
家庭の事情により、部活動やクラブ活動に参加できなかった子どもたちの「体験格差」は、その後の人生にどのように影響を及ぼすのだろうか。経済的困難を抱える子どもたちのための団体・CFC(チャンス・フォー・チルドレン)が支援してきた松本さん(仮名)へのインタビューから見えてくる現実とは。
『体験格差』(講談社現代新書)より、一部抜粋・再構成してお届けする。
体験の少ない子ども時代の意味
子ども自身の目から見たとき、体験格差の問題はどのように映っているのだろうか。私たちチャンス・フォー・チルドレンがかつて教育費の支援にあたった松本瑛斗さん(当時高校生、現在20代)に、子ども時代を振り返りながら話を聞かせていただいた。
松本さんの両親は彼が小学校に入る前に離婚し、その後は今にいたるまで祖母、母、弟、妹と公営住宅での5人暮らしが続いている。
子どもの頃は買えなかったピアノ 松本瑛斗さん
――両親が離婚されてからはお母さんが家計を支えてこられたんですか。
母も最初は働いていました。でも、一人で子ども3人を育てる大変さもあって、精神障害のほうで働けなくなってしまったんですね。その頃に祖母も一緒に暮らし始めました。
祖母はずっと看護師をしていて、祖母の貯金でやりくりしていた時期もあったんですけど、その貯金も尽きてしまって。自分が中2になるぐらいまでは粘っていましたけど、その頃からは生活保護を利用するようになりました。
祖母は早めに脳梗塞をやって、今はがっつり介護が必要な状態です。一人ではいられないので、誰かが一緒にいないといけません。
――生活保護を利用し始めたことは、中2だった頃の松本さんご自身も知っていましたか。
僕はわかってましたね。
保護を受ける前はまだ車があったので、近くの牧場に行ったりしました。うちの母はそういうのはいっぱいやってくれたかな。大きなのは無理だけど、入場料が500円の小さい音楽のリサイタルとか、絵画展とか、昔はよく連れてってくれたなって。
――生活保護を利用して、車が持てなくなってしまったんですね。
だから、全然変わりますよね。保護を受けている間は遠出も何もなくなって。あとは、やっぱり母が病気になったということもありましたし。
――お小遣いとか、自分が自由にできるお金はありましたか。
ゼロです。
高校受験は自分の力で
――習い事に通うというのも経済的に難しそうですね。
小学生のときにみんなは習い事に行ってるけど僕は行けないとか。ゲームとかもそうかな。一回も買ってもらったことないです。
休み時間とかはよく音楽室にいました。ピアノを弾くのが好きだったので。こういう学校の活用の仕方があるんだってことをちゃんと理解してたのかもしれないです。
当時は塾に行きたいと言って母とよく喧嘩してましたね。中2、中3くらいからみんなも塾に行き始めて。
私立の高校に行きたいとかって思ったこともあったし。私立は本当に贅沢というイメージでしたけど。
――部活には入っていましたか。
中学では部活もしてなかったです。中3ぐらいまでは喘息で体育もほとんど参加できないくらいで。年に3回参加できたらいいかな。それ以外は休んでました。
高校生になって、吹奏楽部に入ったというか、ピアノ弾いてただけなんですけど。結局お金がかけられないので、別の学校と合同練習したりとか、コンサートとか、どこかに遠征に行くというのは、僕は行けない。そもそも吹奏楽では、ピアノは目立つ仕事ではなくて。
楽器は高くて買えないので、学校にあるピアノで。無料でできるようなところしかやってないです。トランペットとかもやってみたかったですけどね。それこそクラシックが好きだったので、オーケストラにある楽器は全部好きですし。
陸上部にも籍を置いて短距離をやってました。これも、試合に出るとかはしないで練習だけですけど。あとは、部員がいないところから何人か集めて科学部の部長をやってました。興味は広いんだと思います。一つでは飽き足らないというか。
