この記事をまとめると
■アストンマーティン「DB」の新たなモデルとしてDB12がデビューした■1947年にアストンマーティンを買収した実業家デビッド・ブラウンのイニシャルから「DB」と名付けられた
■今回はDBシリーズの歴史を振り返る
DB12誕生を機に「DB」シリーズを振り返る
イギリスのアストンマーティンは、伝統のDBシリーズの血統を受け継ぐ新型GT、「DB12」を現地時間の5月24日に発表。それはDBシリーズの歴史のみならず、アストンマーティンのGTが将来あるべき姿を再定義したモデルとして今後、大いに注目される存在となっていくだろう。
そしてここでは、そのDBシリーズの歴史を振り返るというのが編集部からの依頼なわけだが、最初にお断りしておくとその始まりからDB12に至るまでの時間は長い。
デビッド・ブラウン傘下で誕生した最初のモデルは、シンプルに「2リッター・スポーツ」と呼ばれ、1948年から1950年までの間にわずか15台が生産されたすぎなかったが、1949年には早くもブラウンは新型車によるル・マン24時間レースの参戦計画を発表。そのために製作されたのが3台の「DB2」で、そのためにかつての2リッター・スポーツは「DB1」という新たな車名を得るに至ったのである。

その1949年のル・マン24時間での好成績を受け、1950年にはロードモデルのDB2の生産が開始される。そしてDB2は、高性能なスポーツカーに飢えていたカスタマーの心を大いに刺激し、その後も4シーター仕様やオープン仕様、そしてエンジンの強化などが図られていったのだ。

ちなみに現在はアストンマーティンのクラシック部門であるワークスなどが使用するニューポート・パグネルの工場は、1950年代終盤というからまさにこの頃から、メインの工場として使われてきたということになる。
続く「DB3」は最初からコンペティションカーとして開発されたモデルだった。シャシーはDB2のそれから大幅にデザインを変更したラダーフレームとなり、サスペンションやブレーキ、2.6リッターの直列6気筒エンジンなどを採用してレースへと参戦したものの結果は振るわなかった。
そこで1953年に投入されたのが、さらに高性能で軽量な仕様となる「DB3S」。こちらは1953年から1956年にかけて15回の優勝という結果を残している。

このDB3Sの後継車となったコンペティションカーが、「DB R1」、「DB R2」、「DB R3」といったモデルたち。

それらはいずれも大活躍を見せ、とくにDB R1はイギリス車として初めて世界スポーツカー選手権を獲得している。
1963年、のちに世界一有名なクルマとなるDB5が誕生
1958年にロンドンショーで発表された「DB4」は、現在でもエンスージアストからの人気が高いモデルだ。かつてミラノに存在したカロッツェリア・ツーリングが特許を持っていた軽量ボディ構造、スーパーレッジェーラを採用し、3.7リッターの直列6気筒DOHCエンジンを搭載したDB4は、1963年までに1100台以上が生産され、さらにその高性能版たる「DB4 GT」も1959年から1963年まで製作されている。

ちなみにこのDB4 GTをベースにザガートが独自の軽量ボディを組み合わせた19台のスペシャルモデルが、「DB4 GTザガート」にほかならない。

DB4の後継車はもちろん「DB5」で、こちらは1963年から1965年まで生産された。外観はDB4とほとんど変わらないように見えるが、エンジンはそれまでのDB4 GTが3.7リッターであったのに対して4リッターにまで拡大。1964年には高性能版のヴァンテージも追加設定されている。

1965年にはさらに進化型の「DB6」が誕生するが、その外観はこれもまたDB4の最終型から大きく変わることはなかった。実際にはホイールベースの延長やエアロダイナミクスの向上を意識した改良作業は多くの部分にわたり、ヴァンテージ仕様では最高出力も325馬力を掲げるに至っている。オープンモデルにヴォランテの名称が与えられたのも、このDB6が最初のこととなる。

1970年代に入ると、再び経営状態が悪化の兆しを見せ始めたアストマーティン。そのようななかでデビット・ブラウンは1972年に同社の経営権を譲渡。

このDB6から「DB7」の登場までに流れた時間の長さは、まだ記憶に新しいところだろう。1987年、アストンマーティンはフォードの傘下に収まり、このときにデビッド・ブラウンは再び役員として招致されたのである。実際にDB7がデビューしたのは1994年のこと。

それから2004年には「DB9」が、また2016年には「DB11」が誕生することになる。

駆け足で振り返ってきたDBの系譜、それはかくも長く、そして華やかなものではないか。