Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第4回】ペレイラ
(ヴェルディ川崎)
Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。
第4回は1992年から1995年までヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)で1996年から1998年にかけてコンサドーレ札幌に在籍したDFルイス・カルロス・ペレイラを紹介する。Jリーグ登録名は「ペレイラ」。Jリーグ2代目MVPに輝いた名センターバックだ。
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1993年のJリーグ開幕は、日本サッカーにさまざまな変化をもたらした。なかでもドラスティックだったのは外国人選手である。ワールドカップに出場したことのある選手か、それに準ずる実績を持った選手が数多く来日した。それに伴って、日本人選手のレベルが一気に向上していった。日本代表の取材現場へ行くと、「Jリーグで質の高い外国人選手とマッチアップしているから、アジアの戦いで驚くようなことがなくなった」との声が多く聞かれた。
ヴェルディ川崎のペレイラも、日本人選手のレベルアップを加速させたひとりだろう。Jリーグ開幕のプレ大会となった1992年のナビスコカップに合わせて、このブラジル人センターバックは日本にやってきた。
「グアラニの選手だった時に監督をやっていたペペが、ヴェルディの監督だったんです。
日本にやってくる外国人選手にとって最初のハードルとなるのは、コミュニケーションと生活環境である。ブラジルとのつながりが深く、Jリーグ開幕前からブラジル人選手を受け入れてきたヴェルディは、どちらも障害とはならなかった。
「ヴェルディにはペペのほかにもブラジル人のスタッフがいて、ラモス(瑠偉)やカズ(三浦知良)のようにポルトガル語のわかる選手、スペイン語が話せる選手もいた。コミュニケーションは問題なかったし、クラブのスタッフは僕の妻と子どもにも気をかけてくれたので、特に問題なかったですね」
【特徴をさりげなく引き出す妙技】
ピッチ内ではどうだったのか。
ピンチの芽を摘み取る的確なカバーリングは、日本人選手にとって手本となるものだった。セレソンに招集された経験こそなかったものの、世界的なセンターバックを数多く輩出してきたブラジルの血統を引き継ぐものだった。初めて触れる日本のサッカーに、スムーズに適応した印象が強い。
「それも『ヴェルディというクラブだったから』かもしれませんね。ただ、多くのブラジル人が感じるように、日本のサッカーはブラジルに比べると非常に速い。時には少し慌てすぎなのでは、と感じることもある。その速さに慣れなければいけなかったし、日本人選手はとても技術が高いと感じました」
ペレイラのプレーを要約するなら、「インテリジェンス」のひと言がふさわしいだろう。スピードや身体能力で、マッチアップする相手を圧倒するタイプではない。リーチの長さを生かしたパスカットやクリアはあったが、一手先、二手先を予測する読みの鋭さこそが、ヴェルディの最終ラインに安定感と安心感をもたらしていた。
ほとんどの局面において、彼の予測は正しい。思考は先回りしているので、攻められている局面でも慌てることがない。対応が窮屈になることもない。184cmのサイズがあり、フィジカル的な力強さはありながらも、力任せなディフェンスにならないところに、インテリジェンスを感じさせるのだった。
だからだろう。ほとんど警告を受けていないイメージがある。念のため調べてみると、1993年はリーグ戦32試合出場で7枚の警告を受けていた。この数字はちょっと意外だったが、1994年は43試合出場で4枚である。クリーンかつハードな守備者だったことがわかる。
CBのパートナーはさまざまだった。オランダ人のイェーネ・ハンセンやエリック・ファン・ロッサムと最終ライン中央を形成し、若手の西澤淳二や廣長優志の横にも立った。経験豊富な加藤久や柱谷哲二ともコンビを組んでいる。
どのような組合せでもプレーのレベルが変わらないのも、ペレイラの優れた長所だっただろう。コンビを組むCBやサイドバックの特徴をさりげなく引き出すのは、経験者ならではの妙技だ。
【広島の攻撃を封じて2年連続V】
1990年代前半のサッカーにおいて、CBの攻撃への関わりは今よりも控え目だったと言っていい。中長距離のフィードを配球し、セットプレーでターゲットになり、「機を見た攻撃参加」と形容されるようなプレーが多かった。
ペレイラもその枠のなかに収まるが、右利きでありながら左足でゴールを叩き込んだ。それだけでなく、直接FKを左足で決めてしまうのである。1994年9月17日の浦和レッズ戦で、力みのないフォームから放たれた一撃は、6枚の壁を越えてゴール右上へ吸い込まれたのだった。
ペレイラのキャリアを辿るうえで、1994年のチャンピオンシップ第2戦は印象深い一戦に挙げられる。第1戦を1-0で勝利したヴェルディは、国立競技場にサンフレッチェ広島を迎えた。広島にはシーズン最初の対戦で5-0と大勝していたが、その後は1-4、2-3、0-1と3連敗を喫していた。
このシーズンのヴェルディは4-4-2を基本布陣としたが、チャンピオンシップは3バックで挑んでいる。ペレイラがリベロのようなポジションを取り、加藤久とカピトンと3バックを形成したのだ。
このシステム変更は見事に機能した。
「カピトンは相手にスペースを与えなかったし、キュウ(加藤久)さんは経験豊富だから何の心配もない。もし僕のプレーがうまくいっているように見えたのなら、それはあのふたりのおかげです」
シーズン終了後のMVP受賞には、驚きを隠さなかった。
「たくさんのゴールを決めている選手が何人もいるなかで、DFの自分がこういう賞をもらうことができるなんて。何か個人的な賞をもらえるなんて、考えてもいなかった」
【2025年のJリーグにいたら...】
ヴェルディでは1995年までプレーし、1996年からJFLのコンサドーレ札幌でJリーグ昇格に力を尽くした。そして1998年に再びJリーグの舞台に立ち、日本でのキャリアに終止符を打った。
「日本でプレーできたことは、大きな財産です。キャリアの終盤でしたが、最高の経験ができましたからね」
2025年のJリーグに、1994年当時のペレイラがやってきたら──。
この30数年でサッカーは大きく変わり、ポジションごとの役割もアップデートが著しい。