「貧しく汚らしいものに思えるかもしれない」…文豪・水上勉が旬の野菜や質素な乾物でシンプルにこしらえた料理の背景にある「自虐的自慢」
「貧しく汚らしいものに思えるかもしれない」…文豪・水上勉が旬の野菜や質素な乾物でシンプルにこしらえた料理の背景にある「自虐的自慢」

料理人であり、文筆家でもある稲田俊輔氏が影響を受けた古今東西の

「食べ物の本」の読みどころを綴った新書『食の本 ある料理人の読書録』。作者自身の人生を交錯させながら、読んで味わう「食」の醍醐味が網羅されている。
なかでも、誰もが真似したくなる素朴な和食の魅力とは?

本書より、一部抜粋、再構成して、お届けする。

衝撃を受けたプロの和食の世界

僕が本格的に料理の世界に飛び込んだのは20代後半。プロとしてはかなり遅いスタートでした。そしてそこから最初の約5年は、主に和食の世界に携わりました。

それまでもアルバイトやダブルワークというかたちで常に飲食の世界に片足を突っ込んできた僕でしたが、そこで触れていたのは、どちらかというとイタリアンなどの洋食の世界が主でした。

なので僕はその時期に初めて、プロの和食の世界を知ったということになります。

それは、門前の小僧的に親から自然と学んだ家庭の和食とは似て非なるものでした。一言で言えば、とにかく洗練されているのです。

大根や里芋の皮は、繊維を感じさせないようにとにかく厚く剝き、それを1回下茹でして水に晒し、雑味やアクをすっかり抜いた後、改めてだしに沈めて沸騰させないようにコトコトと煮含めます。

そのだしは、たっぷりの鰹節や昆布を、これまた決して煮立たせないよう細心の注意を払って、清澄かつうま味をたっぷり含んだ香り高い味わいに仕立てられたもの。そして葱や茗荷などの薬味は、薄刃の包丁でとにかく薄く薄く刻んだ後、冷水に放ってアクや苦味を抜きます。

これはすごい! と、僕はあっという間にその世界に心酔しました。

ただしその店はあくまで体裁としては「居酒屋」でしたので、そういう清廉な和食だけではやっていけません。

店の評判を高めたのは、むしろ、うま味の強い調味料やリッチな味わいの食材を使って、酔客の舌を一口で満足させるひたすらキャッチーな味わいの料理でした。

実際のところ、そういうのもまた現代の和食の役割です。

僕は当時、その両方に夢中になりました。本当のことを言えば、元々はイタリアンかエスニックがやりたかったので、和食は半ば渋々だったのです。しかし、そんな気持ちはあっという間に吹っ飛びました。

そんな時代に、(幸か不幸か)うっかり出会ってしまったのが、水上勉さんの『土を喰う日々』でした。

水上 勉『土を喰う日々─わが精進十二ヵ月─』(新潮文庫、1982年)

※単行本『土を喰ふ日々』(文化出版局、1978年)

人気小説家であった著者(水上勉)が長野県の田舎で自ら包丁を振るい、日々の食事や来客へのもてなしのために料理を作り続ける日々が1年にわたって描かれたエッセイです。その料理の基礎は、少年時代に禅寺での奉公で習いおぼえた精進料理。

あの独特のすがたをした小芋は、よくたわしで土をそぎおとしただけで、茶褐色のタテジワのよった皮をもっている。ぼくらはこの皮が、多少はのこるぐらいのところでやめる、独特の方法でむいたものだ。〈中略〉
ところが、テレビ番組の板前さんは、包丁を器用につかい、小梅ぐらいの大きさにまでむき、厚い身を捨てて平然としている。これでは芋が泣く。というよりは、つい先ほどまで、雪の下の畝の穴にいたのだ。

冬じゅう芋をあたためて、香りを育てていた土が泣くだろう。

僕がそれまで無邪気に信奉していた「プロの世界の繊細な技法」を全否定するかのようなこんな価値観が、この作品の中では繰り返し語られます。僕にとってはパラダイムシフトとでも言いましょうか、ショッキングな読書体験でした。

