
陸上競技のハンマー投げ選手としてアジア競技大会5連覇を達成し、「アジアの鉄人」と呼ばれた室伏重信。競技者としてだけではなく、アテネ五輪金メダリストの長男・室伏広治をはじめ多くのアスリートを指導してきた。
新刊の『野性のスポーツ哲学 「ネアンデルタール人」はこう考える』(集英社新書)では、自らの競技と指導の人生を振り返り、競技のジャンルを超えた、究極のコーチング論を展開している。親子でハンマー投げの歴史を塗り替えてきた重信氏と広治氏が、ヒトの限界に挑んだ軌跡を語る。
「日本の室伏の技術はすごい」
室伏広治氏(以下広治) 私は父の日本記録を、目の前で見ているんですよ。1984年、ロサンゼルス・オリンピックが行われる前の、アメリカの大会でした。
父が文部省(当時)の在外研修制度を利用して、家族でカリフォルニア・ロングビーチ市に移り住み、十代の私も、現地のパブリックスクールに通いながら、テニスなどの様々なスポーツに親しみ、時おり父の手ほどきを受けて小さなハンマーを投げたりもしていました。
そういう環境のなかで、父の試合も見ていて、日本記録を更新した試合を、何度も間近で見ていたのです。
181センチ、90キロという父の体格は、日本では大きいかもしれませんが、国際大会へ行くと小柄で、それにもかかわらず海外の選手と対等に投げている姿は、すごいと思っていました。海外の関係者の間でも、「日本の室伏の技術はすごい」ということで注目もされていて、息子である私としても、父のことを大変誇らしく思っていました。
室伏重信は1971年25歳の時に、日本新記録となった70m18㎝を3回転投法で投げ、ハンマー投げにおけるアジア人初の70m超えを果たす。
30歳で4回転投法に切り替えその後も記録を更新し続け、38歳のロサンゼルス・オリンピックを直前に控えた1984年5月、カリフォルニアで開催された国際大会に出場。78m近くの記録を持つイタリアのウルランドら世界の強豪と競い合った。
私は1投目に74mを投げたが、ウルランドの75m台に抜かれる。
そして2投目、私の気持ちは楽であった。いわば捨て身で、投擲に臨んだ。このとき、それまでに経験したことのないハンマーの高速加速を試みた。高速加速の多くは失敗をするが、このときの投げは回転の流れに乗り、自然に振り切れた。結果、75m74㎝の日本新記録。そしてウルランドら強豪を抑えて、優勝した。
日本記録を更新したことで、私は77m以上の投擲も可能ではないかと思えてきた。このときの投擲は、2年前に75m20㎝を投げたときのような、渾身の力で振り切ったものとは違う。まだまだ遠くに投げられそうな、余裕を持った投げなのである。10月には39歳となる私は、「せめてもう少し若いときにこの投擲技術ができていたら」とも思った。
(『野性のスポーツ哲学 「ネアンデルタール人」はこう考える』 第2章「潜在能力の発揮」より)
考え方を変えればまだまだ記録が伸びる
室伏重信氏(以下重信) 私が選手時代に、心・技・体・調(調整)の高まりを見つけて、満足のできる動きを見つけた、その時期がだいぶ遅いんですね。今振り返ると、40近くになってからの動きが一番よくて、「考え方を変えればまだまだ記録が伸びる」、そういう発想で、投擲の技術をずっと追求していたんです。
そして記録としては、日本新記録で生涯の自己ベストとなった75m96㎝というところにたどり着きました。
そのときの感覚があるからこそ、息子の選手時代にも、コーチとしてアドバイスを送りました。ですけど、私が指導してきた選手は、息子のような世界レベルの選手だけではありません。現在も私は日本大学でハンマー投げを指導していますが、記録の低い者もいるし、高い者もいます。そのなかで何が難しいかというと、やはり「感覚」なんですね。
ハンマー投げには「よい投げの感覚」というものがあるのですが、私や息子はその感覚を持っているから、その通りに投げることができるけれど、学生たちはまず同じようにはできない。
だからコーチとしては「何でできないのか?」と、相手の感覚に入っていかなきゃいけない。そしてそれは未知数なんです。50mに行かないレベルの学生もいるし、70mに行く学生も一緒に指導しているなかでは、「相手の感覚に入っていく」ということは、本当に難しい。
ハンマー投げは、心・技・体・調の高度な一致が求められる難しい種目なので、その感覚を伝えることはなおさら難しい。ですから学生たちに向かって、頭ごなしにものを言うことはできません。
友達のような感覚で、相手の心の中に入っていって、「この選手が50mも行かないのは、なぜだろう?」と、選手と一緒に足りないものを探していく必要があるのです。
