが、自分に悔いを残したくなかったという。

「僕はいつも何かを選択する時に、『後悔しない選択はどっちだ?』と自分に問いかけるんです。2017年の終盤もそれは同じでした。そのなかで湘南からのオファーもすごくありがたかったんですけど、僕としては、このまま浦和に帰らなければ後悔するな、と。仮に湘南でめちゃくちゃ成功してサッカー人生を終えたとしても、きっと自分のなかに『ああ、浦和には挑戦しなかったんだな』という思いが残るだろうなと思ったので、復帰を決めました」

 プロ1年目に胸に誓った、真っ赤に染まる埼玉スタジアムで活躍する自分を想像して、だ。

 もっとも2018年に浦和に復帰してからの時間は、山田が思い描いていたとおりに進んだのかといえばそうではない。開幕を前にしたトレーニングキャンプでアピールを続ける最中、最後の練習試合で肉離れを負って離脱。さらに4月に戦列復帰し、少しずつ出場時間を増やしていた矢先の6月末の練習中にも、自身3度目の右腓骨骨折を負い、全治約4カ月と診断される。悔しさは募ったが「これが自分の実力」だと受け止めた。

「正直、2度目の浦和での挑戦も、思いどおりにはいかなかったというか。湘南で見出した新たな自分も......結果的に、この年の先発出場はリーグ戦1試合、カップ戦3試合に終わったと考えても、通用しなかった、自分の実力が及ばなかったと言わざるを得ない。

 ただ、後悔はないです。ケガを含めて自分だし、活躍できなかったのも自分だから。

そういう意味では、2019年夏に浦和を離れる時も、その現実をしっかり受け入れたうえで決断しました」

 そして山田は2019年夏、再び湘南に舞い戻る。ただし、同じ期限付き移籍でもその胸中は1度目とは大きく違っていたと振り返る。

「1度目は浦和に戻ることが前提でしたけど、2019年夏は、自分はもう浦和に帰れないと覚悟したうえでの決断でした。また1度目はとにかく自分を再生させることしか頭になかったけど、2度目はとにかく湘南の力になりたいという一心でした」

 その言葉どおり、2度目の湘南での時間は、チームのために戦い抜いた6シーズンだった。復帰戦となった2019年のJ1第22節のジュビロ磐田戦で初ゴールを決め、ユニフォームのエンブレムを鷲掴みにして喜びを表現していた姿も印象に残っている。

 以降も「10番」を背負い、その胸の内を示すような熱いプレーで湘南を象徴する"魂"であり続けた。

 当時のチームメイト、小野瀬康介や奥野耕平らの言葉からも、彼が湘南で示していた存在感が垣間見える。

「基礎技術がすごく高く、サッカーIQも高いから、誰と組んでもチームのためにいいパフォーマンスを発揮できるヤーマン(山田)。チームメイトになって意外だったのが、ヘディングが強くてクロスボールに全然、怖がらずに突っ込んでいくところ! あれはマジですごかった」(小野瀬)

「ヤーマンはおしゃべりですごく人懐こく、僕が先日の東京ヴェルディ戦でプロ7年目にしてJ1初ゴールを決めた時もすぐに『おめでとう!』って連絡をくれるような、優しい先輩です。技術も高くて、巧いのに、チームのために頑張れるし、ホンマに毎日ギラギラと、気持ち剥き出しでサッカーをしていました」(奥野)

 ただし、そうして熱を持って戦い続けた一方で、2024年の終盤は思いが強すぎたがゆえに「自分ががんじがらめになっていた」とも。

「僕の性格もあってか、年齢が上がるほどいろんなことを背負いすぎちゃったというか。チームの一選手にすぎないのに、勝負の責任を負わなきゃいけないと感じすぎてしまっていた気もします。

 事実、2024年の最後のほうは試合のたびにすごく緊張していたし、自分のプレーでチームが負けたらどうしようというような、ネガティブな感情が顔を出すことも増えたというか。『試合をするのが楽しみだな』っていうよりは、『無事、試合を終えられるかな』って感情のほうが強くなっていて......なんか本当に変な感覚でした。

 それまでは、毎年のように残留争いに巻き込まれながらも毎日、自分のすべてでサッカーに向き合って、みんなとボールが蹴るのが楽しかったんですけどね。後輩たちに『ヤーマン』と呼び捨てにされるくらい先輩としては見られていなかったし、なんならいちばんイジられていましたけど(笑)、その湘南の雰囲気もすごく好きでした。

 なのに、最後の最後で苦しさを覚えるようになって......だから"引退"を覚悟したんだと思います。結局は、家族の言葉に助けられてまた心に火がついちゃったんですけど」

