
自身を取り巻く環境は、ライフステージの変化によって大きく変わることがある。しかし、女性の場合は“自分”だけではない。
「早くアメリカに留学したい」
九州出身の遠野アキさん(仮名、50代)は、ビジネスコンサルタントの父親、元公務員で専業主婦の母親のもとに、2人姉弟の長女として生まれた。
しっかり者の母親は、毎日美味しいケーキを焼いて、遠野さんと弟が学校から帰ってくるのを待っていてくれた。
ヌーヴェル・ヴァーグの映画やビートルズが好きな父親の影響を受け、遠野さんは幼い頃から洋画ばかりを観て、洋楽ばかり聞いて育った。小学生の頃から「早くアメリカに留学したい」と口にしていたが、両親はなかなか許してくれなかった。
遠野さんは高校生になると、交換留学生の奨学金テストを受けるため、両親を説得。見事合格を果たし、高校3年生の時に念願のアメリカ留学の夢を叶えた。
「一緒に帰国して結婚してほしい」サンフランシスコでのプロポーズ
1年間の交換留学中、遠野さんはホストファミリーや高校のサポートを受け、サンフランシスコの大学に合格。卒業後はそのまま現地で就職した。
社会人になって3年ほど経った頃、4歳年下の日本人男性と知り合い、意気投合。友だち付き合いが始まる。
やがて留学中の彼は、外資系日本企業での就職が決まり、半年後に帰国するという。
「一緒に日本に帰ろう」
そう言った彼に、すでに労働ビザを取得して働いていた遠野さんは「ボーイフレンドのためにビザを捨ててまで帰国はできない」と返答。すると彼から、「一生、君が働かなくてもいいように責任を持つから、一緒に帰国して結婚してほしい。君は仕事をしてもいいし、しなくてもいい。ただ幸せに笑って暮らしてほしい」とプロポーズされたのだった。
「まだ21歳なのに、なんて男らしいんだろうと感心しました。それと同時に、彼の就職先が大手外資系であること、私と同じで、高校から留学経験があり性格もぴったりだったので、2人で歩む未来に期待をしてしまいました。マイノリティ女性としてアメリカで働くのは苦労が多かったので、『この機会を逃したら、ずっと日本に帰れないかも』という郷愁の気持ちもあったんです」
遠野さんはプロポーズを受け入れ、帰国後に結婚。都内で暮らし始めた。
「サンフランシスコに転勤願いを出したい」
結婚後、遠野さんは日本での就職活動を開始。約3か月後には、外資系消費財メーカーのマーケティング部に就職が決まる。
サンフランシスコにいた頃よりも収入が増え、DINKs(※“Double Income No Kids”または“Dual Income No Kids”といわれる、自らの意思で子どもを持たないと決め、共働きをしている夫婦のことを指す略語)で何不自由なく暮らしていた遠野さん夫婦だったが、3年ほど経った頃、突然夫から「サンフランシスコのポストが空いたので、転勤願いを出したい」と告げられる。
「アメリカの会社で働いてきた私は、『仕事は数年ごとに転職してキャリアアップしていくものだ』と思っていました。
遠野さん夫婦はサンフランシスコに移住した。ところが、サンフランシスコでの暮らしは、以前のようにはいかなかった。
「サンフランシスコに転勤といっても、ポストが空いただけで、会社からの指示で異動する、いわゆる駐在員ではありません。引越し代は会社が出してくれましたが、家賃は自分たちで払わなければいけませんでした」
当時のサンフランシスコは物価が高騰し始めており、家賃は東京の約2倍。就職競争も以前より激化しており、遠野さんはなかなか満足いく就職ができず苦戦。夫1人の収入でギリギリの生活を強いられる中、ようやく内容的にも収入的にも納得いく、大手日系企業のマーケティングマネージャーの職が得られたのは、移住から約9か月後のことだった。
夫婦の次のレベル
仕事も決まり、遠野さんはサンフランシスコ生活を満喫していた。だが一方で、夫婦仲は険悪になっていた。
