〈神宮球場プレ100周年〉「六大学野球は太陽の輝くもとでやるべきだ」神宮球場のナイター設置計画に待ったをかけた専門委員たちの意外なこだわり
〈神宮球場プレ100周年〉「六大学野球は太陽の輝くもとでやるべきだ」神宮球場のナイター設置計画に待ったをかけた専門委員たちの意外なこだわり

2026年で誕生100周年を迎える明治神宮野球場。しかし、多くの野球ファンから親しまれる聖地が今もあるのは、ある男の奮闘があったから。

熱狂的ヤクルトファンとしても知られるノンフィクションライターの長谷川晶一氏。

 

氏が著した『神宮球場100年物語』(朝日新聞出版)より一部抜粋、再構成してお届けする。

二転三転した、神宮球場ナイター設置計画

早稲田大学と慶應大学による「早慶6連戦」が、今もなお語り継がれる名勝負となり、野球史に残る伝説となったのは、両校が紡いできた伝統と歴史によるものであり、選手たちが全力を尽くした結果であることは間違いない。

しかし、別の見方もできる。

当時の神宮球場には照明施設がなかったため、第4戦、第5戦はいずれも日没コールドゲームとなり、決着がつかなかった。現在の設備であれば、引き分け再試合という決着は考えられず、第6戦までもつれ込むこともなかったはずだ。

1998(平成10)年、明治神宮外苑が発行した『明治神宮外苑七十年誌』を手に取る。巻末の「年表」によると、神宮球場の照明設備が稼働したのは1962(昭和37)年6月となっている。つまり、「早慶6連戦」の2年後ということになる。他の資料によれば、自ら資金を調達し、「独自の力をもって、これを完成した」ともある。

1962年4・7 正面スタンド近代化および増改築竣功式
6・8 夜間照明設備竣功清祓式
6・9 ナイター設備点灯式
6・10 ナイター試合挙行。東映―大毎

しかし、さらに資料を読み込んでいくと、その実現までには紆余曲折があり、ナイター敷設については、「二転三転した末に、ようやく一応の決着を見た」と表現したくなるほどの混乱の末の一大事であったことがよくわかる。

当初は、「早慶6連戦」が行われた60年春にナイター設備が完成する計画だった。

しかも、東京芝浦電機株式会社――東芝――が無償で寄進するという話が進んでいたのだという。実際にその前年である59年12月22日には明治神宮と東芝との間で、寄進に関する契約が締結されている。

計画通りに進んでいれば、60年春にはナイター設備が完成しており、同年秋の東京六大学において「日没コールド」という結果はなかった。そうなれば「早慶6連戦」も生まれていない。

歴史の歯車が少しずれたことによって、伝説の名勝負は誕生したのである。
では、なぜこの寄進計画は撤回されたのか?
どうして、当初の計画よりも2年も遅れることになったのか?

一連の出来事の中心人物となったのが、後に明治神宮外苑長となる伊丹安廣である。

「あぶさん」と呼ばれた男を訪ねて

「伊丹さんは《佐高》の大先輩だし、私のプロ入りを後押ししてくれた大恩人です。お役に立てるかどうかはわかりませんが、私の知っていることでしたら何でもお話しします」

生前の伊丹とゆかりのある人物はいないか?
数々の資料を当たっていて、「ぜひ話を聞いてみたい」という人物が見つかった。かつて、近鉄バファローズ、日本ハムファイターズに在籍した永渕洋三である。プロ2年目となる69年には、張本勲とともに首位打者を獲得している。無類の酒好きとして知られ、水島新司の人気漫画『あぶさん』の主人公・景浦安武のモデルとなった人物と言われている。

「伊丹さんは《佐高》の先輩です。学制改革によって、私の頃は《佐賀高校》に、伊丹さんの頃はまだ《佐中》、つまり《佐賀中学》と呼ばれていましたね。

現在では《佐賀西高校》に改称されていますけど、どんな名前になろうとも、私にとっては《佐高》のままです。
高校卒業後、社会人の東芝で野球を続けることに決めました。当時、伊丹さんは東芝の監督さんでした。で、神宮外苑の苑長さんも兼ねていました」

この言葉にあるように、永渕が東芝入りした61年、伊丹は社会人野球・東芝の監督であり、神宮外苑長も兼務していた。

伊丹が東芝監督を辞し、神宮外苑での仕事に専念したのが62年のことだった。このとき伊丹は、神宮球場史に残る偉業を実現している。
それが、神宮球場のナイター設備竣功である。

