当時は戦後の家族構造が大きく変わり、「夫婦と子ども2人」を標準とする核家族世帯が定着していた。合計特殊出生率は人口置換水準(2.07前後)を下回り始めていたものの総人口は緩やかに増加し続けており、3人以上の多子世帯を増やさないことが政策指針となっていた時代である。
ところが「昭和のひのえうま」に生まれた赤ちゃんの数は、前後の年よりも約50万人も少なかった。計量社会学者・吉川徹教授(大阪大学)の著書『ひのえうま 江戸から令和の迷信と日本社会』(2025年、光文社新書)によると、前後の年への出産の前倒し・先送りを考慮しても、およそ16万4000人分の人口が日本から「失われた」と計算されるという。
出生数、合計特殊出生率の年次推移:1950年~2019年(厚労省作成)
本記事では同書から、新聞・テレビ・雑誌など、当時のマスメディアによる過熱報道について記した箇所を抜粋して紹介する。(本文:吉川徹)
前年からの過熱報道
「ひのえうまが到来する」という情報を、1966年当時の人びとはどのようにして知り、それはどれほどの広がりをもっていたのでしょうか。何十万人という出生数の激しい増減の背景には、訴求力の強い情報源があったことが考えられます。そこで、ひのえうま「前夜」の報道の様子を調べてみました。
この時代、新聞、雑誌、ラジオ、テレビという、伝達速度が速く、広範な伝播(でんぱ)力をもつマスメディアが、人びとの日常生活に絶大な力をもつ状態がすでに定着していました。20世紀の大衆社会の典型状態です。
加えて注目すべきは、男性大衆誌、若年既婚女性誌などというように、読者層を絞ったクラスメディア雑誌が、週刊、月刊でさかんに刊行され始めていたことです。
こんにちのSNSのようなソーシャルメディアはまだ存在していなかったのですが、マスメディアで活発に取り上げられていた読者の投書からは、世論の状態を垣間見ることができます。
まず、社会意識を左右する力が最も大きかった新聞報道を確認すると、3年前の1963(昭和38)年に朝日新聞が文化面全面を使って、「ひのえうま みんなで考えよう」という特集記事をいち早く展開しています。
昭和四十一年は、干支(えと)でいうと丙午(ひのえうま)の年に当ります。「丙午とはまた古くさい迷信を持出したな」と、いわれるかもしれません。それどころか、若い人たちは「そりゃなんだい?」と、動物園に珍獣が来たときのような顔をされるでしょう。しかし、前回の丙午の年、明治三十九年には、このウマはなかなか猛威をふるったのです。(朝日新聞1963年5月23日)記事では続いて、昭和初年のひのえうま女性の受難、陰陽五行説の根拠の怪しさ、若い女性たちの声などが紹介され、こう結ばれています。
丙午はもう二度と問題にはなりますまい。別項の若い女性たちの発言のように、現代の結婚は女性が相手を選ぶのですから。ただ、迷信は人間の本性のどこかに眠っているものです。いつ起こるとも限らないから、あらかじめこんなものが昔はあった、とお話ししただけのことです。(朝日新聞1963年5月23日)論調は、「まさか今の時代に出生数が減るわけなどないが……」という楽観論であり、煽動的な言葉はみられません。けれども、ここで「はて?」と思われたのではないでしょうか。
このときから遡(さかのぼ)ること40年、明治のひのえうま女性の婚期を目前に控え、同じ朝日新聞がよく似た特集を組み、それがきっかけのひとつとなって、ひのえうま女性の自殺や事件が相次いだのでした(※)。
※参考記事:大正モダンガールたちを襲った「ひのえうま」の悲劇…“迷信”を根付かせる原因となった「新聞の大衆扇動」とは
さらに遡ると、天明のひのえうまの3年前に詠まれた「六十一年目にこわい女出来」という川柳(※)や、逆効果の情報拡散が危惧された弘化の丙午さとし書(江戸後期に配られた、ひのえうまは「いわれのない迷信」とさとした印刷物など)、あるいは奉納絵馬の書きぶりも思い起こされます。
※参考記事:“八百屋お七”から始まった「ひのえうま」の迷信…江戸の川柳で“バズった”デマが女性差別につながった理由
ですから、ここでもう一度同じ懸念を繰り返しましょう。ここまで大きく報道してしまうと、かえって寝た子を起こすことになったのではないか、と。
