連載第108回 
サッカー観戦7700試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

 現場観戦7700試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。

 北中米大会でじつに14大会連続のW杯観戦になる後藤氏。

今回は、今大会多くのチームが活躍して話題となっている、アフリカ勢躍進の歴史を追います。

【10チーム中9チームがグループステージ突破】

 2026年W杯ではアフリカ勢の健闘が目立った。

【ワールドカップ】アフリカ勢は10チーム中9チームが決勝トー...の画像はこちら >>
 アフリカからは10チームが参加したが、そのうち9チームがグループステージを突破。

 ラウンド32の戦いでも、モロッコがオランダにPK勝ち。他にも、最終的には敗れ去ったものの、コートジボワールがノルウェーを、コンゴ民主共和国がイングランドを、そしてセネガルがベルギーを、それぞれあと一歩のところまで追い詰めた。

 さらに、極めつけだったのは初出場の小国カーボベルデ。前回優勝のアルゼンチンと延長120分の激闘を演じて、世界中を感動の渦に巻き込んだ。

 一方、アジア勢は全9チームが参加しながら、ノックアウトステージに残ったのが2チームのみという惨敗。まさに対照的だった。

 フットボールというスポーツは、ご存じの通り欧州大陸で生まれたスポーツだ(現代のサッカーのルーツはイングランドだが、欧州各地に同様の遊びは存在した)。したがって、ルールなども当時の欧州スポーツ文化のなかで形作られていった。

 そんな、フットボールの世界にアフリカ系の人たち、特にブラックアフリカの人々が本格的に関わるようになったのは、20世紀前半のブラジルでのことだった。

 アフリカといっても北アフリカは古代ギリシャ・ローマ時代から「地中海世界」として欧州大陸と同じ歴史を歩んできた地域だし、近代以降も政治的、経済的に結びつきが強かった。

住民の多くはアラブ系やベルベル(アマジグ)系の人々である。

 だが、サハラ砂漠以南のいわゆるブラックアフリカとも呼ばれる地域に暮らしているのは黒人が大半だ。。

 サッカーというスポーツが欧州で盛んになった19世紀後半から20世紀初めにかけて、アフリカ大陸のほとんどは欧州各国の植民地であり、とくにブラックアフリカでは現地の人たちがサッカーに親しむような環境にはなかったし、現在と違って欧州に住む黒人は少なかった。

 南米大陸でも、古くからサッカーが盛んだったアルゼンチンやウルグアイには黒人人口は少なく、一方、比較的黒人が多いペルーやコロンビアのサッカーのレベルは高くなかった。

 多くの黒人選手が初めて本格的にプレーしたのは、ブラジルでのことだった。

 ブラジルには、鉱山や農場での労働力としてアフリカから多くの奴隷が連れてこられ、差別的な環境に置かれるなか、彼らのなかから一流のフットボーラーが生まれてきた。

 W杯では、当時のブラジル代表の黒人選手たちの卓越した個人技やスピード、フィジカルの強さに、欧州勢は苦戦を強いられたのだ。
 こうして1950年代から1960年代にかけてブラジルの黄金時代をもたらしたのは、黒人選手たちだったのである。

 これが、黒人選手たちが世界のサッカーに影響を与えた"第1波"だった。

【黒人選手の活躍】

 欧州で初めて黒人選手たちが活躍したのはポルトガルで、モザンビークやアンゴラ出身の選手を擁した同国代表は1966年のイングランドW杯で3位に入った。同大会得点王となったエウゼビオもそのひとりだ。

 しかし、その他の欧州諸国にはまだ黒人選手はごく少数で、1976年にカリブ海の島々グアドループ(フランス海外県)出身のDFマリウス・トレゾールがフランス代表主将に任命されたのは大きな驚きだった(今ではフランスはチームの多くが黒人だが、当時、黒人選手はまだ珍しい存在だった)。

 一方、1970年代までアフリカ諸国のサッカーはまだ大きな存在ではなかった。

 ブラックアフリカから初めてW杯に出場したのは、1974年西ドイツ大会のザイール(現在のコンゴ民主共和国)だったが、グループステージで3戦全敗、無得点で14失点。ザイールの入った第2組では上位3チームの試合はすべて引き分けに終わったため得失点差での勝負となり、ザイールから9点を奪ったユーゴスラビアが首位、3点のブラジルが2位、2点のスコットランドが3位という結果となった。

