連載第69回 
サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

 現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。

 2025-26シーズンのAFCチャンピオンズリーグがスタート。

前身の大会を含めると1967年からの歴史があり、それぞれの時代で日本勢が奮闘してきました。今回はそのなかでも1985~2002年までの「アジアクラブ選手権」での戦いぶりを紹介します。

【Jリーグ】半世紀以上も前から日本勢はアジアで奮闘 完全アウ...の画像はこちら >>

【日本勢の初参加は1969年】

 2025-26シーズンのAFCチャンピオンズリーグ・エリート(ACLE)。日本から出場しているヴィッセル神戸サンフレッチェ広島はアウェーでの第1節で複数得点を取って勝利しており、ホームの第2節で勝利すれば決勝ラウンド進出への展望が開ける。

 一方、ホーム開幕戦でFCソウルと引き分けたFC町田ゼルビアは、第2節はジョホール・ダルル・タクジムとアウェーで対戦。本拠地では強さを発揮する相手だけに難しい試合になるだろうが、なんとか勝点3をもぎ取りたいところだ。

 従来のグループリーグ方式と違って、現行のリーグステージ方式は勝点計算が難しいが、いずれにしても勝利を積み重ねていけば決勝ラウンドへの道は確実に開く。そして、もし日本勢の戦力が他国を上回っているのだとすれば、同国同士の戦いがないのは日本にとって有利なレギュレーションと考えることもできる。

 準々決勝以降は今季もサウジアラビアでの集中開催なので、日本のクラブが優勝するのは至難の業だが、少なくとも東地区では圧倒的な力を見せてほしい。

 代表級の選手のほとんどが欧州クラブに移籍してしまったなかで、日本のクラブが東アジアで優位に立っているのは驚くべきことでもある。

 さて、アジアのナンバーワンクラブを決める大会は、今から半世紀以上前の1967年に始まった。

 同年の「第1回アジアチャンピオンクラブトーナメント」はタイの首都バンコクでの決勝でセランゴール(マレーシア)を倒したハポエル・テルアビブ(イスラエル)が優勝したが、この大会には日本チームは出場していない。

 日本が初めて参加したのは翌1969年1月の第2回大会。

1965年に開幕した日本サッカーリーグ(JSL)で初年度から1968年まで4連覇した東洋工業(のちのマツダ、サンフレッチェ広島の前身)が挑戦した。この年の大会はバンコクでの集中開催で、東洋工業はグループリーグ初戦でイスラエルのマッカビ・テルアビブに2対3で敗れたが、以後3連勝して準決勝に進出。準決勝で韓国の陽地(ヤンジ)に敗れたものの3位で大会を終えた。

【サッカーの国際性を感じさせた】

 この大会、当時の日本ではほとんど報道されなかった。新聞には結果だけ。サッカー専門誌にもほんの少しの記事が載っていただけだった。

 しかし、僕はこの大会にすごく興味を持った。

 それまでも五輪やアジア大会などは大きく報道されており、日本国内でも1967年にはメキシコ五輪予選が開催された。また、1968年のメキシコ五輪で銅メダルを取った日本代表は日本中の注目を集めた。

 だが、単独チーム同士の国際大会は馴染みがなかったのだ。欧州チャンピオンズカップ(CLの前身)という大会があるのは知っていたが、日本のチームがそういった国際大会に出ることに実感がわかなかったのだ。

 当時の日本のスポーツ界は国際交流の機会が限られていた。

「巨人、大鵬、卵焼き」の時代である(「子どもが大好きなもの3つ」という意味)。

人気スポーツと言えばプロ野球と大相撲が圧倒的だった。

 しかし、プロ野球で米大リーグのチームが来日することはあったが、国際大会などなく、真剣勝負で大リーグに勝てるなどとは誰も思わなかったし、日本人選手が大リーグでプレーするなんて夢のまた夢だった(「半世紀後に日本人が大リーグで本塁打王になる」なんて言ったら大笑いされてしまっただろう)。

 大相撲もまだ外国人力士などいない時代で、完全にドメスティックな競技だった。

 そんななかで、サッカーでは単独チームの国際大会があって、東洋工業がアジアで3位になった......。それが、どのような大会だかよくわからなかったが、僕はそこにサッカーというスポーツの国際性を感じたのだ。

 アジアチャンピオンクラブトーナメントでは当時はアジア連盟(AFC)に所属していたイスラエルのクラブが圧倒的強さを誇っており、1970年大会こそイランのタージにタイトルを譲ったものの、1971年の第4回大会もマッカビ・テルアビブが2度目の優勝を飾った(日本チームが出場したのは第2回の東洋工業だけ)。

 1973年には第4次中東戦争が勃発。軍事的にはイスラエルが勝利したものの、中東産油国が石油の禁輸や減産を武器に発言権を拡大。スポーツ界でも中東諸国はイスラエルとの対戦を拒否。AFCは1974年にイスラエルを除名した。

