辻発彦インタビュー

西武の黄金時代に9回のリーグ優勝、6回の日本一を経験した名二塁手の辻発彦さん。森祇晶、野村克也落合博満――球界を代表する名将たちとすごした日々を振り返り、知られざるエピソードを語った。


 
西武黄金時代を支えた辻発彦が語るレジェンド監督の知られざるエ...の画像はこちら >>

【森監督の西武黄金時代】

上重聡(以下、上重)1986年からは、広岡達朗さんから森祇晶さんに監督が変わるわけですが、森監督に変わっても強かったですよね。

辻発彦(以下、辻)ここが本当の黄金時代じゃないですか?

上重 歴代でもナンバーワンと言ってもいいくらい強かったと思います。

辻 確かにそれだけ優勝もしましたし、「V9時代のジャイアンツと戦ってみてほしい」なんて、言われたこともありました。

上重 森さんはどんな監督でしたか?

辻 森さんは、広岡さんの下でヘッドコーチをやっていたので、広岡さんの意志を継いで監督をやっていました。ただ、監督が変わる頃には、僕ら若い選手も力をつけてきていたので、大人扱いしてくれるようになりました。あとは、ゲーム前の食事も変わってきましたね(笑)。(それまでは野菜とフルーツが多かったが)サンドイッチが出るようになったり、選手の要望を聞いてくれるようになりました。

上重 そのあたりの交渉は、チームリーダーの石毛宏典さんが言ってくれたんですか?

辻 石毛さんもそうですけど、石毛さんがいなくなって僕が選手会長になった時も、森監督から「なんか不満ないのか? なんか言いたいことはあるか?」と聞かれるわけです。チームが負けたり、劣勢になって雰囲気が悪い時には選手同士でミーティングをするので、監督には「(選手間で解決するから)いいですよ」という感じでした。

上重 広岡さんの時の『管理野球』よりも、森さんの時は選手の自主性に任せる感じですか?

辻 そうですね。

上重 森さんのイメージは、試合中にベンチでサングラスをして、じっと座っている感じです。選手ともそんなに会話をしているイメージはないですね。

辻 広岡さんもだけど、森さんの笑顔もあまり見たことがないです。

やっぱりグラウンドで、あの人たちは勝負師でした。

上重 森さんとのエピソードで印象に残っていることはありますか?

辻 優勝争いでピリピリしている試合で、僕はランナー1、2塁からバントを2つファールして、打てのサインに変わって打ったらゲッツーアウトになったんですよ。これは落ち込みました。その試合は結果的に、秋山幸二がサヨナラヒットを打って勝ったんです。でも、野球が怖くなりました。ロッカーに戻っても腰が上がらなくて、みんなが帰っていくのに最後まで落ち込んで残っていました。

 なんとか家に帰ったら、深夜に森監督から電話があったんです。僕が落ち込んでロッカーにずっといたという情報が監督にも届いていたようで、「もし、今日の試合に負けて優勝を逃していたとしても、選手のなかでお前のことを悪く言うやつはいない。ここまで130試合を戦ってきて、お前は何試合勝利に貢献してくれたんだ」と言ってくれました。それを聞いて、さらに一生懸命練習しようと思いました。野球は失敗をいっぱいするけど、次はしないように努力すればいいということで、ありがたい言葉でした。

上重 誰かを通してではなくて、監督から直接そういう言葉を聞けたのはいいですね。

辻 びっくりしました。夜中の2時は過ぎていました。

【野村監督との出会い】

上重 そして、1996年からはヤクルトスワローズに行くわけなんですが、今度は野村克也監督ですね。野村さんはどんな監督でしたか?

辻 西武を退団する時に、自由契約でどうなるか不安なところで、森監督が野村監督に連絡してくれて、「辻が来てくれるなら喜んで」ということで、入団することになったんです。ヤクルトはセ・リーグですし、全然違ったので新鮮でしたね。

上重 当時、金額的にもっといい条件を提示していた球団もあったと聞きましたが、野村さんと一緒にやってみたいというのがあったんですか?