 ブラックアフリカ諸国が存在感を発揮し始めたのは、1990年代前半のことだった。これが、黒人選手たちの衝撃"第2波"だ。

 1990年のイタリアW杯ではミラノ・サンシーロでの開幕戦でカメルーンが前回優勝のアルゼンチンを破り、勢いに乗ったカメルーンは同大会でベスト8入り。そして、1994年アメリカW杯ではナイジェリアがグループステージを首位通過。ラウンド16で準優勝のイタリアに1対2で惜敗した。

 ナイジェリアは2年後のアトランタ五輪でも、決勝でアルゼンチンを破って金メダルを獲得。「近い将来、W杯でもアフリカが優勝するのではないか」と言われた。

 しかし、その後、W杯でのアフリカ勢の上位進出はなかなか実現しなかった。

 身体能力では他を圧し、テクニックでも遜色なくても、戦術的に未熟だったり、ファウルが多くて自滅するチームが多かった。

【欧州育ちの選手たち】

 アフリカのチームがW杯でベスト4入りするのは、2022年のカタール大会でのモロッコの活躍まで待たなければならなかった。

 そのモロッコの躍進に続いて、今回の北中米W杯でも前述のように参加10チーム中9チームがノックアウトステージに進出。ブラックアフリカ諸国もすべてグループステージを勝ち抜いた。これは、黒人選手の衝撃の "第3波"と言っていいかもしれない。

 約30年前の"第2波"と現在の"第3波"の間には大きな違いがある。

 それは、1990年のカメルーンも1994年のナイジェリアも大半が自国生まれ、自国育ちの選手たちだった。一方、今年のW杯で活躍したアフリカ諸国の選手の大半は欧州生まれ、欧州育ちだったのだ。

 今大会のラウンド32の試合で先発した11人(つまり主力選手)を調べてみた。すると、たとえば前回ベスト4のモロッコの場合、11人中9人がフランス、ベルギー、スペインなど欧州諸国生まれだった。

 しかし、欧州生まれが多かったのは、欧州との結びつきが強い北アフリカ諸国だけではなかった。

 イングランド相手に善戦したアフリカ中部のコンゴ民主共和国でも、欧州生まれが9人もいた。

 ブラックアフリカ諸国のなかでは早くから欧州と接触し、欧州的教育が普及して古くからサッカーが盛んだったセネガルには地元生まれが多かったが、欧州生まれは5人。さらに、ひとりはセネガル生まれだが幼少期にフランスに移住した選手だった。

 つまり、"第3波"は欧州育ちの選手を祖国に迎え入れることによって実現したものだったのだ。

 したがって、現在のアフリカのチームはかつてのカメルーンやナイジェリアのように粗削りでもなければ、反則を多発することもない。欧州諸国と同じように洗練されたプレーをする選手が多くなっている。

【欧州とアフリカはもはや同一の存在】

 アフリカにルーツを持ち、欧州で育った選手たちのうち、ある選手は育った欧州の代表を選択し、また、ある選手は祖国のユニフォームを着てプレーする......。そんな時代が到来したのである。たとえばアルジェリア代表のGKルカ・ジダンはフランス生まれでスペイン育ちだが、父親のアルジェリア系フランス人ジネディーヌ・ジダンはフランス代表としてプレーした。

 そのルカが所属するアルジェリアはラウンド32ではスイスと対戦し、優勢に試合を進めていたものの0対2で敗れてしまった。10分にスイスのヨハン・マンザンビのドリブル突破からのクロスをブレール・エンボロに決められ、さらに後半開始直後にもダン・エンドイェに2点目を奪われた。

 そのマンザンビはスイス生まれで両親はアンゴラとコンゴ民主共和国の出身、エンボロはカメルーン生まれ(幼少期にスイスへ移住)。そして、エンドイェもスイス生まれながら父親はセネガル人と、スイスの得点に絡んだのはいずれもアフリカにルーツを持つ選手たちだった。

 今では欧州チームにはどこもアフリカ系の選手がプレーしており、逆にアフリカのチームの選手の大半は欧州生まれ......。サッカーの世界では、欧州とアフリカはもはやほぼ同一の存在と考えたほうがいいのかもしれない。

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