1989年7月11日、中森明菜が、近藤真彦の自宅マンションの浴室で自殺を図った。その後開かれた「金屏風会見」は芸能史に残る出来事となり、多くの議論を呼んだ。
運命の出逢いと、明菜に現れた小さな変化
ディレクターの島田には、明菜の微妙な変化が気になっていた。
「彼女はいつもこちらが望む以上の結果を出してくれましたが、その集中力はある種の狂気を孕(はら)み、私自身も引き摺られた部分がありました。明菜との仕事で夜も眠れず、胃の痛みで3回救急車に乗っています。中途半端な覚悟でできるものではありませんが、そのうちに彼女のレコーディングでの集中力が落ち始めたのです。納得行くまで何度も挑んできた彼女が、夜が更けてくると段々とソワソワし、『もういいでしょ』みたいな雰囲気が出てくるようになった」
その原因はのちに明らかになる。85年1月に公開された映画「愛・旅立ち」で共演した近藤真彦との秘めた恋が始まっていたのだ。
映画『愛・旅立ち』〈1985年公開。東宝〉のロケ現場でのオフショット。「週刊明星」1984年12月6日号(集英社)より 撮影/篠原伸佳
明菜の2年前にデビューした近藤は当時、すでに日本を代表するトップアイドルだった。
近藤のファンであることを公言していた明菜と近藤との共演を実現させたのは、映画プロデューサーの山本又一朗。現在は小栗旬などの俳優を抱える芸能プロ「トライストーン・エンタテイメント」の代表である。
山本が映画製作の経緯を語る。
「私は明菜がデビューする前の『スター誕生!』の頃から注目していました。もともと親交があった研音に彼女の所属が決まってからは、映画の話を折に触れて打診していました。研音側からの了解を貰って、マッチの所属するジャニーズ事務所のメリー喜多川さん(2021年8月14日に逝去)に交渉に行き、最初は『太陽を盗んだ男』を監督した長谷川和彦ことゴジが書いた脚本で企画を進めました。私もゴジも表現者として明菜を評価していましたが、結局、この企画は頓挫し、監督も脚本も替え、再スタートすることになった。それが『愛・旅立ち』という映画です」
恋が始まる時、箱根へのドライブ
映画の撮影が始まるに際し、メリーは「山本さん、2人を一緒に連れて行って、食事でもして」と配慮をみせた。ちょうど翌日が2人とも休みだったことから、山本は買ったばかりのベンツで2人を迎えに行った。
運転好きの近藤は山本のクルマに興味津々で、「山本さん、ドライブ行きましょうよ」と声を掛けてきた。
「結局、マッチがハンドルを握り、助手席には明菜、そしてバックシートには私が座りました。起きているのも何かバツが悪い感じがして、2人には『俺は後ろでひっくり返っているからな』とひと声掛けました」
当時すでに交際が噂になっていたという。映画の物語の中でも、再会したふたりの愛は一気に高まっていく。写真のキャプションにもあるように、ふたりの笑顔はイキイキと輝いている。「週刊明星」1984年12月6日号より 撮影/篠原伸佳
ベンツは夜中の高速を箱根方面に向かった。
「2人の会話を聞くともなく聞いていると、ベストテンで2人が共演した時、次の出番が誰で、あの日はこうだったよねと他愛もないことを楽しそうに話していました。2人は恋愛にはまだ程遠い、本当に初々しい感じで、微笑ましかった」
箱根ターンパイクを通り、都心に戻りかけた時、マッチは思い出したように「お腹が空いた」と声を上げた。ただ、トップアイドル2人を連れて行ける店があるはずもなく、山本は帰る途中にある自宅に2人を誘った。そして就寝している家人を起こさないようこっそりパスタを作って2人に食べさせ、ベンツでそれぞれ送り届けたという。
撮影期間中は、2人に交際を感じさせるような動きは微塵もなかった。
しかし、2人に注目するマスコミの取材はヒートアップしていた。映画後半の舞台となった鹿児島県の徳之島でのロケに集まったマスコミは約300人。制作陣は、鹿児島からシャワールームやベッドルームまで備えたマイクロバスを2台手配し、マッチと明菜の2人を別々にして、それぞれの事務所スタッフが乗り込めるよう段取りを組んだ。
誰も明菜を支配することはできない
日差しの強い、暑い日だった。山本は焦(じ)れるマスコミに対して、昼食後に取材の時間を設けることを約束し、200メートル以上離れた場所で待機するよう指示を出した。
約束の時間ちょうどに、マッチはバスを降り、姿を見せた。しかし、明菜は現れない。
マネージャーが明菜の乗るバスに駆け寄って行き、ドアを叩くが、返事がない。もう一人のマネージャーも駆け付けたが、それでも反応はなく、5分が過ぎ、やがて10分を超えた。噴き出す汗とスタッフ間に飛び交う怒号。時間は刻々と過ぎていく。
もはや限界だった。山本が意を決し、深呼吸してから扉を叩いた。「明菜」と名前を呼んでも反応はなく、一拍置いてから、再び声を掛けた。
「明菜始まるよ、行こうか」
するとバスの中から女性マネージャーの「すいません、何か」という声がして扉が動いた。その瞬間、山本が扉に手をかけ、一気に開けると、そこには明菜が立っていた。
「どうですか?山本さん、似合います?」
彼女はそう言って映画で使う衣装を誇示するようにポーズをとった後、バスから走り出て来た。
「週刊明星」1984年12月6日号表紙
取材を放棄していれば、現場は混乱を極めたはずだった。彼女は仮にも先輩であるトップスターのマッチを待たせたうえで、そのピンチを自らの見せ場に変えた。
“あの夜”から始まった近藤との秘めた恋は、彼女にとって唯一の“聖域”だった。
2人の仲はその後もマスコミの恰好の餌食となったが、彼女は近しい人たちの前ではその一途な思いを隠そうともしなかった。時には、近藤のレコーディング現場に手作りの弁当を届け、近藤の帰りを彼のマンションでひたすら待つ。互いの事務所も半ば公認で、誰も咎めることはなかった。
献身的に尽くした20代の恋は、やがて悲劇的な結末へと向かうことになるが、当時の明菜にとってはこの時代が、公私ともに充実し、将来の幸福の形を思い描くことができた絶頂期だったのかもしれない。
文/西﨑伸彦
写真/週刊明星1984年12月6日号
撮影/篠原伸佳
『中森明菜 消えた歌姫』
西﨑 伸彦
2023年4月11日発売
1,760円(税込)
224ページ
978-4163916842
「何がみんなにとっての正義なんだろう?」
2022年12月、中森明菜は公式HPでファンに問いかけた。
そして、こう続けた。
「自分で答えを出すことに覚悟が必要でしたが、私はこの道を選びました」
表舞台から姿を消して5年あまり。彼女の歌手人生は、デビューした1980年代を第1幕とすれば、混迷の第2幕を経て、これから第3幕を迎えようとしている。
「お金をね、持っていかれるのはいいんです。でも一緒に心を持っていかれるのが耐えられないの」
1990年代に入り新事務所を立ち上げてレーベルも移籍した頃、雑誌のインタビューで打ち明けていた。
孤高にして寂しい――。
不朽の名曲「難破船」を提供した加藤登紀子は、明菜をそう表現した。
自らの道を進もうとするほどに孤独になっていく「歌姫」の肖像。