語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第22回】増保輝則
(城北高→早稲田大→神戸製鋼)

 ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。

だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。

 連載22回目は、戦後最年少19歳3カ月で日本代表入りを果たし、通算47キャップで合計28トライを記録したWTB増保輝則(ますほ・てるのり)を取り上げる。フィニッシャーとしてトライを重ねるだけでなく、周囲を生かすリンクプレーヤーとしても存在感を示した1990年代を代表するランナーだった。

※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)

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ラグビー日本代表に戦後最年少19歳3カ月で抜擢 増保輝則の「...の画像はこちら >>
 戦後最年少(当時)の19歳3カ月で日本代表入りを果たした増保輝則は、ラガーマンの憧れ「花園」に出場した経験がない。東京都で生まれた増保は13歳でラグビーを始め、中高一貫の城北高で東京都予選決勝まで進むものの、最後は手が届かなかった。

 だが、WTBとしての潜在能力は、関係者の間で早くから注目されていた。高校3年時には高校日本代表に選出され、キャプテンとしてスコットランド遠征も経験する。

 卒業後に選んだ道は早稲田大学。鳴物入りで名門ラグビー部の門をくぐった増保は、関東対抗戦で衝撃のデビューを果たす。

 開幕からいきなり2試合連続でハットトリックを達成。慶應義塾大との「早慶戦」でも2トライを挙げる活躍を見せ、対抗戦でいきなり11トライを記録した。

 大学選手権決勝での明治大との「早明戦」は13-16で敗れるものの、チームの準優勝に大きく貢献。

大きな存在感を示してラグビーファンをうならせた。相手にタックルをされないコース取り、間の取り方は、ルーキーながら絶妙にうまかった。

「WTBは『自分が抜ける』という型を持ったほうがいい。それもできれば(抜き方は)ひとつではなくふたつ、内側を抜くパターンと外側に抜くパターンを持つことが大事です」

【元木由記雄とのコンビネーション】

 その勢いのまま、増保は大学2年時に日本代表入りを果たす。そして1991年5月、アメリカ戦で初キャップを獲得。チーム最年少で1991年のラグビーワールドカップにも出場し、52-8で勝利したジンバブエ戦でトライも挙げた。

 大学を卒業し神戸製鋼に入社した増保は、順風満帆のラグビー人生を歩んでいた。4年後の1995年ワールドカップにも日本代表の主力として出場を果たす。しかし、ニュージーランド戦では17-145の歴史的な点差で惨敗。増保は戦犯のひとりに挙げられ、当時の心境は「どん底でした」と語っている。

 しかし増保は、そのままでは終わらなかった。

「これ以上のトレーニングはできないってくらいの準備を整えていった。本当の意味で『ワールドカップに出場した』と思えたのが1999年でした」

 大きな覚悟で臨んだ3大会目。

結果的に白星を挙げることはできず、日本代表は予選プール敗退となる。だが、増保は恩師・平尾誠二監督のチームで全力を出しきれたことに胸を張った。

「日本代表でのベストトライは?」と質問したことがある。すると増保は、1998年10月に行なわれたワールドカップ予選での韓国戦と香港戦のトライを挙げた。両トライともCTB元木由記雄のパスからだったという。

「(元木と)何のコミュニケーションも取らなかったのに、阿吽の呼吸でトライできた。自分ひとりじゃなくて、連動性というか......なんとなく雰囲気で取れたトライで、すごくよかったですね」

 元木とのコンビネーションは、ともに長年プレーした神戸製鋼で培われたものだ。明治大の元木とは同い年で、大学ラグビーの頂点を競い続けた長年のライバル。1994年、ふたりは揃って深紅のジャージーに腕を通し、いきなりポジションを掴んで神戸製鋼のV7達成(1988年度~1994年度)に貢献した。

 しかし7連覇の2日後、予想外の出来事が襲う。阪神・淡路大震災だ。

 増保は当時を振り返る。

「優勝よりも、震災からの復興のほうが大変だった。こういう状況でラグビーをしてもいいのだろうか──そう思ったが、多くの人に声をかけられて心強かった」

【WTBの仕事はトライだけじゃない】

 神戸製鋼はV7達成後、なかなかタイトルに届かない苦しい時期が続いた。しかし1999年、増保がキャプテンに就くとチームは上昇気流に乗り、見事な復活Vを成し遂げる。1999年度・2000年度に全国社会人大会と日本選手権を制し、再び深紅のジャージーを頂点に導いた。

 ベテランとなった増保は、自身のプレースタイルやチームの勝利について、高い視座で語ってくれたことがある。

「一般的に言えば、WTBはトライを取るポジションですが、僕はスピードじゃなくて、幅広い仕事をしてチームに貢献するのもあり方のひとつだと思っています。

 自分でトライを取ろうというよりも、キャプテンとしてゲームをコントロールして、どのようにチーム力を出して勝たせるかに主眼を置いています。(トライを取るのは14番の)大畑大介がやってくれるので」

 トップリーグ元年となった2003-04シーズン、増保はプレーイングコーチという立場となって初代チャンピオン獲得に貢献したのち現役を引退。平尾ゼネラルマネージャーの下で2004年、神戸製鋼の監督に就任した。

 その後は建設・土木関連の会社を経営するかたわら、母校の早稲田大や女子ラグビーの指導で活躍。2019年のラグビーワールドカップ日本大会が開催された際は、アンバサダーに就任して成功のための広報活動に尽力した。

 ハッキリとした顔立ちは、昔も今も変わらず。

増保はどのジャージーを着ていても記憶に残る「11番」だった。

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