関節技の鬼 藤原喜明のプロレス人生(5)

(連載4:藤原喜明が見た、アントニオ猪木と山本小鉄の素顔 誰からも愛された「前座の力道山」との思い出>>)

 プロレスラー藤原喜明はサラリーマンを経て、23歳で旗揚げ間もない新日本プロレスに入門。アントニオ猪木、カール・ゴッチの薫陶(くんとう)を受け、道場で関節技の技術を磨き、新日本プロレス最強伝説の礎を築いた。

 そんな藤原が激動の人生を振り返る連載の第5回は、新日本の人気爆発のきっかけになった坂口征二の移籍や、大物ルーキーだった長州力、「カール・ゴッチ杯」優勝などについて語った。

【プロレス】藤原喜明が振り返る、坂口征二と大物ルーキー・長州...の画像はこちら >>

【新日本のテレビ中継を実現させた坂口征二】

 1972年に旗揚げした新日本プロレスが上昇気流に乗ったきっかけは、坂口征二の入団だった。坂口は明治大から旭化成に入社し、1965年の全日本柔道選手権で優勝。その2年後、"鳴り物入り"で日本プロレス(日プロ)に入団してプロレスラーに転向した。

 身長194cmの巨体に精悍なマスク、柔道日本一の技でファンの心をつかみ、瞬く間にジャイアント馬場、アントニオ猪木に次ぐ看板選手になった。そして1973年4月、新日本に坂口が移籍したことで、NET(現テレビ朝日)は金曜夜8時からテレビ中継『ワールドプロレスリング』をスタート。前年の旗揚げからテレビのレギュラー中継がなかった新日本の人気は、そこから一気に高まることになる。

 坂口は、日本プロレスの小沢正志(のちのキラー・カーン)、木村たかし(のちの木村健悟)など、若手選手を連れて新日本に合流した。当時、デビュー1年目の新人レスラーだった藤原は、坂口が入団する動きを知る由もなかった。

「坂口さんと、日プロの若手も入ってきたから、『よそ者なんかに負けてたまるか』って気持ちはあったな。ただ、テレビも始まったから、当然その前より会場が盛り上がったよ。

 坂口さんは、あの体の大きさだけで説得力があった。思い出すのは......道場に、天井からぶら下がっているトレーニング用のロープがあってな。

普通は腕だけじゃなくて、足を絡ませるとか体全体を使って登るんだよ。だけど、坂口さんは腕だけで登ってみせた。当時の体重は130kg近かったのにな。『すげぇ力だな』って驚いたよ。あの人は生まれつき、とんでもない才能を持った人だった」

【長州力の練習を見て「天才だ」】

 坂口が入団した翌年には、アマチュアレスリングから大物新人が入団した。吉田光雄、のちの長州力だ。

 長州は専修大レスリング部時代、1971年の全日本学生選手権グレコローマン90kg級で優勝。1972年のミュンヘン五輪に出場するなど実績を積んでいた。オリンピックに出場した選手が新日本に入団するのは初めてで、団体にはさらに活気がみなぎった。藤原は、道場で入団間もない長州の練習を見た時、「天才だ」と思ったという。

「スパーリングはあまりやらなかったけど、体つきもすばらしいし、一つひとつの動きがうまかった。向こうは、入団してすぐにマスコミに騒がれたけど、俺にジェラシーなんかあるわけがない。なんたってオリンピック選手だからな。

岩手の農家で生まれ育った俺なんか比較にならねぇよ」

 入団間もない頃の長州を、そう回想した藤原だが、その約10年後に、雪の札幌で襲撃する大事件を起こすことになるのだが......それはこの連載の別のエピソードで紹介する。

 長州が入団した翌年、藤原がスポットライトを浴びる時がくる。若手選手たちによるリーグ戦「第2回カール・ゴッチ杯」で優勝したのだ。1974年にスタートしたゴッチの優勝者には、海外遠征の切符が約束されており、第1回は藤波辰巳(現・辰爾)が優勝して西ドイツへと旅立った。藤原が優勝した第2回は、ほかに荒川真、小沢正志、木村たかし、栗栖正伸、小林邦昭が参加した。ただ、藤原の記憶はあいまいだった。