「サンフランシスコでの仕事のストレスは、夫も私もかなり高くなっていました。就職した会社の私のチームでMBAを取得していないのは私だけ。ハイレベルな同僚と切磋琢磨するのに精神的に疲れていました。しかしサンフランシスコでは、無駄な残業はありません。私は仕事の後、大好きなジャズクラブに通い、東京で暮らしていた頃よりも生活は苦しかったものの、充実していました。
そんな関係の変化に悩んだ遠野さんは、「もしかしたら夫婦として次のレベルにいく時期なのかも」と思い、夫に子どもを持つことを相談。話し合って避妊をやめると、まもなく妊娠した。
「アメリカで出産してから帰国したい」「いいけど、自分のお金でやって」
妊娠発覚後、遠野さんはフルタイムで働きながら、MBAを取得するために大学院に入学。
「両立は正直つらかったです。無理をしたせいか、妊娠中、謎の腹痛で何度か検査入院をしました。でも何が原因かは分かりませんでした」
そんな頃、サンフランシスコでの生活に限界を感じた夫は、転職活動の末に、日本での就職を独断してしまう。
「私は子どもにアメリカ国籍を与えたいと思っていたので、『私だけ残って、アメリカで出産してから帰国したい』と提案しましたが、『いいけど、自分のお金でやって』と言われました。当時私は自分の収入から大学院の学費を払い、ギリギリの生活をしていたので、夫のサポートなしで続けるのは無理でした」
大手日系企業で働いていた遠野さんは「東京本社で働きたい」と上司に相談すると、「本社では契約社員としてゼロからスタートしなければいけない」と告げられ、愕然。
「大学ではマーケティングを専攻し、マーケティングアシスタントを経てやっとマネージャーになったのに、また契約社員からスタートになると聞いて驚きました。日本の転職の現状をよく知らなかった私は、『私の8年以上の経験や実績をみてくれない会社なんて最悪。もっといい会社に転職してやる!』と思い、退職。
大学院も辞め、夫と一緒に帰国することに決めました。正直、私もかなり疲れていて、『もうMBAなんてどうでもいいや。
理解のない夫
帰国後は、夫の収入が倍近くに増えた。経済的には楽になった一方で、生まれた娘には重度のアレルギーがあることが判明した。特にナッツやそばは、少しでも口に入ると呼吸困難を起こすほど。
幼稚園時代に一度、誰かが持ってきたクッキーを口にして、救急搬送されたことがあり、それ以降、誕生日会などのイベントのたびに参加者にアレルギーのことを伝え、配慮してもらえるよう努めた。
「食べ物の成分表を正確に読めるようになるまで、万が一の際にエピペンを自分で打てるようになるまでは、心配でたまりませんでした」
遠野さんが娘のことで頭を悩ませたのは、アレルギーだけではなかった。
「登園前、朝6時ぐらいから公園で遊ばせて、幼稚園が終ったあとも、暗くなるまで遊ばせていました。そうでもしないと、いつまでも家の中で走り回って、眠ってくれないのです。とにかく元気な子どもでした……」
睡眠不足の遠野さんが、「ぜんぜん寝てくれなくてつらい」「動き回ってばかりで食べてくれない」と愚痴をこぼすと、追い討ちをかけるように夫は言った。
「へー! 世界中であんただけが大変な母親なんだ?」
親しくしていたママ友から、ママ友の夫が子どもの夜泣き対応をしてくれると聞くと、どんどん協力的でない夫のことが嫌いになっていった。
夫婦の時間が減り、寂しかった遠野さんは、「たまにはデートがしたいから、ベビーシッターを雇いたい」と頼んだが、夫は「お金がもったいない」と一蹴。大きなショックを受けた。
そして娘が2歳になった頃、社会復帰を見据えた遠野さんは「サンフランシスコで取り損ねたMBAを日本で取りたい」と相談。
すると夫は「東大の大学院なら学費を出してやる」と言う。
早速遠野さんが資料を取り寄せていると、「やっぱりやーめた!」と夫は言った。
「正直、殺してやりたくなりました……。それなのに後日、誕生日や記念日でもないのに、シャネルのバッグをプレゼントされたんです。そんなお金があるなら大学院へ行きたかったですね……」
子育てに非協力的で、資格取得にも理解のない夫。
果たして遠野さんは、社会復帰が叶えられたのだろうかーー。
取材・文/旦木瑞穂