【尾小屋鉱山】“北陸の銅山王”が生んだ交通網|産業遺産のM&A

石川県小松市の山あいに、廃鉱になって50年以上経つ鉱山がある。尾小屋鉱山。

最盛期には日本有数の銅生産量を誇ったとされる北陸を代表する鉱山だった。

現在は県立尾小屋鉱山資料館が置かれ、坑道はマインロードと称して観光整備がされている。観光用のトロッコが運行され、セミナーが開催されるなど各種のイベントを催し、鉱山資料館の前には尾小屋と小松を結んだSLが展示されている。

北陸の銅山王、横山家の活躍

尾小屋鉱山の採掘は江戸時代には始まっていたとされるが、本格的な採掘は明治期に入ってからだ。1880(明治13)年に複数の元士族らが採掘を始め、その後、加賀藩の家老であった横山隆平という人物と、親戚筋の横山隆興・隆和ら横山家の一族も採掘に加わった。

明治維新を迎え、全国の元士族たちはいわば職にあぶれていた。そのため、各地方でその土地に適した産業を興していた。石川県小松市から大聖寺一体、いわゆる南加賀地方は良質な鉱脈があることで知られていたが、その地の利を生かし鉱業を育てたことになる。この横山隆興をはじめとする横山家は尾小屋鉱山をはじめ近県の鉱山経営に進出し、地元では「北陸の鉱山王・銅山王」として知られている。

1881年、横山家は採掘の始まった尾小屋鉱山のいっさいの鉱業権を買い取り、龍宝館という組織を創業した。社主や鉱山長などを横山家で占める同族単独での経営でありながら、鉱区の拡張を続け、良質な銅鉱脈にも当たった。

尾小屋鉱山は大洪水に見舞われたりしながらも、規模を拡大していく。龍宝館という組織としては1896年に岐阜県高山市にあった平金鉱山を合併し、横山鉱業部という合名会社を新立した。

ちなみに平金鉱山は一般にはあまり知られていないが、良質な銅が産出され、最盛期には神岡鉱山に次ぐ規模があったとされる。

尾小屋鉱山・龍宝館は日本有数の銅鉱山経営を展開したものの、他の鉱山と同様に第一次大戦後の不況期には苦しい経営を迫られた。坑夫への賃金の遅配が続き、幾度となくストライキが繰り広げられた。

労働紛争が絶え間なく続く中、横山家は龍宝館を担保に資金調達に走った。だが、経営を立て直すことはできず、1931(昭和6)年に尾小屋鉱山を売却する権利を従業員に譲り渡した。

日本鉱業を経て閉山した“流転の経営”

尾小屋鉱山は宮川鉱業という会社の手に渡った。この宮川鉱業はやがて尾小屋鉱山を手中に収める日本鉱業の前身である久原鉱業が、尾小屋鉱山を買収するために設立した会社だとされている。

久原鉱業は明治期に活躍した久原財閥が設立した会社で、日立鉱山(茨城県)の開発で成長した。やがて日本産業という持株会社を設立し、鉱山経営は久原鉱業から改称した日本鉱業が担った。なお、日本産業はのちの日産自動車<7201>、日立製作所<6501>などのグループを含む日産コンツェルンの源流である。日本鉱業は新日鉱ホールディングスからENEOSホールディングス<5202>へとM&Aを続けていく。

尾小屋鉱山は久原鉱業から日本鉱業の手に渡り、経営を再開した。1934年には近在の金平村(現小松市)にあった金平金山・銅山を買収して大谷支山とし、尾小屋鉱山本山と併せてさらに鉱区を拡大した。

尾小屋鉱山の産出量がピークを迎えたのは1950年代だった。ところがピークを過ぎると、コストの上昇、安価な海外銅の流入によって、経営は釣瓶落としの状態になった。1962年には尾小屋鉱山の製錬所が廃止され、同年、経営も日本鉱業から分離独立した北陸鉱山に移り、尾小屋鉱山本山は閉山となる。北陸鉱山としては、尾小屋鉱山本山から離れた大谷坑や金平坑を軸に操業を続けたが、結局は鉱山経営を維持できず、1971年に大谷支山も閉山。同年、尾小屋鉱山は全面的に閉山した。

