元ロッテ・岡田幸文インタビュー(前編)

 名門・作新学院で甲子園出場を果たせず、大学では左ヒジのケガのより中退。そんな挫折の日々を経て、クラブチームの「全足利クラブ」で再びグラウンドに立った岡田幸文。

数々の困難を乗り越え、育成ドラフト6位でロッテ入りを果たすまでの道のりには、あきらめず挑戦し続ける姿勢と家族の支えがあった。

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【全治1年の診断を受け大学中退】

── 岡田さんは高校野球の名門・作新学院の出身です。2年夏の栃木大会決勝で会田有志投手(のちに巨人)を擁する佐野日大高に敗れるなど、高校3年間で甲子園出場はかないませんでした。

岡田 2年秋からは主将をやらせてもらいました。3年夏は4回戦で那須拓陽に0対2で敗退。甲子園を目指すなかで、技術以上に野球を通じて礼儀や人間力、そして「最後までやり抜く力」を学んだ3年間でした。厳しかった思い出が強いですね。

── 高校卒業後は日本大に進みますが、1年の時に利き腕の左ヒジを手術し、全治1年と診断されて中退しました。引きこもっていた時期もあったそうですね。大学生活を続けて教員になり、高校野球を指導する道などは考えなかったのですか?

岡田 自分は選手としてプレーすることしか頭になかったので、教員になって野球を教えるなどはまったく考えなかったですね。周囲から期待されたのに、ケガで大学をやめて帰ってきたという挫折......。近所の目なども気にするようになって、閉じこもったのです。

── やがてヒジが完治し、足利給食センターや足利ガスで働きながら、2004年からはクラブチームの「全足利クラブ」でプレーするようになったのですね。

岡田 野球もやらず、一日中ずっと家にいては収入もありません。全足利の1歳上の先輩が、「ヒジが治ったならウチでやればいいじゃないか」と誘ってくれたのです。

── 給食センターでどんな仕事をしていたのですか?

岡田 全足利は社会人のクラブチームだったため、当時のマネージャーの紹介で給食センターでのアルバイトを始めました。仕事内容は、委託先の食堂へ食材を配送する業務でした。その後、社員として入社した足利ガスでは、プロパンガスボンベの交換を担当しました。

【入団テストを経て育成でプロ入り】

── 全足利での1年目には、1番・センターとして全日本クラブ選手権優勝にいきなり貢献しました。プロを現実的に意識し始めたのは、いつ頃だったのでしょうか。

岡田 じつは高校3年の時、プロから指名されると思っていました。プロか社会人野球に進むつもりでいたのですが、プロからの指名はもちろん、社会人野球からの誘いもありませんでした。

── それぐらい自信があったのですね。

岡田 調子に乗っていましたね(笑)。

── クラブチーム5年目に、育成ドラフト6位でようやくプロ入りを果たします。

岡田 じつは、その2年ほど前からプロからの打診はありました。

ただ、せっかくなら"本指名(支配下)"のほうがいいと思っていました。しかし、クラブチームの選手が本指名される前例はほとんどありません。ロッテからも「申し訳ないが、ドラフト前に入団テストを受けてみてくれないか」と言われました。

── 全足利出身には、プロ通算50勝を挙げた小倉恒投手(1992年ヤクルトドラフト7位)がいます

岡田 本指名を待っていていつまでもプロ入りできないよりも、まず入団テストをクリアし、たとえ育成指名であってもプロの世界に飛び込んでみようと考え直したのです。

── 日大1年時の同期である長野久義さんは、巨人入りを希望してロッテからの指名を拒否して、社会人野球のHondaに進んだのですね

岡田 私は大学をやめていたとはいえ、複雑な心境で、当時はいろいろな思いを抱いていたことを覚えています。悔しさを、いい意味で反骨心に変えて、もっと頑張ろうと思いました。遠回りはしましたが、それでもプロ入りのスタートラインに立ったわけです

【妻はプロ入りに大反対】

── 2006年、22歳の時に11歳年上の女性と結婚。2008年に育成ドラフト6位で指名されました。すでに子どもが2人いたためプロ入りに反対されましたが、「2年ダメならやめるから」と説得したとお聞きしました。

岡田 妻には大反対されました(笑)。妻は足利市の職員で、「全足利」の後援会の事務局を手伝っていたことをきっかけに知り合いました。

── ファームはロッテに限らず、プロとはいえ必ずしも恵まれているとは言えません。

岡田 ハングリー精神を学びましたね。とにかく背番号132を支配下枠の2ケタにしないことには、一軍の試合に出られません。プロ1年目は一軍出場こそありませんでしたが、支配下登録され、背番号はちょうど半分の66に変更されました。

── 当時、二軍の監督だった高橋慶彦さんが目をかけてくれたのですね。

岡田 高橋さんに言われたのは、「足を生かした守備」と「出塁するための打撃を磨く」ということでした。高橋さんの現役時代と同様に、ゴロを叩きつけて走るのが基本でした。

── プロ2年目に72試合に出場しました。プロでやっていけるという自信のようなものはつかめましたか。

岡田 自信はなかったけれど、「やるしかないな!」と。当時の(外野の)レギュラーには、単打を重ねて4番も打つサブロー選手、一発長打のある大松尚逸選手、俊足の荻野貴司選手らがいました。

── しかし、入団時の支度金100万円は、2009年末には年俸440万円となり、2010年オフには1000万円に跳ね上がりました。

岡田 奥さんの給料をやっと超えましたね(笑)。

守備を前面に押し出せばなんとかやっていけるかなと徐々に思い始めたのです。

つづく>>

岡田幸文(おかだ・よしふみ)/1984年7月6日生まれ。栃木県出身。作新学院から日本大に進むも、左ヒジのケガにより中退。その後、全足利クラブでプレーし、2008年育成ドラフト6位でロッテに入団。10年に球団初の育成出身での一軍登録を果たすと、11年は全試合に出場しゴールデングラブ賞を獲得。プロ初打席から1773打席連続本塁打なしの新記録を打ち立てるも、圧倒的な守備力と走塁でチームに貢献した。18年限りで現役を引退し、その後はBCリーグ栃木のコーチ、21年から4年間は楽天のコーチを務めた

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