――お金の制約が大きくある中で、色々やってみたいことをやってきたんですね。弟さんや妹さんはどうでしたか。
自分と違って、二人ともあまり欲みたいなものを持たないですね。
――その後、大人になって、働くようになって。
今も余裕はないんですけど、5人家族の家計の半分くらいは僕が支えています。僕が20歳くらいのときに、家族全員で生活保護もやめました。車も今はあります。
人生で最初の大きな買い物は、成人してから買ったピアノですかね。電子ピアノなんですけど、グランドピアノに近い音質を出せるやつで。やっと買うことができて。
高校生のときより腕は落ちてますけど、毎日仕事に行く前に弾くようにしています。
子どもたちから何が奪われているのか
子どもの頃に家庭が貧困に陥り、体験格差の渦中に身を置かざるを得なかった松本さんは、それでも自分の興味関心を追い求めることをあきらめなかった。
彼は強い。同じ境遇に置かれた子どもたちの多くは、彼と同じようにはふるまえないだろう。
改めて子ども自身の目線から「体験格差」を考えると、親の努力の大小にかかわらず、自分では変えられない「生まれ」に子どもたちが放置されているという社会的な構図が、より一層クリアに見えてくる。そして、その放置は世代を超えて繰り返されている。今の親たちも、かつてはみな子どもだったのだ。
では、松本さんのように、「体験」への十分な機会が得られなかった子どもたちからは、そうでない子どもたちに比べて、相対的に何が奪われていると言えるだろうか。
「体験」から得られるその時々の楽しさの格差、ほかの子どもたちにできていることが自分にはできないという相対的な剝奪感に加えて、子どもたちの将来、中長期的な成長に関わる様々な影響が予想される。
まず指摘したいのが、「体験」の有無による、子どもたちが社会情動的スキル(Social and Emotional Skills)を伸ばす機会への影響だ。認知能力(スキル)との対比で非認知能力(スキル)とも呼ばれる社会情動的スキルは、例えば忍耐力、自尊心、社交性などを含み、池迫浩子氏と宮本晃司氏によるOECDのワーキングペーパーでは次のように定義されている。
(a)一貫した思考・感情・行動のパターンに発現し、(b)学校教育またはインフォーマルな学習によって発達させることができ、(c)個人の一生を通じて社会・経済的成果に重要な影響を与えるような個人の能力
同ワーキングペーパーは、社会情動的スキルに「目標を達成する力」「他者と協働する力」「情動を制御する力」が含まれるとし、部活動や放課後プログラムなどの課外活動、地域でのボランティア活動や野外冒険プログラムへの参加が、これらのスキルを伸ばすのに有益であると示す国際的なエビデンスも列挙している。
例えば、米国における研究は、音楽のレッスン、ダンスのレッスン、舞台芸術活動、芸術のレッスン、スポーツ、放課後のクラブに参加する小学生は、こうした活動に参加していない者に比べ、より高い注意力、秩序、柔軟性、課題に対する粘り強さ、学習における自主性、学習に対する意欲を見せることを示している。
日本国内については相対的に研究の蓄積が少ない。文部科学省による調査があり、小学生の頃に自然体験や文化的体験などを多くしている子どものほうが、そうでない子どもに比べて、中学生や高校生になった時点での自尊感情が高い傾向が示されているが、必ずしも因果関係を示したものではない点に留意が必要だ。
こうした社会情動的スキルへの影響に加えて、様々な「体験」の有無を含めた子どもたちを取り巻く環境は、かれら自身の将来に対する意欲や価値観のあり方をもいつの間にか規定していく可能性がある。
本がたくさんある家庭で育った子どもが本好きになりやすいこと、音楽を聴くことや楽器の演奏が好きな家庭で育った子どもが音楽を身近に感じやすいこと、こうした形での親から子どもに対する有形・無形の影響を「文化資本」の相続と捉える見方があるが、こうした点にも「体験」の有無は関わっているだろう。