――神宮球場にナイター施設を寄進してほしい。
 
明治神宮外苑が1977年に発行した『半世紀を迎えた 栄光の神宮球場』によれば、伊丹自身も「その可能性はほとんどないと思っていた」と振り返っているが、12月5日、当時の岩下文雄東芝社長は明治神宮宮司・甘露寺受長に対して、「学生野球の発展に寄与するため、会社創立85周年の記念として神宮球場にナイター施設を寄進したい」と申し入れたのである。

球場の近代化のためにも、ナイター敷設は必須であった。問題となる莫大な工事費が無償になる。神宮球場サイドにとって、まさに渡りに船の提案であった。

そして、数度の球場専門委員会を経て、12月12日に明治神宮と東京芝浦電機株式会社との間で、正式に寄進締結がなされたのである。誰もが得をする美しい展開となるはずだった。
しかし、事態はここからさらに紆余曲折を経ることとなる。

まさかの「ナイター設置計画」の白紙撤回

東芝によるナイター施設の寄進に対して、真っ先に疑義を申し出たのは、恩恵を被るはずとなる東京六大学野球連盟だった。彼らの主張は「学生野球の優先、球場の品位保持に問題がある」というものだった。
彼らが訴える「品位」とは何か? 『栄光の神宮球場』には次の記述がある。

一、学生野球にナイター施設はプラスにならない。健康、学業いずれよりみるも必要が認められないばかりでなく害となる。
二、電力の基本料などのため、維持費が高くなり、そのしわ寄せが六大学の負担となる。ナイタ ー施設は物心両面よりみるも見送るべきである。

これが、専門委員により構成された小委員会の結論であった。
さらにこのとき、委員の間からは「伊丹の独断だ」とか、「東芝との汚職の疑いがある」という、根拠のない批判まで持ちあがった。

それでも、明治神宮サイドは「小委員会の結論はなんら拘束権を持たないもの」と考え、寄進契約通りに着工準備を進めていた。

しかし、こうした一連の事態に対し、疑念を抱いたのが東芝本社だった。60年1月30日、東芝の平賀潤三専務が明治神宮を訪問し、「関係者全員が喜んで受けてもらえないから、白紙にしたい」と申し出たのである。

このとき、早稲田大学野球部の礎を築き、当時朝日新聞社に勤めていた飛田穂洲はこんな言葉を残している。『栄光の神宮球場』より抜粋したい。

神宮球場の大屋である明治神宮が、ナイター施設をするからといって、六大学野球連盟が反対するのはおかしい。いやなら六大学は使用しなければよい。六大学が反対するとすれば、ナイター施設のために六大学の使用料が大幅に値上げされたり、あるいは試合に支障が起こったような場合である。しかし、自分の考えとしては、六大学野球は太陽の輝くもとでやるべきであると思う。

六大学の寄付が建設費の一部に充てられて誕生した神宮球場であるが、その後の管理は明治神宮に一任されていた。戦争が終わり、接収が解除された後は、球場維持費の捻出は明治神宮に託されてきた。こうした事実を称して飛田は「神宮球場の大屋である明治神宮」と述べたのである。

当時の世論は「ナイター施設敷設」に対して好意的な反応が多かったという。

ファンとしては「夜でも野球観戦が楽しめる」ということが魅力的だったからだ。
この頃の記事を見ると、マスコミ上でも擁護論が目立つ。

後に初代文化庁長官となる今日出海は「昼間は学生は学校で勉強すべきで授業にも出ずに野球をすることこそ、学生の本分にもとるものである」と強固に主張し、戦前には、東条英機内閣の内閣書記官長などを務めた星野直樹は「一千万都民のために健全な娯楽の場を増やすこと。これは今日の東京の最大の問題の一つである。その解決が一部関係者の無意味な反対のために、邪魔をされ阻止されることは許されるべきことではない」と厳しく断じている。

さらに、当時NHK会長の阿部真之助は「なぜ学生野球が昼間に限るか、どうして夜間やってはいけないか、私にはわからないのである」と述べている。さらに阿部は、神宮球場の成り立ちに言及した上で、次のように述べる。

もともとこの球場は、六大学により創設されたものだから、六大学に有力な発言権があるのはいうまでもないが、今日のごとく野球が一般化した事情の下では、六大学的立場のみで、球場の利用を考うべきでないのも、いうまでもないのである。

こうした声はあったものの、当の東芝本社が「寄進は白紙にしたい」と述べた以上、この計画は頓挫することになった。伊丹の無念は大きかった。
そして、この年の秋、後に伝説となる「早慶6連戦」が行われたのである。