尾小屋鉱山が育てた交通網

尾小屋鉱山は明治後期から昭和初期に日本有数の銅鉱山として栄えたが、明治期の鉱石の輸送は人力や馬力に頼っていた。だが大正期に入ると、鉱石や鉱山用資材の運搬、輸送用に鉄道を敷く計画が進んだ。鉱山の麓の街に尾小屋駅をつくり、尾小屋駅から小松市にあった新小松駅に至る総延長16.8km の路線が1920(大正 9)年に開通した。ただ開通時の名義は、尾小屋鉱山の鉱山長正田順太郎であった。そのため鉄道名は、正田順太郎鉄道と称した。

【尾小屋鉱山】“北陸の銅山王”が生んだ交通網|産業遺産のM&A
展示されているSLの機関部
展示されているSLの機関部

正田順太郎は鉄道の開業直後に横山鉱業部に権利を譲渡し、鉄道は横山鉱業部鉄道に改称する。そして1929(昭和4)年に新立した尾小屋鉄道へと譲渡された。

尾小屋鉄道は鉱石輸送だけでなく、沿線住民の足としても利用された。

尾小屋鉱山が日本鉱業に買収された直後の1936年、尾小屋鉄道も日本鉱業の系列に入った。

尾小屋駅から新小松駅へ鉱石を鉄道輸送するのは便利だが、新小松駅から先は当時の国鉄に鉱石を積み替えねばならず負担がかかる。そのため、鉱石の輸送は徐々にトラックに変わっていった。鉱山業界にもモータリゼーションの波が押し寄せていた。

尾小屋鉱山が閉山となる10年ほど前に、鉱石輸送はほとんどトラック輸送に置き換わる。その影響により、尾小屋鉄道は人の輸送を主体とする旅客鉄道となった。

1955~60年頃には尾小屋鉄道の旅客数はピークを迎えた。年間旅客数は100万人を超え、1日の本数も14往復を数えたとされる。

尾小屋鉱山が閉山を迎えた1971年、尾小屋鉄道は北陸鉱山には引き継がれず、別の会社に買収されることになった。譲渡先は名古屋鉄道。尾小屋鉄道は当時、東海から北陸へと食指を伸ばしていた名鉄の傘下に入った。

ところが尾小屋鉱山の完全閉山後、1975年頃から沿線人口は急速に減少していく。

地方での過疎化が顕著になった頃だ。尾小屋鉄道の経営は急速に悪化した。過疎化とともに、モータリゼーションの本波が押し寄せた。鉄道廃止はまさに時間の問題で、1977年に尾小屋鉄道は廃止となった。

バス事業に転換も、M&Aにより消滅

鉄道事業から撤退した尾小屋鉄道は、社名を小松バスに改称し、バス専業会社として存続することになった。会社としての小松バスは、2021年に加賀温泉バスと合併するまで営業を続けた。

【尾小屋鉱山】“北陸の銅山王”が生んだ交通網|産業遺産のM&A
展示されている「小松バス」の表示板
展示されている「小松バス」の表示板

加賀温泉バスは1993年の設立。翌1994年に親会社の北陸鉄道から石川県加賀地方の7路線とバスを譲り受けて事業を始めた。

その加賀温泉バスが2021年には小松バスと合併し、北鉄加賀バスに改称する。かたちのうえでは加賀温泉バスが小松バスを吸収合併し、存続会社は加賀温泉バスとなっているが、本社所在地などは小松バスが継承している。

現在、北鉄加賀バスは社名に見るように北陸鉄道グループに属し、その北陸鉄道グループの筆頭株主は名古屋鉄道(名鉄)である。M&Aの歴史は幾度となく繰り返される。

文・菱田 秀則(ライター)

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