息子の広治が80mの壁を超える
並外れた体格と体力で、中学時代には「怪物」と呼ばれていた重信氏。大相撲の時津風部屋からもスカウトされていたが、日大三島高校の陸上部で投擲競技と出会い、なかでもハンマー投げに手応えを感じる。
投擲のための回転ができるようになると、小学1年生のときに喧嘩をさせられて、とっさに相手の腕を持ち、自分の身体を斜め後ろに預け、2回、3回と振り回して投げた感覚がよみがえった。ハンマーもそのようにして投げると、回転ごとに加速して、より遠くまで飛ぶのである。子どものころから私には、誰に教わるでもなく「良い投げの感覚」が身についていたようだ。その年の秋の試合で、私は46mまで記録を伸ばした。
そしてシーズンオフとなり冬の練習が始まり、3回転投げを試みた。そうしたらすぐに、1日に2mから3mずつ記録が伸びていく。家に帰って、そのことを父に伝えると、最初の日はまだ信じていたが、次の日に「また2m伸びた」と言うと、「そんなことがあるか」と取り合ってくれない。しかし日に日に記録は伸び、なんと1週間のうちに10m以上記録を伸ばして、57mまで達した。練習とはいえ、全国インターハイで優勝した選手の記録を上回ってしまったのだ。
(『野性のスポーツ哲学 「ネアンデルタール人」はこう考える』第1章の「進むべき道が定まる」より)
重信 息子の広治について言えば、10歳のときに初めて行なった空(から)ターン(ハンマーを持たずにターンする)の練習で、「よい投げの感覚」を完全につかみました。
3日間、基本動作の空ターンをやらせて、その後に投げさせた。
重心を膝に乗せて、回転軸を持って回っているんですよ。一般の学生はできないです。もちろん本格的に競技を始めるときには、他にもいろいろと覚えないといけないことがあるから、時間がかかります。ですからなおのこと、最初に基本的な動作は指導しておかなければいけないと思いましたね。
そして息子は競技を始めてから、必要な動きを自分で見つけていきました。今回の本の対談で息子が言っているように、「物事は自分で考えなければいけない」のです。競技者は精神面も技術的なものについても、貪欲でなくてはいけない。
ですが私の見るところ、どうもほとんどの競技者が指導者に任せてしまっている。だから、指導者を超えられないんですね。
話を戻しますと、「よい投げの感覚」というのは、ハンマーを投げるたびに起こるんです。
また「できた」と思うときもあれば、「できない」と思う時もある。成功も失敗も積み重ねて最高のところまで行ったのは、息子の日本記録(84m86cm、世界歴代3位)は立派です。
私にも信じられない記録でしたが、その後の息子の試合を見ていると、「まだその上に行けたのではないか?」と思わせる投擲もありました。だから、「よい投げの感覚」というのは絶えず出てくるんです。
競技者たるもの、現状に甘んじることなく、よい投げが出たら、その上をまた目指すということを続けていかないといけません。
スポーツの枠を超えて、社会に貢献していきたい
広治 日本の選手がずっと超えられなかった、75m96㎝という父の記録を超え、その先にある80mの壁を超えるために、更に技術や体力を磨き努力を重ねた。
しかし80mという記録を投げたい気持ちだけが強くなり数字にこだわってしまうと、自分の投擲技術そのものがおろそかになってしまう。そこで私は敢えて、記録を意識しないようにフィールドの80mのラインを消して練習していました。
そこで私は記録を意識せず、「如何にして投げる瞬間の初速を最大に高めるか」というところに目標を置き、トレーニングを継続したところ、80mの壁を越えることができたのです。
私はアスリートという貴重な経験をさせていただきました。スポーツから学んだことは数多くあります。
精神面のコントロールやコンディショニング方法、身体操作の技術、体力の向上の仕方、人とのコミュニケーションスキルなど、そこにはいろいろなものがあるかと思いますが、そういったものを個人的な感覚に留めておくのではなく、科学的なエビデンスとして残して、また、競技、スポーツの枠を超えて、社会に貢献していきたいと考えています。
ヒトは「自分で考える生き物」である
怪我、スランプ、加齢による衰えなど、重信氏の競技人生は決して順風満帆ではなかった。なかでも大学生から社会人となった時期には、「ハンマー投げをやめよう」と考えるほどの深刻なスランプに陥った。
前年の1968年にはメキシコオリンピックがあり、1日300本を投げる猛練習で選考会に臨んだが、成績は振るわずオリンピック出場はならなかった。敗因を分析するため重信氏は、自分の練習投擲を撮影してもらい徹底的にハンマー投げ動作の研究をした。