そして案の定、昭和のひのえうまの前年である1965(昭和40)年に入ると、各紙にさかんに読者投書や取材記事がみられるようになります。
●1965(昭和40)年1月19日
「来年は『ひのえうま』だが」(毎日新聞)●1月22日
人の心はむかしもいまも変わりない。迷信ということは百も承知で、なお、人のいやがることは避けよう、というのが人間の気持でしょう。この気持が変わらないかぎり、来年は子供を産まないように注意する方が賢明かもしれない。(〇〇〇〇〇 横浜市鶴見区・主婦・四十八才)
「〝ひのえうま〟が心配 来年子どもを産みたいが」(読売新聞)●1月30日
私は昨年結婚しましたが、年齢や経済面のことを考えて、来年、子どもを産みたいと計画しています。ところが、来年は六十年に一度の〝ひのえうま(丙午)〟の年で、むかしから、この年に女の子を産むと、気性の激しい子ができるから出産を避ける、といわれますが、ほんとうでしょうか。
私は子どもは教育しだいで、生まれ年によってよい子が育たないということはないと信じていますが、世間体のこともあるので、迷っています。(東京・S子)
「破ろう丙午の迷信〝夫を食う〟など論外だ」(毎日新聞)
●2月9日
「ヒノエウマの取り扱い方に疑問」(読売新聞)
●7月19日
「婚家で出産に反対」(読売新聞)
●10月12日
「気にせぬ〝来春の出産〟」(朝日新聞)
●12月14日
「迷信『ひのえうま』とたたかう群馬県粕川村の人々」(朝日新聞)
●12月26日
「赤ちゃんブーム 今年の人口動態調査 『丙午』避け駆込み? 厚生省」(朝日新聞)
このときテレビ放送も急速に普及し始めていました。1966(昭和41)年の1月6日には、当時、視聴率を伸ばしていた民放NET(現在のテレビ朝日)の『木島則夫モーニングショー』で、明治のひのえうま生まれの女性をめぐる話題が放送されたといいます。
同年2月10日には、NHKのゴールデンタイムの人気番組『生活の知恵』でも、『丙午物語』というひのえうまの迷信を主題とした報道番組が放送されています。
女性誌から男性週刊誌まで
出産という事柄の性質を考えると、女性誌がどのように報道していたかはとりわけ重要です。これをみると、前年1965(昭和40)年の年明けから、各誌において「ひのえうま出産」がさかんに取り上げられ始めています。なかでも注目すべきは、『ヤングレディ』に掲載された「問題特集」です。講談社が発行していたこの雑誌は、芸能人の話題などを主たるコンテンツとする、若い主婦層向けの週刊誌でした。
『ヤングレディ』1965年1月25日号(『ひのえうま 江戸から令和の迷信と日本社会』から転載)
そこでは、「60年に1度の危険」、「来年赤ちゃんを産むあなたに警告します!」、「丙午の女の赤ちゃんを産んだらたいへん」、「あなたの悩みを解決する受胎相談」などのセンセーショナルな見出しで、8ページにわたる特集が組まれています。
古くから問題視されている丙午の年が実は来年来るのです。ですから、ことし結婚する人は、順当にいけば、来年の厄年に赤ちゃんを産むことになるでしょう。それが男の子ならともかく、女の子を産んだらたいへんです。その子は一生、丙午という烙印(らくいん)を背負って、生きてゆかねばなりません。この特集では、迷信の由来、明治のひのえうま生まれの著名女性たちのコメント、オギノ式避妊法の解説、男女の産み分け方などが紹介されています。
…中略…明治三十九年の丙午年に生まれた女性が、結婚適齢期に達した大正末期から昭和初期にかけて …中略… 重大な社会問題に発展したことがあったほどです。このようなことが、二十年後のわが子の身にもふりかかる……としたら、これから結婚するあなたは、よほど真剣に考えねばなりません。(『ヤングレディ』1965年1月25日)
さらに、「結婚前後の女性の雑誌」と銘打って、当時光文社から刊行されていた月刊誌『二人自身』では、前述の『ヤングレディ』と同時期、1965(昭和40)年1月号において、目前に迫ったひのえうま出産を危惧する読者投稿を取り上げ、明治のひのえうまの女性たちを例に出すなどして、「迷信を信じるな」という解説がなされています。
