現役住職で著者累計100万部を超えるベストセラー作家としての顔をもつ名取芳彦氏は、物への執着を手放すことで得られるものがあると語ります。著書から仏教の教えを用いて、詳しく解説します。
「お金はすべて『預かりもの』」…だから「移動」するのは当たり前です
「不増不減」の精神で
使って何をするかが問題なのは、命と道具、そしてお金かもしれません。命や道具に人間が使われることはないでしょうが、お金に使われている人はいます。金、金と躍起になっている人です。
古人はお金に執着する人に対して「金は天下の回りもの」という言葉を遺して戒めています。落語では長屋の住人が「天下の回りものなのはわかっているが、自分のところにちっとも止まらないのが癪だ」と軽いジョークで日々を乗り切っていく様子が描かれることもあり、私もよく使うフレーズです。
『般若心経』の一節に「不増不減」がありますが、私はこれを「お金を使うと財布の中のお金は減りますが、その代わりに品物やサービスを受け取っているので、プラス・マイナス・ゼロです。財布の中身だけ見るから増えた、減ったと心が乱れるのです」と説明することがあります。
「お金は預かりもの」くらいに考えて、別の所に移動するのを覚悟したいものですね。
「家もすべて『仮住まい』」…でも「心の終の住処」は探しておきたい
たとえ“ライフスタイル”が変わったとしても―
昭和育ちの世代の人がお墓を新しく建てるとき、周りの人によく言うのが「生きている年月より長くいる場所だからな」です。人生百年時代になっても、その事実に変わりはありません。お墓が“終の住処”と言われるゆえんです。
しかし、お墓にこだわらない人は昔から多くいました。日本仏教の祖師たちの多くは「自分の死骸はそのあたりに捨て置き、鳥や虫の食べ物にしていい」という感覚を持っていたそうです。
昭和育ち世代には、実家や先祖が代々暮らしていた土地と家があり、それが当たり前と考えている人も多いかもしれません。しかし、経済を中心とした時代の渦は、一ヵ所定住というこだわりを攪拌し、希薄化させます。都市部では、ライフスタイルに合わせて家を住みかえるのが当たり前になりつつあります。今住んでいる家は仮住まいのようなものなのです。
お墓の引っ越し(移転)も一般的になりました。
「命だって『借りもの』」…いつかお返しする日まで、有意義に使い切る
それは、親からの最高の「プレゼント」
「私は親から何ももらっていない」「親から相続されるものなんか何もない」と不満を漏らす人がいます。とんでもない勘違いをしている人がいるものだと、私は半ば呆れながら言います。
「冗談を言っちゃいけません。命をもらっているではないですか。最初のいただきものは、あなたのその命でしょ。その命のおかげでいろいろなことができるんですから。
子どもを持ちたい親にとって、子どもは当たり前に生まれてくるのではなく“授かりもの”、あるいは“預かりもの”という意識があります。天か神か、あるいは自然の力かわかりませんが、人知を超えた力によって生まれてきてくれたと感じるのです。
そして当の私たちも、自分の都合で生まれてきたわけではありません。人の誕生は、本人の都合が介在する余地のない現象です。「どういうわけだか、この親の間に、この時代に生まれた」という意識が私にはあります。
授かった命を返すのですから、命は「借りもの」とも言えます。有意義に使い、きれいな心にして返したいものです。
「物、物、物……の生活から脱却を」…飾らないことが、本当の「極楽」
「何も身につけていない」から、自由になれる
仏さまはあまたいらっしゃいますが、多くはご自分の浄土(世界)を持っています。大日如来は密厳浄土、薬師如来は瑠璃光浄土、観音さまは補陀落浄土という具合です。
これら数ある浄土の中で最も有名なのは、阿弥陀如来の極楽浄土でしょう。
夜、暖かい湯船に身を沈めたときです。あるとき、どうして「極楽」と言ってしまうのか考えたことがありました。そして、何も身につけていないことに気づいたのです。無防備ではありますが、衣服という飾りをつけていないのです。そこから私が至った一つの結論は、飾りのないことが“極めて楽な状態“ということでした。張り子の虎のように虚勢を張るのではなく、素の自分でいることで、心が自由になります。
また、自分を飾っている“物”の存在も忘れてはいけません。自分の所有している物には、自分の心が投影されます。物とつながった心の糸をしまいおさめて、物、物、物……の生活から脱却すると、心の飾りも取れて楽になります。
名取 芳彦住職