野球の未来を見ていた男~近藤貞雄伝
証言者・高木豊(前編)
1984年10月15日、近藤貞雄は横浜大洋(現・DeNA)の監督に就任した。83年限りで中日監督を辞任、退団してからわずか1年後。
「チームをつくるのに3年、5年かけるのは安易だ。短期間にすると無駄がない」
【モットーはスピード、シャープ、センスの3S】
ロッテ投手コーチ時代は2年目の1970年、中日ヘッドコーチ時代も3年目の74年に優勝を経験している。それだけに近藤は大洋球団に「2年の勝負」を申し出た。当時は3年契約が常識的なところ、自ら2年契約を望み、結んだのである。球団社長の塩谷政徳も「強気の性格、優勝請負人」として招聘した理由を挙げている。
59歳の新監督は、さっそく目指す野球を語った。
「10年以上前の大洋は豪快だった。最近はおとなしく、迫力がない。ファンに楽しんでもらうために豪快さは必要。勝負は旺盛な闘争心が制す。
プロ野球チームは、本拠地の土地柄や風土に合った野球をやるべき──。そんな持論がある近藤は、港町・横浜にふさわしいスマートで洗練された野球を目指し、スピードを前面に押し出す攻撃を考えていた。「豪快さ」の象徴である長距離打者が少ないうえに、当時のセ・リーグ球場で横浜スタジアムが最も広く、フェンスが高いため、本塁打が出にくいという背景もあった。
「スピード、シャープ、センスの3Sをモットーにしていきたい。スピードは、高木豊、屋鋪要という球界トップの快足を誇る1、2番。ふたりで100個ぐらいの盗塁をさせたい。足は中日監督時代に私ができなかった攻撃です」
3Sのシャープは「猛練習至上ではない、頭を使った合理的な練習」で、センスは「中日で徹底できなかった前半は攻撃、後半は守備を重視するアメフト式野球」。そしてスピードには、のちに"スーパーカートリオ"と呼ばれる1、2、3番構想が垣間見える。そこまで明確に自分のカラーを打ち出した近藤だが、コーチ陣で中日OBは作戦担当の前田益穂のみ。ほかはすべて大洋OBだった。
近藤曰く「前の球団で成功したからといって、同じやり方、同じスタッフをそのまま持ってきてもうまくいくとは限らない」。横浜のファン気質や地域性に合うスタッフが必要とも言っているのだが、その一方で、コーチの顔ぶれがどうあれ、自らが貫く野球は決まっているという自信の表れなのか。
では、そんな新監督に、ホエールズの選手たちはどう向き合ったのだろう。山口・多々良学園高(現・高川学園高)から中央大を経て、1980年のドラフト3位で入団した高木に聞く。俊足好打を武器に3年目から正二塁手となった高木は、84年には自身初タイトルの盗塁王を獲得していた。
【常識を覆した守備の総入れ替え】
「忘れもしないのが、その年のセ・リーグ東西対抗です。ナゴヤ球場でゲームがあって、その時、2本ホームラン打ったんですね。そしたら、ベンチに入っていた近藤さんが僕のところに来てくれて、翌年から大洋の指揮を執るということで『来年から頼むな。頑張ろうな』って言われたんです。すごくいい人だなって、思いましたね」
東西対抗は巨人、ヤクルト、大洋が東軍、阪神、中日、広島が西軍に分かれて戦うオフのイベント(1979年~99年に開催)。84年は11月17日に行なわれ、近藤と高木は東軍のベンチで一緒だった。自身を成長させてくれた関根の退任に衝撃を受け、寂しさも感じていた高木だったが、この出会いで覚悟が固まり、85年2月のキャンプを迎えた。
「近藤さんはすごくアイデアマンでしたからね。僕と屋鋪で100個ぐらい走らせるとか、そういうことは言うだろうなと思っていました。それで実際、『うちの売りとして、走っていけよ』とキャンプで言われまして。
高木が言う「アイデアマン」らしさは、攻撃よりも守備面に如実に出た。キャンプ序盤、近藤は二塁の高木を遊撃へ、遊撃の山下大輔を二塁へ動かし、一塁のレオン・リーを三塁へ、三塁の田代富雄を一塁へ配置転換。山下は遊撃で8年連続ダイヤモンドクラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)の名手で、高木も二塁で同賞を受賞していただけに、多くの評論家から疑問の声が上がった。
それでも近藤は動じず、プロ12年目で33歳になった山下の肩と足の衰えを指摘する一方、脂が乗ってきた高木のスピードを強調。また、三塁手に必要な条件として「肩の強さ、打球を恐れない勇気、ハンドワークの柔らかさ」を挙げ、すべて田代よりレオンのほうが上回っていると主張した。当事者である高木自身、総入れ替えの大コンバートをどう受け止めたのか。
「山下さんは年齢のこともあって、ある程度、動きが悪くなってきたのは確かなんです。ただやっぱり、山下さんのショートは動かしちゃいけなかったですね。守備範囲とかいろんなことを考えたら、僕のほうが上でしたよ。だけど、打球のさばき方はショートとセカンドで違うし、それは山下さんのほうが絶対にうまかったはずです。
で、山下さんだけじゃなく、田代さんも代えて、三遊間、一二塁間、全部代えたわけですから、慣れるのも大変でした。
【走らなかったら使わない】
選手の内面を思いやる代わりに、入れ替えれば必ず好転するという信念のもと、近藤はコンバートを敢行した。そして巨人との開幕戦。1番(遊)高木、2番(左)加藤博一、3番(中)屋鋪、4番(三)レオン、5番(右)ジェリー・ホワイト、6番(一)田代、7番(二)山下、8番(捕)若菜嘉晴、9番(投)遠藤一彦で臨んだ。当初は1番・屋鋪、3番・高木という構想だった。
「屋鋪は出塁率が高くなかったですからね。出塁率のいいほうを先に持ってきたんじゃないか、という気がします。それで加藤さんは細かいことができるし、屋鋪はちょっと器用じゃなかったので。とにかく打って還すところだけでいいんじゃないか、というような話は聞きました」
とはいえ、前年までおもに7番、8番の屋鋪を3番に置いたのだ。評論家を驚かせ、批判もされ、記者も驚いた。しかし、開幕戦での屋鋪は3安打3打点で決勝三塁打を放ち、1、2、3番に盗塁はなくとも高木は2安打、加藤も3安打と打ちまくり、レオンが3ランを含む5打点。
幸先のいいスタートを切った大洋は4月を7勝4敗2分と勝ち越し。7勝目を挙げた同29日の阪神戦では加藤が2盗塁、屋鋪が1盗塁と足をからめ、相手監督の吉田義男に「あのうるさい連中が......」と舌打ちさせた。近藤はこの時、俊足の1、2、3番を「高性能な3台のスポーツカー」と名づけ、「出塁したらすべて、ノーサインで走れ」と命じていた。
「走らなかったら、近藤さんには3人まとめて怒られていましたよ。『なんで走らないんだ?』って。いや、盗塁ってスタートが切れない時はあるし、足にもスランプありますからね。それで『走れないんです』って言ってるのに、『走らなかったらおまえらは使わない』とか言う。いい人でしたけど、びっくりするぐらいわがままなオッサンでしたよ」
(文中敬称略)
つづく>>
高橋安幸●文 text by Yasuyuki Takahashi










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