「ゴッチ杯で優勝? あぁ、そんなこともあったな。別に思い出はないよ。優勝するのは当たり前だと思っていた。それだけだよ」

 優勝戦は木村たかしとの対戦だった。木村について尋ねると、「覚えてねぇな......」と黙り込んだ。

 ゴッチ杯で優勝した藤原だったが、藤波のように海外武者修行に出ることはなかった。

リーグ戦制覇で一時的に脚光を浴びたが、再び前座で黙々と試合を行ない、道場で練習する日々だった。

「海外には行けなかったけど、不満なんかねぇよ。俺は旅ってもんが大嫌いでな。家にこもって盆栽やったり、絵を描いたり、焼き物を作っていたりするほうが好きなんだ。

 何をやるにも考えることが大好きでな。あの頃は、『道場でスパーリングをやって相手を極めるのに、もっといい方法はないか』って考えることが何よりも好きだった。海外なんか出されるより、道場で練習できたから大満足だよ」

【ブラジルの格闘家に抱いた怒り】

 坂口の加入、大物ルーキー・長州の入団のほか、新日本にはブラジルからの"留学生"も加わった。それは、柔術家で格闘家のイワン・ゴメス。ゴメスは1974年12月に新日本がブラジル遠征を行なった際、猪木に挑戦を表明し、そのまま来日して新日本に加わった。試合にも出場したが、猪木とは対戦することなく2年ほどで帰国。ゴメスとの思い出を聞くと藤原は顔をしかめた。

「猪木さんは、『テクニックがあるんじゃないか』と思って新日本に入れたんだ。

俺も道場でスパーリングやったけど、大して強いとは思わなかった。蹴りも大したことはなかった。ただ、ひとつだけ、あいつのヒールホールドだけは使えると思ったな」

 ゴメスに関しては、リングを離れた時の態度が忘れられないという。

「あいつは、俺たちと同じ合宿所に住み込んでいた。ブラジルに手紙を出す時に、俺は面倒を見たりしてたんだけど、俺が猪木さんの付き人でカバン持ちをしてたからか、あいつはいい気になって、俺のことを自分の子分みたいに見るようになってな。だから、『テメェ、この野郎!』って言って、そこから口を利かなかったよ。

 俺はあくまで、猪木さんのカバン持ち。最初は、『はるか遠いブラジルから日本に来て大変だろう』と思って親切にしてたけど、とんだ勘違いしやがったんだ。猪木さんとあいつは戦わなかったけど、やる意味がないだろ? ゴメスが猪木さんとやっても客は来ない。俺たちはプロ。客を呼んでなんぼだからな」

 選手層が厚くなると同時に、リングも活況を呈する。猪木は、同じく1972年にジャイアント馬場が旗揚げした全日本プロレスに対し、激しい興行戦争を仕掛けていった。

全日本は、土曜夜8時から日本テレビが中継していた。ゴールデンタイムで中継するプロレス中継がテレビ局の看板番組だった当時、両団体の争いは各中継の視聴率の争いでもあった。

 全日本は、世界最大のプロレス団体「NWA」からトップ外国人レスラーを招聘するルートを確保し、シリーズごとに豪華なレスラーが来日していた。そんなライバル団体に対抗すべく、猪木のマネージャーだった新間寿が考えた路線は大物日本人レスラー同士の対決だった。

 猪木は1974年3月19日、国際プロレスから引き抜いたストロング小林と対決。さらに同じ年の10月10日には、日本プロレス時代の先輩だった大木金太郎と対戦し、いずれも歴史に残る名勝負となった。藤原は猪木のセコンドとして両試合を見守った。

「あの試合? マスコミも客も盛り上がったけど、俺に言わせれば、猪木さんにとっては普通の試合だよ」

 小林、大木を破った猪木は、「プロレスこそ最強の格闘技」という信念のもと、それを追求していくことになる。そして、究極の一戦が実現する。1976年6月26日に日本武道館で行なわれた、ボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリとの「格闘技世界一決定戦」だ。藤原は猪木の付き人として、一部始終を間近で見ていた。

(敬称略)

つづく

【プロフィール】

藤原喜明(ふじわら・よしあき)

1949年4月27日生まれ、岩手県出身。

1972年11月2日に23歳で新日本プロレスに入門し、その10日後に藤波辰巳戦でデビュー。カール・ゴッチに師事し、サブミッションレスリングに傾倒したことから「関節技の鬼」として知られる。1991年には藤原組を旗揚げ。現在も現役レスラーとして活躍するほか、俳優やナレーター、声優などでも活動している。陶芸、盆栽、イラストなど特技も多彩。

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