 そうして現役続行を決断した彼は今、岐阜の地で、その熱のままに新たなチャレンジに向き合っている。クラブの目指すビジョンのもと、仲間とともに全力で目標に向かって突き進み、自分のすべてを注いで全力で戦い抜く。キャリアで育んできた、そのアイデンティティを際立たせて。

「今はとにかく、このチームが上に上がっていくのを一緒に見続けたいってことが、僕のすべてです。また、今年はキャリアで初めてキャプテンにも選んでいただいたなかで、いろんな試行錯誤をしながらも、また人として成長できそうだな、キャプテンって面白いなと思っている自分もいます。これまで見てきたいろんなキャプテンのことを、あらためてすごかったんだなってリスペクトし直すくらい、考えることは多いですけど」

 とはいえ、それを重荷に感じることはない。キャプテンという責務と真剣に向き合うことも、サッカーの楽しさに含まれているからだ。

「僕にとっての"楽しさ"は、サッカーに本気で向き合うこと。キャプテンも、その"本気"に含まれるので負担に感じることはないです。むしろ将来は指導者になりたいと思っているからこそ、すごくいい経験になっています。

 監督と選手の間に立って、監督がどんなサッカーを志向しているのかをチームメイトに伝えたり、選手が感じていることを吸い上げて、監督と意見を交わしたり。そのなかでは、自分がよかれと思って行動したことが、チームメイトには真逆に見えていることもあると学んだり。それが監督の気持ちを知ることにつながったり。

 まだ数カ月とはいえ、そうした時間を過ごすうちに、これまでとは違うサッカーの見方や考え方ができるようにもなった。もちろん初めてのことで悩む時もありますけど、それも含めてすごく充実しています」

 そんなふうに考えられるのも、おそらくは"新しい山田直輝"を手に入れたから。キャリアで直面したたくさんのケガが、そのキャリアを揺るがすほどに彼を苦しめてきたのは事実だが、それによって新たに備えた財産は今、彼のなかで強く息づいている。

「もちろん、ケガをしないに越したことはないし、浦和でのケガがなく、挫折もせずにサッカーをしていたら、もしかしたらプロサッカー選手としてのピークはもっと高いところにあったかもしれない。でも一方で、こんなにも長くサッカー選手でいることはできなかったと思います。ケガなく順調にキャリアを重ねていたら、きっと歳を取るほどチームに求められづらいベテランになっていた気もしますしね。

 だけど、ケガをして、曺(貴裁)さんをはじめいろんな人に出会って、キャリアのターニングポイントというべき湘南での時間を過ごして、考えてプレーする自分を見出して、チームの勝利のためにプレーできるようになったから、今もこうしてサッカーを続けられている。あとはやっぱり、人間性ですね。昔の僕は、正直『サッカーがうまけりゃいいんでしょ』的なダメ人間だったから(苦笑)。

 そこから、いろんなことを経験して、いろんな人に出逢い、学びながら歳を重ねて、応援されるありがたみを知って......って考えると、人として成長したというより、ようやく人並みになった、って感じかも? でも、今の自分も悪くないなって思います」

 それゆえ、プロ17年目を迎えた今も、彼はプロサッカー選手として求められ、愛されているに違いない。

「僕にとっては初めてのJ3ですけど、正直、去年までJ1でプレーしていたからJ3で活躍できるだろうなんて、甘い考えでここに来たわけじゃない。むしろ、自分の力を本当に出しきって、注ぎきって、ほんの少しこのチームの力になれるかなれないかだと思っています。

 だからこそ、これからも自分のすべてを出しきって岐阜のために戦い抜きたい。その姿を日々、示し続けることで、いつか、このクラブに関わる人たちや応援してくださるファンの皆さんに『FC岐阜に山田直輝がいてくれてよかった』と思ってもらえたらいいなと思っています」

 情熱のすべてを注いで、いつだって真っ向勝負。それが、山田直輝だから。

(おわり)

山田直輝(やまだ・なおき)
1990年7月4日生まれ。埼玉県出身。多彩なアイデアと卓越した技術を誇るミッドフィルダー。

浦和レッズのアカデミーで育ち、2009年にトップ昇格。1年目からレギュラーの座をつかみ、日本代表にも選出された。しかし翌年、日本代表のアジアカップ予選、イエメン戦で負傷。以来、ケガで泣かされることが続く。2015年に湘南ベルマーレに期限付き移籍し、2018年に浦和へ復帰。2019年、再び湘南に期限付き移籍し、翌年完全移籍。そして2025年、FC岐阜に加入した。

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