この記事をまとめると
■ランボルギーニ・ディアブロは1990~2001年まで製造されていた■5.7リッター/6リッターV12をミッドに搭載したシザースドアのフラッグシップモデル
■初期のディアブロの品質はとにかく悪く不具合が頻出した
「悪魔」と名付けられたカウンタックの後継モデル
1990年半ばから2001年にかけて、つまり1990年代のほとんどを、ランボルギーニが生産したロードカーは、実質的にはディアブロのみだった。ほかにはカウンタック・アニバーサリーの最終期にあたるモデルと、今ではこれもSUVというのだろう、オフローダーのLM002が細々と生産されていたのみ。悪魔という闘牛の名を与えられたこの新型車は、1990年代のランボルギーニを支える、きわめて重要な商品にほかならなかったのだ。
当初の計画では、さらに早い時期にフルモデルチェンジが予定されていたディアブロだが、結果的に10年近くのライフスパンを得るに至ったのは、1998年にアウディがランボルギーニの新たな親会社となったからにほかならない。P132の社内コードで開発が始まった時、フランスのミムラン・グループが親会社だったランボルギーニは、その開発途中に新たにクライスラーへと収まり、さらに生産途中にアウディに吸収されるという、まさに激動の時代を歩んだモデルでもあるのだ。
ミムラン・グループ下のランボルギーニでは、すでにP132の開発コードで呼ばれる新世代の12気筒ミッドシップ車のデザインを求めて、複数のカロッツェリアにそのアイディアを依頼。結局、その中から選ばれたのは、ミウラ、カウンタックに続いてガンディーニの手によるものだったのだが、新たに親会社となったクライスラーとの意見の違いは相当に大きかったという。最終的にはボディの左右でクライスラー案とガンディーニ案を作り分け、その比較をも行ったというのだから、両社ともにいかにそのデザインを重視していたのかが想像できる。

かくして1990年にランボルギーニ本社で発表されたディアブロは、それまでのカウンタックよりもはるかに現代的に見えるスーパースポーツに仕上がっていた。最高速としてクライスラーが要求した数字は315km/h。これを実現するためにランボルギーニは新たに5702ccにまで排気量を拡大したV型12気筒DOHCエンジンを開発。ブロックとヘッドは、いずれもアルミニウムとリチウムによる合金製である。

その搭載方法はカウンタックと同様で、5速MTが最前方に位置するレイアウト。それによって後に、ビスカスカップリングを使用した4WDモデルの「VT」も商品化されることになる。最高出力は492馬力、最大トルクは580Nmと発表され、これで1650kgの車重を負担する。

後期モデルでようやく品質が安定してコレクターズアイテムに
なにしろ10年近くも生産されたディアブロだけに、それに試乗した回数は、数あるスーパースポーツのなかでもかなり多い。もっとも緊張したのは、要求値をさらに上まわる325km/hの最高速が可能になったとスペックシートに堂々と描かれていたファーストモデル。まだまだバブル景気の最後(とは誰も予想していなかったが)とも言うかのように、1億数千万円のプライスタグが付けられたそのステアリングを握るのはさすがに緊張した。
ステアリングの背後にあるのは、誰がデザインしたのかは知らぬことにしておいてやるが(実際にはクライスラーのデザインチームである)。断崖絶壁の如く立ちはだかるインストゥルメントパネル。加えてシートは深く沈み込むバケットタイプだから、前方の視界はかなり制限される。

操作系はたしかに使いやすくなってはいるものの、やはりこの視界で1億円超えのスーパーカーに乗るのは正直なところ怖い。聞けばこれから並走の写真(カメラカーの直後に並んだりして走りの撮影をしてもらうことね)も撮影するという。断った、断固として断った。チキンとでも根性なしとでも、もう何とでも呼んでくれ。
このディアブロ、世界中でさまざまな笑える事件を起こしているらしい。元F1ドライバーの鈴木亜久里さんは、ランボルギーニから貸与されたディアブロをモナコの自宅まで乗って帰ったら、それだけでテールランプが溶けていたというし、ほかにもドアが開かなくなって金庫の如く閉じ込められた、電装系がトラブッた、と初期型のディアブロにはなかなか良い話は聞かない。

そんなディアブロも、1998年に計画されていたフルモデルチェンジをアウディがあきらめさせ、もう一度最初からやり直しを命じて完成させたのがムルシエラゴ。その時間稼ぎのために登場した「6.0」以降の品質も安定し、コレクターズアイテムとしても人気を集めている。

2023年には、現在のアヴェンタドールの後継車も誕生すると噂されるランボルギーニ。ディアブロの価値は、これからさらに高まっていくのだろうか。興味は尽きない。