蘇る名馬の真髄
連載第6回:ライスシャワー
かつて日本の競馬界を席巻した競走馬をモチーフとした育成シミュレーションゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』(Cygames)。2021年のリリースと前後して、アニメ化や漫画連載もされるなど爆発的な人気を誇っている。
なぜここまでネガティブなキャラクターになったのか。それは、この『ウマ娘』のモデルである競走馬・ライスシャワーの半生と密接に関係している。
1991年~1995年に活躍した競走馬のライスシャワー。同馬は、2度にわたりライバルの快挙達成を阻んでいる。
1度目は、1992年の4歳時(現3歳。※2001年度から国際化の一環として、数え年から満年齢に変更。以下同)。
2度目は翌1993年。GⅠ天皇賞・春(京都・芝3200m)において、前人未到の3連覇がかかっていたメジロマックイーン(2着)をあっさりと退けてしまったのだ。
大衆が胸躍らせていたシナリオをことごとく打ち破る――。こうした戦績がベースとなり、『ウマ娘』の性格が作られたと言える。
そんなライスシャワーだが、キャリア晩年に「正真正銘のヒーロー」として勝利をつかんだレースがある。メジロマックイーンを下してから2年後、1995年の天皇賞・春だ。
前述の戦績からもわかるとおり、3000m以上の長距離戦、そして「淀」と呼ばれる京都競馬場で強さを発揮してきたライスシャワー。しかし7歳となった1995年は、その強さが影を潜めていた。
年明けから2戦続けて挑んだGIIでは、いずれも1番人気で6着と凡走。競走馬としてはベテランにあたる時期だけに、「ライスは終わった」という声も聞かれた。
迎えた天皇賞・春。
馬場は重。いつも以上にスタミナが問われる条件のなか、ゲートが開くと、逆襲を目指すベテランホースは7番手につけた。いつもどおり、頭の低いフォームで静かに追走していたが、2周目の向正面に入ってから黒い馬体がスッと動いたのである。4番手までポジションを上げたライスシャワーが、3コーナーの入口で早くも先頭に立った。
京都競馬場には「淀の名物」とされる坂がある。ちょうど3コーナー付近が丘のようになっており、登って下る形になる。長きにわたり、この坂では「動かない」のが京都の長距離戦の鉄則とされてきた。しかし、ライスシャワーはこのゾーンでロングスパートを敢行したのだった。
同馬の馬上にいたのは、長年コンビを務めてきた的場均騎手。お互いを知り尽くした人馬が取った大胆な戦法に、場内は湧いた。曇り空のなか、4コーナーではライバル17頭を引き連れて直線に入った。
そして直線に向くと、漆黒の馬体はさらに力強く加速し、他馬を引き離す。無尽蔵のスタミナを誇示するかのように先頭を走り続けた。だが残り100mすぎ、大外から猛然と追い上げてくる馬がいた。1歳下のステージチャンプだ。
ライスシャワーが粘りきるのか。それともステージチャンプがかわすのか。ゴールは、ちょうど2頭が並んだところだった。
ゴール板を通過した瞬間、手を挙げたのはステージチャンプに騎乗していた蛯名正義騎手だったが、軍配はハナ差でライスシャワー。異例のロングスパートによる奇跡の復活劇に、テレビ中継のレース実況を務めた杉本清アナウンサーは「メジロマックイーンも、ミホノブルボンも喜んでいることでしょう」と伝えた。
それまでライスシャワーが勝ったGⅠは、敗れた側の無念がピックアップされることが多かった。しかしこのレースでは、ほとんどの人がライスシャワーの勝利を祝福したに違いない。
こうして、万人のヒーローになったライスシャワーだが、続くGⅠ宝塚記念(京都・芝2200m)で悲劇が起きる。
結局、回復の見込みはなく、その場で生涯の幕を閉じた。本来阪神競馬場で行なわれる宝塚記念がこの年、京都で開催されたのは何かしらの因縁だったのか......。
ヒーローになった直後、この世を去ってしまったライスシャワー。それから長い月日が経とうとも、この馬の勇姿が色褪せることはない。京都競馬場にはライスシャワーの記念碑があり、手を合わせるファンの姿が今も数多く見られる。