私は「何か見つけるまでグラウンドには行かない」と決めて、襖に映した映像を見続けた。そこには何かがあるはずだと思って、何度も繰り返して見た。しかし問題点は、すぐには見つからない。そこで、全身だけを見ていてもダメだと思い、身体の各部位をじっくり見ていくことにした。本を2冊持って、見るべきところ以外は本で隠す。
たとえば足、膝、胴体、肩、腕、頭、視線といった具合に、各部位を2~3時間は見る。さらにメキシコ・オリンピックの菅原(武男)さんと石田(義久)さんの映像と、私の映像を比較していく。身体とハンマーを含めた、全体で投げている動作に結びつけて、見ていく。体の各部位から全身まで、徹底的に観察する。このころ、1日11時間以上は、ハンマー投げの映像を見ていた。
そうしているうちに、自らの問題点がわかり始め、「ここを直せば良いのでは?」というアイディアが生まれてくるようになる。それからである。アイディアは、泉のごとく湧いてくるようになった。そのアイディアを、頭の中だけに留めておいては何もならない。出てきたアイディアを試そうという意欲が、そこからまた生まれる。靴下を履き、畳の上で、今描いたイメージを実践してみる。それも何度も何度も繰り返して、投擲の感覚をつくっていく。
(『野性のスポーツ哲学 「ネアンデルタール人」はこう考える』第2章の「岐路」より)
広治 父はやはり「努力の人」だと思いますね。とっくに通常の人なら諦めるところを、10年記録が伸びないスランプでも乗り越えるとか、研究熱心で、集中的にものごとに取り組む姿勢、また自分自身の哲学を持って、ハンマー投げが、ただハンマーを投げるという競技で終わらず、ひとつの哲学となった。私にも、そういうところが少しでも受け継がれたのではないかと思っています。
私の選手時代を振り返ると、そこに父という目標があったから、次をさらに目指せたと思うのです。お手本がないとどうしようもなかったと思いますね。同世代の選手を見ても、国内には70m台の記録を保持している選手は見当たらなかった。それを父が、私の間近で日本記録を何度も投げて、しかもどういう研究や練習をしたのかまで伝えてくれた。
また父はスケールの大きな人ですから、「自分の指導の範囲でとどめよう」という意図もなかった。一般的に、指導者には、選手の成果を自分の手柄とみなす傾向があって、それがかえって選手の可能性を狭めることもあるのですが、父にはそういうところがなかった。むしろ自分の知っている海外の選手を紹介してくれて、合宿に行ったこともありました。
だから私は世界中の優れた指導者から、参考になるアドバイスを受けることができたのです。それはあくまでも「参考」で、どの指導者も、私がそこまで来た道のりとは、違う道のりを歩んで来ていますから、人の指導を「参考」にして、最終的には自分で考える必要があります。でも父が「自分の教えが全てだ」という姿勢を取らず、指導者として心の広さがあったことにも、私が伸びた要因があったのだと思います。
重信 私は年齢的には後期高齢者ですが、これまでハンマー投げでいろいろな経験をしてきました。私はこのハンマー投げで自分は生かされてきたのです。ですから、自分が生かされてきたハンマー投げを高めるノウハウを、多くの選手に伝えていくことは、再度私が生かされていることになります。
そのように考えているから、指導が楽しく、やりがいのあるものだと思うのです。なにか人助けといいますか、指導することで学生が上達してくると、この年齢になってもすごく嬉しいのです。それはお金に換えられない。ハンマー投げの指導は、今の私の生きがいになっています。だからこれからも、続けられるだけ続けていきます。
構成=高山リョウ 撮影=内藤サトル
野性のスポーツ哲学 「ネアンデルタール人」はこう考える
室伏重信
「アスリートから芸術家まで。今、困難を乗り越えて、何かを獲得しようとしている人々にとって示唆に富む本」室伏広治氏
◆内容◆
陸上競技ハンマー投げ選手としてアジア競技大会5連覇を達成し、「アジアの鉄人」と呼ばれた著者。競技者としてだけではなく、長男でアテネ五輪金メダリストの室伏広治をはじめ多くのアスリートを指導してきた。
著者は世界の強豪に比べれば決して恵まれた体格ではなかったと言うが、太い骨格に大きな手を備えた自身の肉体の特徴に「ネアンデルタール人」の面影を感じていたという。
そんな「ネアンデルタール人」の末裔(まつえい)として、今も指導する選手を通じ、会心の一投を追究する男が明かす競技人生とスポーツ哲学。
自他の才能を引き出す、究極のコーチングとは? 室伏広治との特別対談も収録。