
2024年1月23日に世界王座戦をひかえるユーリ阿久井政悟。地方ジム所属というハンデを背負いながら、1つ1つ確実に勝ち上がり、世界王座挑戦への道を切り拓いた。
4000万円をかけて臨んだ手作りの世界戦
ユーリ阿久井政悟が所属する「倉敷守安ボクシングジム」にとって、所属選手の世界挑戦は3回目となる。
1回目は1999年、2回目は2001年。いずれも当時、ジムのホープであった東洋太平洋王者のウルフ時光による挑戦だった。
1999年、守安会長は21歳の時光にすべてを賭けた。後援会などの協力を受けて4000万円を工面して、ジムの自主興行「桃太郎ファイト」で念願の世界戦を実現させた。場所は倉敷市営の体育館だった。
会場の手配やマッチメーカーへの依頼、また放送局との契約など、興行の準備は守安会長がすべて直接あたった。
だが、1度目の世界挑戦は惜しくも12R TKO負けで終わる。2年後に再び岡山で実現にこぎつけた2度目の世界挑戦も、3R TKO負けだった。
「チケット収入や協賛で助けていただいたこともあって1回目はとんとんじゃったが、2回目の世界戦は2000万円くらいの赤字でしたかねえ」
莫大な赤字を抱えることになった守安会長だが、当時をサバサバと振り返る。しかし、試合をしたウルフ時光本人に尋ねると、様子はまったく違った。
「他の方から聞いたのですが、2回目の世界戦で私がレフェリーに止められて負けたとき、会長はしばらく椅子から立ち上がることができなかったそうです。でも試合前もその後も、会長はお金のことや準備の苦労に関しては一切私に言わなかったですね。
「世界王者になる」と確信した政悟の才能
「父がボクシングをしている記憶はほとんどありません。でも、ボクシングにはじょじょに興味がわいて、お年玉を貯めて小5のときにグローブを買ったんですよ」(ユーリ阿久井)
ウルフ時光が引退した数年後。阿久井は、当時住んでいた公営団地の広場で、仕事から帰ってきた父・阿久井一彦さんとスパーリングごっこやミット打ちを始める。中学2年で守安ジムに入会してからはボクシングがさらに楽しくなり、阿久井は毎日自転車に乗って守安会長のもとへ通い始めた。
ただ、ジムは2000年代半ば、所属するプロボクサーは5名以下となり、会員も減っていった。主力選手が引退し、「毎回ほとんど赤字だった」という興行「桃太郎ファイト」も2006年に中止された。ジムの後援会も解散。トレーナーもおらず、歳を重ねた守安会長も以前のようにミットを機敏に受けることが難しくなり、練習生同士で持ち合うようになっていた。
阿久井が守安会長のもとを訪れたのは、ジムがそんな落ち目の時期だった。
1年ほどジムで練習したころ、阿久井は15歳以下を対象とした大会に腕試しで出場すると、いきなり優勝をおさめる(決勝の相手は現プロボクシング日本王者の堤聖也)。高校2年時の国体では前年の選抜大会優勝者に勝利するなど、めきめきと実力を上げていた。
阿久井の素質は抜群だった。高校時代の阿久井について、当時別の大手ジムに所属し、何人もの王者を指導してきた西尾誠トレーナーは、「スパーリングを初めて見たとき、将来世界チャンピオンになると確信した」という。
阿久井の素質を聞きつけ、首都圏の大学のボクシング部関係者から多くのスカウトがかかった。だが、阿久井はすべて断って倉敷の守安ジムに残り、地元の大学に通いながらプロボクサーになることを選んだ。
デビュー後、つまずくことはあっても闘争心は途絶えず、むしろ燃えあがった。プロ1年目の2014年の新人王戦では敗者扱いの引き分けとなるが、「もっと強くなるため、何か変えたいと思った」と、自ら志願してフィジカルトレーニングを受けるようになり、ジムOBのトレーナーにミット持ちを依頼するようになった。