 そんなイスラエル問題もあり、また経費面の問題もあって、アジアのクラブの大会はしばらく休止してしまう。

【アジアクラブ選手権での奮闘】

「アジアクラブ選手権」として大会が復活したのは1985-86シーズン。サウジアラビアのジッダで決勝大会が行なわれ、韓国の大宇ロイヤルズ(釜山アイパークの前身)がサウジアラビアのアル・アハリを下して優勝する。

 そして、1986年12月にサウジアラビアのリヤドで開催された大会には、日本から古河電工(ジェフユナテッド千葉の前身)が出場。初戦で完全アウェーの環境で地元のアル・ヒラルを下すなど、3戦全勝で優勝を飾ったのだが、この時の大会についてはこのコラムの第47回ですでに紹介した。

 そして、翌1987年の大会でも読売サッカークラブ(東京ヴェルディの前身)が決勝に進出。ホーム&アウェーでサウジアラビアのアル・ヒラルと対戦することになったが、アル・ヒラルが棄権して読売クラブの優勝が決まった(主力選手が同国代表に招集され、強化合宿と日程が重なったらしい)。

 こうして、アジアクラブ選手権で日本勢は連覇を飾った。

 Jリーグ開幕の数年前のことだ。日本代表はまだW杯にも五輪にも出場することができなかったが、日本サッカーの実力は上がっていた。金田喜稔や木村和司をはじめ、テクニックのある若手が次々と登場。西ドイツで活躍した奥寺康彦も帰国した。

 1990-91シーズンには「アジアカップウィナーズカップ」という大会も始まった。カップ戦の勝者が出場する大会で、日本からは天皇杯優勝チームに出場権が与えられた。カップウィナーズカップはのちにクラブ選手権と統合されてACLとなるまで12回開かれたのだが、日本のクラブはそのうちなんと5回も優勝している。

 1991-92シーズンに日産自動車が初優勝。翌年には同クラブが「横浜マリノス」と名前を変えて連覇を達成。1994-95シーズンには横浜フリューゲルス、次のシーズンにはベルマーレ平塚(現、湘南ベルマーレ)が優勝。カップウィナーズカップのトロフィーは日本に、いや神奈川県に留まり続けた(今年のJ1リーグでは神奈川県の3クラブが残留争いに巻き込まれているのだが......)。

 Jリーグ開幕前後に日本のクラブは韓国、サウジアラビアのクラブと三つ巴のタイトル争いを繰り広げていたのだ。

 この時期、最後に輝いたのが1998-99シーズンのアジアクラブ選手権を戦ったジュビロ磐田だった。日本代表の名波浩や藤田俊哉、中山雅史、福西崇史らを擁する磐田の黄金期。国内では鹿島アトラーズと覇権を争っていた時期だ。

 準決勝、決勝はイランの首都テヘランでの集中開催だったが、磐田は準決勝でUAEのアル・アインにPK勝ち。決勝は、12万人以上の観客を飲み込んだアザディスタジアムで地元のエステグラル相手に、鈴木秀人と中山がゴールを決めて2対1で勝利して優勝。2001年にスペインで開かれるはずだったFIFAクラブ世界選手権の出場権も獲得し、組分け抽選の結果サンティアゴ・ベルナベウでの開幕戦でレアル・マドリードと対戦することが決まっていたのだが、大会は開幕直前に中止になってしまった。

【国内ではあまり試合を見ることができなかった】

 この頃のアジアクラブ選手権やカップウィナーズカップは、毎年のようにレギュレーションが変わり、集中開催も多かったので、日本国内ではあまり試合を見ることができなかった。

 たとえば、読売クラブが優勝した1987年シーズン。グループステージはクアラルンプールでの集中開催だったし、決勝はアル・ヒラルが棄権してしまったため、国内での試合は予選ラウンドのサウスチャイナ(南華体育会=香港)との試合だけだった。

 南華戦は千葉県習志野市の秋津サッカー場(第一カッターフィールド)で行なわれた。収容力はたったの2000人。この会場には畳敷きの部屋があって、試合後にブラジルの名将ジノ・サニ監督が畳の上で記者会見を行なうというシュールな光景を記憶している(会見の内容などは完全に忘れてしまったが......)。

 1998-99シーズンの磐田も、準々決勝以降ホームでは1試合もないまま優勝した。

 2002-03シーズン以後は、アジアの大会はACLという形に変わり、ようやくきちんとしたホーム&アウェーでの戦いが実現。以後、日本のクラブでは浦和レッズが3回、ガンバ大阪鹿島アントラーズが各1回優勝しているが、Jリーグ開幕前の2月からグループリーグが始まることや中国のクラブが巨額の資金を使って強化したこともあって、東地区で勝ち上がるのも難しい時代が続いた。

 だが、この数年はJリーグやJFAがたとえば試合日程を調整するなどで参加クラブを積極的に支援するようになったこともあり、「日本優位」の状況が続いている。もちろん、強化の最大の要因がJリーグクラブによる育成面での成功であるのは言うまでもないのだが。

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