今年6月に逝去した長嶋茂雄氏。お別れの会が開催された先月11月21日に『週プレNEWS』にて昨年8月より配信した連載「長嶋茂雄は何がすごかったのか?」をまとめた書籍『長嶋茂雄が見たかった。
生で長嶋氏のプレーを見ることがかなわなかった、立教大学野球部出身の著者・元永知宏氏が、長嶋氏とプレーした15人の往年の名選手たちに「長嶋茂雄は何がすごかったのか」を取材してまとめたのがこちらの一冊。本著より長嶋氏の印象的なエピソードを時代に沿って抜粋し、5日間にわたって掲載する第5回(最終回)。
【「長嶋、やめるな~」と叫んだ引退の日】
1954(昭和29)年1月、福島県で生まれた中畑清は、長嶋茂雄とは18歳も年齢が離れている。長嶋がプロ野球でデビューした1958年(昭和33年)頃の記憶はない。
中畑が言う。
「ボール遊びをする子どもたちは、それぞれに長嶋さんの真似をして、打ったり、捕ったり、投げたりしたもんだよ。それは俺だけじゃない。そこでの会話は長嶋さんに関することばかり。『昨日のホームランはすごかったな』とかね。
その頃、ランニングシャツは貴重だったんだけど、俺は墨で『3』と書いて、長嶋茂雄になりきって遊んでいたよ。まだ小さい頃から長嶋さんに憧れていたね」
長嶋が引退試合に臨んだ日。駒澤大学野球部の3年生だった中畑は寮のテレビの前に座っていた。
「秋季リーグ戦の真っ最中。ダブルヘッダーの2試合目が終わる頃に寮に着いて、ユニフォームのままで自分の部屋のテレビをつけた。
画面に向かって『長嶋、やめるな~』と、野球部員みんなが叫んでいたのを覚えている。叫び声がそのうちに号泣に変わっていったんだよ」
野球部の寮のあちらこちらから、泣き声が聞こえてきた。
「野球部員全員が同じことをするなんて、考えられないよな? でも、寮のすべての部屋でテレビを見ていたはずだよ。
あの時のことは本当に忘れられないね。太陽のような人がいなくなることが信じられなかった。長嶋さんがユニフォームを脱ぐ時が来るなんて考えたこともなくて、実際にそのシーンを見せられたショックがあった。この世界から野球というものがなくなっちゃうんじゃないかとも思った」
物心ついた時から、世界の中心には長嶋がいた。
「何をやってもかっこよくて、みんなが長嶋さんについて話をする。日本中で長嶋茂雄を知らない人はひとりもいなかった。野球界だけじゃなくて、日本の宝だったと思う。
長嶋さんが引退したことで、『次は俺がやってやろう』とはならないよ。ショックのほうが大きかったな。そのあとも、長嶋さんの引退をずっと引きずっているところがあったよ。元気が出なくて......」
中畑が読売ジャイアンツからドラフト指名されたのは翌年のことだ。
【長嶋のアクションで観客の感情が動く】
1974(昭和49)年10月14日、巨人の本拠地である後楽園球場で行なわれた中日とのダブルヘッダーが長嶋の引退試合となった。「我が巨人軍は永久に不滅です」というあの伝説的なスピーチが行なわれた日だ。2試合目のゲームセットの瞬間、マウンドにいたのは巨人の横山忠夫だった。横山はこう振り返る。
「その時には、もう中日の優勝が決まっていた(※巨人は2位)。俺が長嶋さんの(立教)大学の後輩だということを川上哲治監督が考慮してくれたのかどうかはわからないけど、二軍にいた俺を一軍に呼んでくれたんだよ。2試合目は10対0で勝っていて、8回、9回のマウンドを任された」
長嶋にとって最後の試合。大差ということもあって、観客は勝敗に関する興味を失っていた。
「正直、投げにくかったよ。長嶋さんがこの試合で終わりということで、球場の雰囲気はそれまでにないものだった。試合後の引退セレモニーをみんなが待っている感じだったから、フォアボールは出せないし、ヒットも打たれたくない。
みんなが『早く終わらせてくれ』と思っているというのがわかるから、どんどんストライクを取って、少しでも早く終わらせたいという一心だったね。中日のバッターが早打ちしてくれたのかわからないけど、3人ずつで終わることができて本当にほっとしたことを覚えているよ」
あの球場の雰囲気を横山は今でも覚えている。
「もう異常だったよ。『ナガシマー!』って叫ぶ人、号泣している人がいて。長嶋さんが何かのアクションをするたびに、いろいろな人の感情が動くのがよくわかった。
その引退試合の写真が残っているけど、スコアボードに横山という名前があるのは名誉なことだよね。監督だった川上さんにも、長嶋さんにも感謝している」
長嶋の引退試合が現役最後の試合になった選手がいた。V9時代を支えた黒江透修(くろえ・ゆきのぶ)だ。黒江はその日をこう振り返る。
「僕はプロ野球で1000試合以上に出場したけど、あんな雰囲気の試合はなかった。長嶋さんという、本当に素晴らしい選手と野球ができてよかったなとあらためて思った。
ダブルヘッダーの1試合目、ショートは(僕ではなく)河埜和正が守った。そして、1試合目が終わって、ベンチで2試合目のことを考えていると、突然、スタンドが騒がしくなったんだよね。長嶋さんがグラウンドに出て、(観客に挨拶をしながら)場内を一周しはじめて、球場の空気がすごく変わった。選手もみんな驚いたよ」
黒江は2試合目に六番ショートでスタメン出場。2打席目にレフト前ヒットを放ったが、最後の打席はセカンドゴロで打ち取られた。黒江は1135試合に出場し、923安打(通算打率.265)、57本塁打という成績を残し、長嶋とともにユニフォームを脱いだ。
「長嶋さんの引退セレモニーはグラウンドで見ていた。その時にあったのは、長嶋さんのようなすごい選手と11年も一緒に野球ができたことに対する感謝の気持ちだけだったね。ミスターの涙を見たのはあの日が初めてだった。
巨人で長嶋さんと一緒に戦って、いろいろなことを勉強できた。
リーグ9連覇も9年連続日本一も、今後達成される可能性のない偉業だ。チームの核となる長嶋と王貞治がいて、ほかの選手がそのふたりのために力を尽くすという形があった。
「ほかの選手では長嶋茂雄にはなれない。もちろん、王にも。あのふたりと競り合ってやろうという気はまったくなかった。一緒に野球をやれたらいいという気持ちだけ。真似したり、競り合おうとしたら、こっちがおかしくなっちゃうから。
あの人たちは別なんだという気持ちでいるほうが楽だし、相手を立てることで長嶋さんや王が何か感じてくれることがあるんじゃないかと思った。あの頃、巨人がいざという時に力を合わせることができたのは、中心に長嶋さんと王がいたから。だから、強かったんだと思う」
V9時代の巨人の強さの源は何だったのか。
「ほかのチームとは、モノの考え方が違ったんだろうね。練習の仕方について、長嶋さんも意見を言ったし、王もそう。あのふたりの考えをほかの選手が聞くことでチームもまとまったし、強くなった。ものすごくいい勉強になったし、あれがなければV9はできなかっただろうな。巨人はみんなで一丸となって戦っていたから。
引退して50年が経っても、長嶋さんといういい先輩と野球ができて本当によかった。今振り返ると、いいメンバーと野球ができたなと思うよ」
第4回を読む>>>日本シリーズで巨人に負け続けた阪急の選手たちの記憶「試合前の練習の時点で圧倒されていた」










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