東京オリンピックによる恩恵

しかし、ここで伊丹にとって、そして神宮球場にとって予期せぬ幸運が訪れる。

64年開催が決まった東京オリンピックである。

これに先立って、国立競技場への高速道路が建設されることが決まった。その用地の一部が神宮外苑の敷地であったため、首都高速道路公団からの要請により、建設用地を売却することが決まったのだ。明治神宮にとって、この譲渡金は予期せぬ「臨時収入」となった。

東芝からの寄進白紙が決定した後も、伊丹はナイター施設計画を諦めていなかった。こうして、61年10月5日の外苑運営委員会において、「神宮球場増改築・ナイター施設案」を提出、承認された。そして10月30日には大学野球を筆頭に、高校、社会人野球関係者に事情説明を行う。この席において、「翌春開幕までにスタンドの増改築工事を終えること」「収容人員が増加すること」「ナイター施設を完備すること」、そして、大学野球関係者にとっての懸念事項である「使用料の値上げを行わないこと」を決めた。

それでもまだ反対意見を述べる者はいたものの、今回の近代化計画は明治神宮独力で行うものであることを理由に、反対勢力を退け、計画通りに進めることを確認した。

これらの過程で獅子奮迅の働きを見せたのが伊丹だった。
11月2日には伊達巽宮司による記者会見が行われ、報道陣に対して趣意書を手渡し、今回の計画に懸ける思いを説明する。文中にはこんな一文がある。

神宮球場と東京六大学野球連盟との特殊な関係は将来永く尊重せられ、そのシーズンの優先確保は今さら申すまでもありません。その余日は広く社会人野球、プロ野球等にも開放し、ナイター施設を十分活用し、その増収を計り、余剰金を生じたときは、球場の整備改装を行うとともに、学生野球の球場使用による負担の軽減をはかり、更に積極的援助をして学生野球の発展に寄与せんとするものであります。

プロ野球開催により利益を生み出し、それをもって学生野球の負担を減らすとともに、維持費、運営費とする。現在に続く収益モデルである。そして、この瞬間こそ、神宮球場とプロ野球との密接な関係の始まりだった。

伊丹が死の直前に遺した、「ラストメッセージ」

漫画『あぶさん』のモデルと称される永渕洋三は言う。

「伊丹さんはとても頭の切れるスマートな方でした。その一方で、自分の意思を曲げない強い精神力を持った方でもありました。僕なんかと違って煙草は吸わない、酒は呑まない。本当に真面目な方ですからね。あの当時、我々佐高野球部の先輩、後輩も、高校を出て上京すると、神宮外苑でアルバイトをしました。みんな伊丹さんにはお世話になっているんですよ。僕の場合は、社会人入り、プロ入り、そのすべてを伊丹さんのお世話になっていますから、本当に頭が上がりません」

恩師である伊丹が守り、そして発展させた神宮球場が、創立100周年を前に再開発されることが決まった。その一方で、再開発に対する反対運動も起こっている。一連の出来事について、永渕に尋ねる。

「うちの息子もお世話になっていますから、決して他人事ではないですから……」

そうなのである。現在、明治神宮野球場の場長である永渕義規は、洋三の息子である。再開発に関する記事を整理していて、現在の球場長の名字が「永渕」であることを知った。さらに資料を集めていくと、その彼が「あぶさん」こと、永渕洋三の息子であることを理解した。永渕家にとって、伊丹との縁はさらに強固なものとなっているのだ。

改めて、父・洋三に「神宮再開発問題」について問うた。

「僕としては、賛成でも反対でもなく、どちらかというと“勝手におやりなさい”みたいなもんで、古くなって数々の問題が生じているのであれば、それを直そうと考えるのは当然のことだと思っています。ただ、息子はこれからたくさんの資料を作ったり、いろいろと仕事が忙しくなるみたいですね。彼はもう55歳ですから、新球場が完成する頃には定年を迎えるぐらいですよね。はたして、どうなるんでしょうね」

『神宮球場100年物語』(朝日新聞出版)

長谷川晶一
〈神宮球場プレ100周年〉「六大学野球は太陽の輝くもとでやるべきだ」神宮球場のナイター設置計画に待ったをかけた専門委員たちの意外なこだわり
『職業・打撃投手』
2025年2月21日発売2,420円(税込)304ページISBN: 978-4022520364明治神宮外苑の再開発で歴史ある景色が一変しようとしている。数々のヤクルト関係の著書もあるファンとして神宮球場に通い続ける著者が、神宮にゆかりのある人々をたずね、その100年の記憶をたどり神宮の過去、現在、未来を描く。
編集部おすすめ