辻 (自由契約になって)最初に話をしたのがヤクルトだったのもあるし、森監督の口利きもあったので即答でしたね。野村さんについては、いろいろと聞いていたので怖いなと思っていましたけど、そういうところで勉強もするのもいいなと思って入りました。ただ、1年目から試合に使っていただけたのは、びっくりしましたね。

上重 いわゆる野村監督の長いミーティングにも参加されていたんですか?

辻 もちろん。毎日、若い選手たちと一緒に3ページ、4ページとノートに書いていましたよ。

上重 「辻はベテランだから免除」みたいなことはなかったですか?

辻 ないですね。当時37歳くらいだったかな。

上重 ヤクルト移籍1年目から、打率が3割を超えていましたよね。

辻 それはもう頑張りましたよ。これは使っていただいたからこそ、あそこまでなれたと思うんですけど、「俺はまだできるんだ」っていうことを示したかったのもありました。活躍できて野村さんにも恩返しできたかなと思っているんですけどね。

上重 野村さんの配球の読みとか、そういうことが生かされる部分はありましたか?

辻 野村さんの野球はデータじゃないですか。変化球でもストレートでも対応できるバッターがベストですが、そこまでいかない選手は球種を読むとか、コースを読むことが必要ですよね。野村さんがそういう選手にアドバイスをするとそれが当たるんです。でも、僕にはアドバイスをくれませんでした(笑)。

 だから、なぜくれないのか聞いたら、「お前はそんなバッターじゃねえだろ」って言われて......。ある程度認めてもらえているのかな、という感じはしましたね。

 野村さんは、いろんな球団を渡り歩いて45歳まで現役を続けたからこそ、(長く続けている選手の)気持ちがすごくわかるんだろうなと。僕も40歳ぐらいの時に、そろそろ引退じゃないかって記事が出たり、言われたりもしていたんですが、その時、野村さんに記者の方が「辻もそろそろ年齢的に......」と言ったら「バカやろう」って話になったらしいんです。「ここまでプロ野球界で頑張ってくれた選手に対して、俺がいつユニホームを脱げとか言えるわけねえだろ」って言われたことを、記者の方々から聞いた時はうれしかったですね。

上重 実績や経験に対して敬意を払って、『引退』というところは、本人が決めるべきだろうっていうのを野村さんが言ってくださったんですね。

辻 そうですね。

【コーチとしてともに戦った落合博満】

上重 続いては引退後、中日ドラゴンズでコーチをされていましたが、その時の落合博満監督はどんな監督でしたか?

辻 落合監督は、本当に厳しいというか妥協しない監督でしたね。2007年に2軍監督で呼ばれて勉強させてもらったんですけど、シーズンが終わって、秋季練習で紅白戦をやったりすると、負けたチームに罰走があったりして40周ぐらい走んなきゃいけないわけですよ。そうすると、秋だから暗くなるのも早くて真っ暗なんです。「もういいよ」と言うかなと思いきや、最後までそれを見届けていましたね。春先のキャンプもそうでした。

上重 それだけやらないと強くならないという信念があったんですかね。

辻 強くするためには絶対に必要でしょうね。ある程度完成された選手のいるチームと、これから成長していくチームがあるので、後者のチームなら落合さんは最適じゃないですかね。

上重 そういった部分も、のちに辻さんが監督をされる時に生かされましたか?

辻 生きましたね。いろんな監督と一緒にやりましたけど、人間すべてがパーフェクトではないので、それは自分の物差しで判断していました。

だから、自分が嫌だったことはやらず、いいとこ取りで考えていました。

上重 落合さんとは、今も付き合いはありますか?

辻 そうですね。講演会で一緒になったりしますけど、相変わらずですね(笑)。

【Profile】
辻発彦(つじ・はつひこ)/1958年10月24日、佐賀県出身。1983年にドラフト2位で西武ライオンズに入団。16年間の現役時代で複数のゴールデングラブ賞やベストナインを受賞。2017年より2022年まで6年間、西武ライオンズ監督を務めた。現在は野球解説者として活動している。

上重聡(かみしげ・さとし)/1980年5月2日生まれ、大阪府出身。PL学園時代にエースとして活躍。立教大では東京六大学リーグで史上ふたり目の完全試合を達成。卒業後の2003年にアナウンサーとして日本テレビに入社。

2024年3月末をもって同社を退社し、現在はフリーアナウンサーとして活動している。

編集部おすすめ