続く3月には『婦人倶楽部』で、ひのえうま迷信の解説記事、5月には『主婦と生活』において、ひのえうまを危惧する取材記事に対する、「若い夫婦よしっかりしなさい」という心理学者・望月衛(もちづきまもる)のコメントが掲載されています。
『主婦と生活』では、12月号でも、ひのえうま現象を取り上げた記事が掲載されており、『婦人生活』の12月号にも「丙午に子供を生む」という特集記事をみることができます。
家庭向け総合生活雑誌では、『太陽』1965(昭和40)年3月号に、ライターの小沢信男による「ひのえうま盛衰記」というひのえうま迷信の概説が掲載されています。『暮しの手帖』では、同年1月、2月、4月刊行の各号において、信ぴょう性を否定しつつも、迷信の影響を危惧する記事や読者投稿がみられます。
さらに、男性読者を想定した大衆週刊誌においてさえ、「いまなら間に合います――女児がほしけりゃ3月26日までにという〝ヒノエウマ〟迷信」(『週刊サンケイ』1965(昭和40)年3月1日号)をはじめ、『週刊現代』、『週刊平凡』で、それ以前の年にはない、ひのえうまにまつわる記事を確認できます。
1966(昭和41)年に入ってからは、『二人自身』1月号に「結論! ひのえうまはまったく心配ありません」という打消しの記事がみられます。その後もひのえうま報道が散見されますが、この年4月以降の報道は、妊娠期間を考えると、出生減には影響しなかったものと思われます。
当年後半になると、月次出生数が例年よりも大幅に少ないことが驚きをもって新聞紙上を賑(にぎ)わせ始めます。各誌は、産科がいつもの年ほどは混み合っていないことや、この年の避妊具の売れ行きが良かったことなどを報道しています。
興味深いのは、『週刊新潮』や『婦人生活』において、この年の半ば以降には「ひのえうま解禁」なる言葉を複数件確認できることです。「解禁」というのは、裏を返せば、妊娠に至るような行為が、ある意味「禁じられている」と社会一般にみなされていた、ということに他なりません。
そして年末には「ヒノエウマにしても異常 赤ちゃん50万人も減る」(読売新聞12月25日)、「生きていた『丙午』 出生、50万人も減る」(朝日新聞12月25日)と、厚生省(当時)が発表した予想外に少ない出生数が報じられ、翌1967(昭和42)年には、新生児数が急回復したことを伝える記事をみることができます。
著名人の「オメデタ」でも
ところで、各種雑誌のひのえうま関連の記事を調べていて、ゴシップとして興味深いものをみつけましたので、無用のこととは思いつつも、ここに記しておきます。週刊誌や女性誌は、この当時も著名人や芸能人の結婚や出産の話題をさかんに報道しています。しかも現在よりも無配慮に、プライバシーに踏み込んだ報道が許容されています。そこからは、当時の結婚・出産にかんする社会通念と、そこに関係付けて言及されるひのえうま迷信を垣間見ることができます。
まず、このころ皇室関連の慶事の記事が多かったことが目を引きます。由緒正しいお家柄ゆえに、ひのえうま出産はお控えになるだろうという前提で、とくに婦人各誌は「オメデタ」の動向に注目しています。
1965(昭和40)年11月30日、東宮家(今の上皇夫妻)に第二子となる男子が誕生しました。礼宮(あやのみや)文仁親王、現在の秋篠宮文仁皇嗣(こうし)です。男子であったので出生後にはほとんど取り沙汰されることはなかったのですが、性別がわからない段階での懐妊報道を受け、ひのえうまにかからない年内出産予定と報じた記事をみることができます。
このとき同じく華やかな話題とされていたのは、皇位継承順位第二位であった常陸宮(ひたちのみや)正仁親王と華子妃が新婚2年目であるということでした。当時は婚姻後間を置かず第一子をもうけるのを当然のこととみる風潮がかなり根強くあったので、東宮家に続いて常陸宮家にも「ご懐妊」のニュースが待望されていました。
けれどもこの年にそれがあれば、ひのえうま生まれとなります。はたしてどうなるか、と複数の記事が気を揉んでいます。結局こちらは、親王・内親王の誕生を聞くことはありませんでした。
