
累計2700万部を突破し、実写版映画も公開された漫画『ゴールデンカムイ』。そのアイヌ語監修を担当した中川裕氏による解説本の第2弾『ゴールデンカムイ 絵から学ぶアイヌ文化』(集英社新書)が刊行された。
アイヌ語を「活保存」するには経済を回す必要がある
――中川先生は東京大学在学中の1976年に北海道に渡ってフィールドワークを始めて以来、半世紀近くアイヌ語の研究を続けるとともに、「活保存」(注:静内地方のアイヌ文化伝承者・葛野辰次郎さんの言葉で、言語を記録するだけの「死保存」に対し、使うことで生かしてゆくこと)を試みてこられました。本書の第八章では「活保存」の方法の一つとして、原作に出てきたアイヌ語のセリフをどのように考えていったか、解説されています。こうした形での「活保存」は新鮮な体験だったのではないでしょうか。
中川裕(以下略) はい。私自身はずっと前から、仲間を集めてアイヌ語を使った同人誌を作ったり、劇をやったりしていたので、アイヌ語のセリフ作りは初めてではありません。ただそれまでの、いわば内輪向けの活動と、何万もの読者を持つ作品にセリフを書くのとでは重みが全然違いますね。

それに、同人誌や劇をやっていた時にはまだ、「こういう時アイヌ語の母語話者だったらどう言うのだろう?」ということを質問できるアイヌ語の母語話者がいました。『ゴールデンカムイ』監修のお話が来た時には、もうそういった方々が亡くなっていた。本来ならアイヌ語の母語話者に確認しながら作文すべきですが、いないから、私がぜんぶ自分で書くしかなかったわけです。そういった意味では初めての作業でしたね。
――先生が研究を始めた頃と比べるとアイヌ文化はずっと広く認知されるようになり、2020年にはついに、国立アイヌ民族博物館を含む民族共生象徴空間「ウポポイ」が開業しました。先生はこちらのプロジェクトにも携わってらっしゃいます。
私が提案しているのは、国立アイヌ民族博物館の展示解説や刊行物は全部アイヌ語にして、その文章を外部発注したらどうか、ということです。中の職員が作文しても、それは勤務の一環になってしまうので、それ以上の経済的効果は出ません。外部に発注したら当然、謝金を支払うことになります。つまりアイヌ語のできる人が、アイヌ語によって経済的に利益を得られる、そういう体制ができます。すると、前からアイヌ語に興味を持っていた人が「アイヌ語を仕事にすることができるのか。だったらもっと勉強しよう」とさらにがんばるかもしれない。
言葉というものは、話者のアイデンティティだけではなく、経済と密接に結びついています。ある言葉を維持するための経済的な基盤がなくなったら、消えていってしまう。世界中で、数多くの消滅危機言語がそうやってなくなっていっているわけです。だからアイヌ語を支えるためには、アイヌ語を使いたくなる経済状況を作ってゆく必要があります。これは以前からずっと言ってきていることで、ウポポイはその発信地になって欲しいと思っています。

――そうやってアイヌ語を習得した人が、次に『ゴールデンカムイ』のような作品が出る時に監修の仕事をできるのが理想ですね。
そうそう。だから私は、その皮切りをやっているだけの話でね。アイヌが登場する作品がどんどん出てきて、他の人が監修をやるようになればいいと思いますよ。
『ゴールデンカムイ』を支えた監修者たちのコラム