ただし、保護者がそのお金を払えるのならば
親世代から子世代へと「体験」の格差が連鎖している可能性については、全国調査の分析においても、インタビューの中でもたびたび触れてきた。
最後に、「体験」の場が家庭や学校での関係性だけではない、色々な他者とのつながりを育む機会であるという点にも注目したい。
近しい年齢の子どもたち、少し年上のお姉さんやお兄さん、あるいは大人のコーチや先生たち。こうした他者とのつながりの豊かさに、例えば習い事の月謝が払えるか否かが影響を与えてしまっている。インタビューの中でも、親たち、子どもたちの社会的な孤立がたびたび見え隠れしていた。
かつて子ども時代に支援活動を通じて出会い、今は社会人として働いているある青年は、サッカーのコーチに「サッカーのスキルだけじゃなくて、人として成長させてもらいました」と語っていた。彼は幼少期に父親を亡くし、母子家庭で育っていたが、母親が色々な我慢をしながら、サッカーにだけは小学生の頃からずっと通わせてくれていた。逆に言えば、そうさせてあげられない親たちも、たくさんいるはずだ。
あるスポーツの指導者から、一人の不登校状態の子どもが、地域のスポーツチームにだけは必ず参加しているという話を聞いたこともある。「体験」の場は、社会とつながることに困難を抱える子どもにとっての大切な居場所となる可能性があるし、実際になっている。ただし、保護者がそのお金を払えるのならば。これが現実だ。
社会の中での様々な他者とのつながりは「社会関係資本」とも言われ、子どもの教育や健康、ウェルビーイングに関わるとされる。こうした格差の構造を繰り返さないためにも、低所得家庭の子どもたちがアクセスしづらい「体験」の機会を広く提供することが重要ではないか。
体験格差に抗う社会をどうつくっていくかが重要だ。
写真/shutterstock
『体験格差』 (講談社現代新書)
今井 悠介 (著)
習い事や家族旅行は贅沢? 子どもたちから何が奪われているのか? この社会で連鎖する「もうひとつの貧困」の実態とは? 日本初の全国調査が明かす「体験ゼロ」の衝撃!
【本書のおもな内容】
●低所得家庭の子どもの約3人に1人が「体験ゼロ」
●小4までは「学習」より「体験」
●体験は贅沢品か? 必需品か?
●「サッカーがしたい」「うちは無理だよね」
●なぜ体験をあきらめなければいけないのか
●人気の水泳と音楽で生じる格差
●近所のお祭りにすら格差がある
●障害児や外国ルーツを持つ家庭が直面する壁
●子どもは親の苦しみを想像する
●体験は想像力と選択肢の幅を広げる
「昨年の夏、あるシングルマザーの方から、こんなお話を聞いた。息子が突然正座になって、泣きながら「サッカーがしたいです」と言ったんです。それは、まだ小学生の一人息子が、幼いなりに自分の家庭の状況を理解し、ようやく口にできた願いだった。たった一人で悩んだ末、正座をして、涙を流しながら。私が本書で考えたい「体験格差」というテーマが、この場面に凝縮しているように思える。
(中略)
私たちが暮らす日本社会には、様々なスポーツや文化的な活動、休日の旅行や楽しいアクティビティなど、子どもの成長に大きな影響を与え得る多種多様な「体験」を、「したいと思えば自由にできる(させてもらえる)子どもたち」と、「したいと思ってもできない(させてもらえない)子どもたち」がいる。そこには明らかに大きな「格差」がある。
その格差は、直接的には「生まれ」に、特に親の経済的な状況に関係している。年齢を重ねるにつれ、大人に近づくにつれ、低所得家庭の子どもたちは、してみたいと思ったこと、やってみたいと思ったことを、そのまままっすぐには言えなくなっていく。
私たちは、数多くの子どもたちが直面してきたこうした「体験」の格差について、どれほど真剣に考えてきただろうか。「サッカーがしたいです」と声をしぼり出す子どもたちの姿を、どれくらい想像し、理解し、対策を考え、実行してきただろうか。」――「はじめに」より