芸能関係では、1965(昭和40)年1月、読売巨人軍のスター選手長嶋茂雄が、亜希子夫人と結婚したことが大きく報じられ、本人たちのインタビューなどもみることができます。
当然、この新婚夫婦にも第一子が期待され、翌ひのえうま当年の1月26日に男児誕生と報道されています。女児ではなかったため、あからさまにひのえうまと関連付けた報道は見受けられませんが、ミスタージャイアンツ夫妻は、世間を騒がせていた迷信よりも、結婚後間を置かず第一子を得ることを優先したわけです。
これは元プロ野球選手で、現在タレントとして活躍している長嶋一茂(かずしげ)です。父「茂雄」の長子男児への「一茂」という命名からは、家父長制を重んじた態度を推察できます。
『週刊読売』の1966(昭和41)年9月30日号には、「迷信なぜ、あなたも信じるか?」と題して、ひのえうま迷信にかんするインタビューが載っています。
まず女優・寿美花代(すみはなよ)が、前年10月に俳優高島忠夫との間に男児を出産したのに続き、ひのえうまを気にすることなく、続けて次子を妊娠したことを語っています。こちらは、俳優の髙嶋政宏・髙嶋政伸兄弟にまつわるエピソードということになります。
直後の記事では、三代目市川猿之助(えんのすけ)(当時)との間に第一子を産んで間もない女優、浜木綿子(はまきゆうこ)のインタビューが「昨年中に生まれてホッと」という見出しのもとに掲載されています。
浜は1965(昭和40)年の結婚後すぐに妊娠したのですが、夫婦ともに迷信を強く信じるので、「もし予定日が延びて十二月三十一日までに生まれなかったら、おなかを切ってでも産もうと思ってました」と語っています。前年暮れの12月7日に生まれた男児は、長じて俳優の香川照之(市川中車)となっています。
著名人にかんしては、ここでみたとおり男子の出産をめぐる報道はされているのですが、さすがになにがしかの配慮があったのか、ひのえうま当年の女子出産の記事を見出すことはありませんでした。
ともかく、テレビ、新聞、月刊・週刊の雑誌などのマスメディアにおいては、前年から当年にかけて、1966(昭和41)年がひのえうまにあたり、そこに女児の出生を忌避する迷信があることがたいへんさかんに報道されていたのです。
それらはとくに、妊娠が考慮される前年の1965(昭和40)年において、喧々諤々(けんけんがくがく)の様相を呈していました。その国民的規模は、まさしく「ひのえうま騒動」というべき大きな出来事です。当時、新語・流行語大賞があれば、「ひのえうま」がノミネートされていたかもしれません。
本記事では、迷信を呼び覚まし、出産忌避を教唆(きょうさ)するかのような記事や、不安や懸念を表明する読者投稿などを多く引用しました。しかし当時の報道の多くは、ひのえうま迷信否定の諭旨であり、大規模な出生減を誘発するような記述は必ずしも多かったわけではありません。
とはいえ、アンチ言説や論争が、肯定論や擁護論と同様、もしくはそれ以上にそのアジェンダ(論題)の認知度と注目度を高める煽りのはたらきをすることは、SNS全盛の現代を生きるわたしたちはよく知っているところです。
確認しておくべきことは、この年に赤ちゃんを授かるかどうかに、当事者として関与していたのは、多く見積もっても400万人ほどの若い夫婦と一部の女性のみであり、日本の総人口9900万人の4%ほどにすぎなかったということです。
該当する人たちの限定性を考えると、「ひのえうま騒動」の大きさは、やはり尋常ではありません。それが史上最大の出生減をもたらす契機となったことは、間違いないでしょう。
■吉川徹(きっかわ とおる)
1966年生まれ。大阪大学大学院人間科学研究科博士課程修了。計量社会学を専攻。現在、大阪大学大学院人間科学研究科教授。同大学行動経済学研究センター教授(併任)。主な著書に『日本の分断~切り離される非大卒若者たち~』(光文社)、学歴と格差・不平等』(東京大学出版会)、『階層化する社会意識』(頸草書房)、『学歴社会のローカル・トラック』(世界思想社)、『階層・教育と社会意識の形成』(ミネルヴァ書房)。

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