その後二度の敗戦を経験するが、2019年にはついに日本王者となる。日本タイトル戴冠は守安ジム、また岡山県下のジムにとっても守安会長以来38年ぶり、2人目の戴冠だった。
王者揃いの大手・大橋ジムのホープと東京で対決
ジムの看板選手となった阿久井をサポートするため、守安会長は2016年に自主興行「桃太郎ファイト」を赤字覚悟で復活させる。だが、コロナ禍の影響と、その強さゆえに阿久井の対戦相手はなかなか見つからなかった。
そんななか、無敗のホープ桑原拓との防衛戦が、井上尚弥を筆頭に多くのチャンピオンを擁する大手・大橋ジムから打診されて実現する。
高校2冠で元アマエリートの桑原選手はアマ実績だけみれば、格上の相手だった。阿久井がアマチュア時代最後のリングに上がったのは2013年の国体で坪井智也選手(現自衛隊体育学校、2021年世界選手権金メダリスト)との一戦。結果は敗戦だったが、桑原はその坪井を破って優勝している。
また、試合が行われるのは大橋ジム主催の興行だった。
「まあ、昔みたいに地元選手が優遇される判定はもうないでしょう。ただ、会場の歓声とか、いろいろ影響を受けることもありますけん、倒さないと勝てんというつもりで」
試合は、阿久井が1R早々に右ストレートでダウンを奪う。さらに最終ラウンドで再び強烈な右を当てて倒し、そのまま試合は阿久井の10R KO勝利で終わった。最終回のダウンは、セコンドについた父・一彦さんの指示によるものだった。
「判定じゃと何があるか分からんからね、最後倒しに行け、いうてね」(一彦さん)
1Rでダウンを奪ったストレートも、実は事前の対策通りだった。阿久井は取材時、スマホの画面を差し出し、桑原選手が右ストレートをもらうアマチュア時代の試合を見せてきた。
「このパンチを何度も練習してたんですよ」
阿久井は楽しそうに話す。その姿を見て、一彦さんが「ワシは小さいころから坊主(政悟)に練習せえと言ったことは一度もない」と話していたのが浮かんだ。
「子どもは好きでやっとることのほうが才能が伸びるんよ」(一彦さん)
筆者ははっとした。記事の体裁のために、地方ジムのコンプレックスが彼の飽くなき上昇志向の原動力になっているといった、紋切り型の言説を当てはめることができないと思わされた。
要するに彼らはボクシングが、心底好きなのだ。
「よそのジムならもっと早く世界挑戦できたかもしれないけど…」
だが、そもそもなぜ、阿久井は倉敷守安ジムでボクサーを続けてきたのだろう。単刀直入に尋ねた。
「守安ジムが好きだからです。もしかしたらよそのジムだったらもっと早く世界挑戦できたかもしれませんけど、そもそもここ(守安ジム)じゃなかったら、ここまでボクシングを続けてこれなかったでしょう」
では、今まで移籍しようと思ったことはない?
「それはありますよ。スパーリングパートナーも指導者もジムにいないとき、ふと思ったこともあります。でも、ここまできたからには、結局ここでやっていてよかったなと」
会長は厳しくない?
「サンダル履いてたら、足引っ掛けて転ぶなよと言われたりとか(笑)。あとは『手数少ねえぞ』とか基本的なことを指摘してくれます。天狗になっちゃいけないので、有り難いですね」
守安会長は今年70歳を迎えた。今でも仕事がない日は毎日顔を出すという一彦さんは、「会長は昔とは、まるで別人のように優しくなった」という。
最近はもう厳しく叱ったりすることはないのか。守安会長に尋ねると、リングのほうを見つめながらこう言った。
「時代が違うですからね。
阿久井の世界戦は、22年前のウルフ時光のときと違い、大手の帝拳ジムにプロモーションを一任している。「本当に感謝しかないです」と会長は話す。
「3度目」の世界戦は2024年1月23日にエディオンアリーナ大阪で行われる。
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取材・撮影・文/田中雅大