実写版では広大な雪景色のロケーションで『ゴールデンカムイ』の世界観が再現された ©野田サトル/集英社 ©2024映画「ゴールデンカムイ」製作委員会
――本書には先生ご自身の解説だけではなく、樺太アイヌ、北方少数民族のニヴフ、ウイルタ、さらには物語後半の重要人物ソフィアのモデルを生んだロシア近代史についても、それぞれの専門家が書かれた濃密なコラムが収録されています。寄稿者の人選はどのように決めたのでしょうか。
編集者さんから「樺太編も含めた物語全体の文化解説をして欲しい、それぞれの専門家のコラムも入れたい」と相談があり、それなら、とこの人たちにお願いしました。みんな原作の監修に関わっているので、「内部の人が種明かしをする」というこの本のコンセプトにも合いますからね。
彼らともよく話をしているんですが、ニヴフやウイルタなんて、ほとんどの人が聞いたこともないような存在です。それについて書かれたものはあるにはあるけど、専門書や論文など、一般の人が読むものではありません。何万人という単位で読まれるかもしれない形で概説的なものを書いたのは、この本がたぶん最初でしょう。少数民族文化の紹介という点で、非常に画期的な本になったと思います。寄稿してくれた人たちもそう言っていますしね。
――樺太についてはコラムに加えて中川先生の解説も充実しており、守備範囲の広さに驚きました。
まあ、ここに書かれている民族はほぼすべて、私は実際に暮らしているところを訪ねて、話を聞いていますからね。初めて樺太に行ったのはソ連時代の1990年で、ペレストロイカのおかげで大規模な調査許可が下りたから行けたのですが、飲み水を手に入れるのにも苦労する状況でした。
アイヌ文化は現代社会へのヒントが詰まっている
――アイヌの伝統的な世界観についてもお聞きしたいです。『ゴールデンカムイ』の一冊目のガイドブック(『アイヌ文化から読み解く「ゴールデンカムイ」』)で、中川先生はアイヌの世界観の核となる「カムイ」という語について、しいて訳すのなら「環境」だと説かれていました。それまでは「神」と訳されるものと理解していたので、読んで目から鱗が落ちるようでした。新著の第一章でも、物語のさまざまな場面に即してさらに踏み込んだ解説をされています。
一方で、この数年の間に日本社会では「持続可能性」ということがしきりに言われ、環境へ配慮する意識は高まってきています。アイヌの伝統的な知恵がヒントになることもあるのではないかと思うのですが、いかがでしょう。

『ゴールデンカムイ』のガイドブック第一弾『アイヌ文化から読み解く「ゴールデンカムイ」』(集英社新書)
注意しなければならないのは、一口に環境への配慮と言っても、実践のあり方によってはアイヌの伝統文化と真っ向からぶつかるということです。アイヌの文化は動物を飼って、もしくは狩って、殺して、皮や肉を得て利用する文化です。一方でいま、動物の毛皮をファッションとして身につけること自体を否定する傾向がありますよね。あるいは、動物性たんぱく質を一切摂らないヴィーガンなど、実践する人からすればアイヌ文化はとても受け入れられないでしょう。
ですから非常に難しい問題ですが、本質的な部分を継げば現代社会にも参考になるんじゃないかと思うことはあります。例えば原作漫画にも登場するイオマンテ(熊送り)は、子熊を飼って、育てて、殺して、その魂を「カムイの世界」へと送り返す儀礼です。要するに、我々に肉やいろいろなものをもたらしてくれる存在に対する――それを殺すことになるわけですが――感謝の儀礼です。
じゃあこのイオマンテを現代によみがえらせるとしたら、私が思うのは、真っ先に、牛と豚と鶏に対してやらなくてはならないということ。牛とか豚は自分たちに食べ物を提供してくれるありがたいものなんだから、感謝の意をあらわすお祭りをやらなくてはならない、と。そして、それらを私たちが食べられるようにしてくれている、屠畜業の人たちにも感謝しなくてはならない。
命の消費を、消費の本質を考える時に、アイヌの伝統的な世界観は参考になるんじゃないかなと思います。
――アイヌ以外の日本の民間信仰にも通じるものがあるのではないでしょうか。今でも地方に行くと「畜魂碑」を見かけることがあります。あれも家畜に対する感謝や供養の気持ちで建てるわけでして。
それもあると思いますし、あとは「針供養」(注:役目を終えた針に感謝を込めて、供養すること)という習慣がありますね。ああいった信仰が、アイヌの考え方にぴったりと一致します。

だから、「アイヌは自然と共に生きる民族」といった説明は好ましくない。と言うのも「自然と共に生きる」=「現代社会では生活できない文化」ととらえられてしまい、アイヌの可能性を狭めてしまうから。そうじゃないんです。自然だけがカムイではない、小さな道具に至るまで、あらゆるものがカムイである、という世界観です。カムイであるとはどういう意味かと言うと、人間と同じような存在として扱うということです。
――だからこそ感謝もするし、供養もするということですね。
はい。ありとあらゆるものとの共存なのであって、自然だけではない。それなら現代社会の中でも、アイヌの精神世界を基盤にした生活は十分に実現できるでしょう。そういう風にアイヌに対する見方を変えていく必要があるんじゃないかなと思っています。

取材・文/前川仁之 撮影/内藤サトル
ゴールデンカムイ 絵から学ぶアイヌ文化
著者:中川 裕
画:野田 サトル

2024年2月16日発売
1,650円(税込)
新書判/560ページ
978-4-08-721302-7
累計2700万部を突破し、2024年1月に実写版映画も公開された「ゴールデンカムイ」。