しかし同時に、僕はこの世界観に対してどこかホッとするような、ある意味「我が意を得たり」とでも言いたい共感も同時に抱いていたのです。

例えば、習いおぼえたばかりの和食の世界では、葱や茗荷だけでなく、大根おろしも水に晒していました。僕は微妙にこれに納得がいっていなかったのです。水に晒した大根おろしからは、その独特の香りや辛味はほとんど失われます。

師匠にそのことを率直に言うと、「晒すことによって、雑味やエグ味が抜け、甘みだけが残って食べやすくなるんだ」という明確な回答が得られました。実際にお客さんからも「家で食べる大根おろしは辛いばっかりでちっともおいしくないけど、ここの大根おろしはおいしくてどれだけでも食べられます」という称賛を頂いたこともありました。

皮を分厚く剝き丹念に下ごしらえした野菜を、一種類ずつ微妙に異なるアタリ(和食用語で「味付け」の意味)のだしで煮含めた後、1つの碗に盛り合わせる「炊き合わせ」は、確かに精緻な技術の結晶でした。

しかしそれは子供の頃に祖母がこしらえてくれた、庭の畑で採れたての育ちすぎた野菜や裏山の筍をまとめてごった煮にする「煮しめ」ほど感動的なおいしさではない、ということも(決して口には出しませんでしたが)内心思っていました。

もちろん単なる田舎料理といえばそれまでだし、見た目も含めて料理屋にふさわしいものでもないことも充分すぎるほど理解してはいましたが。

誰もがすぐそれを真似したくなる

しかし、すっかりこの本に感化されてしまった僕は、大根おろしを水に晒すことを勝手にやめました。晒さない大根おろしは時間を置くと茶色く変色してしまうので、なるべく直前にその場でおろすことにした結果、提供時間に遅れが生じることもありました。

炊き合わせ用の里芋は相変わらず言いつけ通り分厚く剝いていましたが、その皮をとっておいて素揚げして、八寸(細々した盛り合わせ料理)の隅っこにこっそり、味噌を塗って配置しました。

そのあたりまでは見て見ぬふりをしてくれていた師匠ですが、大根と人参の皮を剝かずに煮物にした時はさすがに、「気持ちはわからんでもないがやりすぎである」と釘を刺されました。思えばいろいろ偉かったな、師匠。

このエピソードは、僕がとかく影響を受けやすく、なおかつそれを軽率に実行に移す無駄な行動力があるという話ではあります。

しかしそれは同時にこの本が、僕でなくても和食に興味があれば誰もがすぐそれを真似したくなる……もう少し直截的に言えば「かぶれてしまう」、そんな強い影響力に満ちた1冊であることも物語っているのではないでしょうか。

著者(水上勉)は9歳から禅寺に入り、その後16歳からの2年間、東福寺管長だった尾関本孝老師の隠侍として、食事や身の回りの世話などを務めました。本書ではその当時の、主に料理に関する師の様々な教えが繰り返し回想されています。

そして著者は、自分の料理は、先達の教えから学んだことを忠実に守っているだけである、ということをまた何度も述べています。

そう書くと、もしかしたらそこに、禅宗の寺院ならではの厳格な教えやしきたり、つらい修行の日々みたいなことを思い浮かべるかもしれませんが、少なくともここで描かれる当時の生活は、どこかのほほんとした印象すらあります。

「自虐風自慢」

ある時、著者はほうれん草のおひたしを作るのに、赤い根の部分を切り落として捨てていたのを老師に見つかり諭されます。

「いちばん、うまいとこを捨ててしもたらあかんがな」

老師は怒るふうでもなくそう言い、

「よう洗うて、ひたしの中へ入れとけ」

と指示するのです。

少年時代の著者は、酒好きの老師のために、食事を求められたら、とりあえず昆布の素揚げに塩を添えて供します。

そこから、畑で採れたわずかばかりの野菜を前に、それをどう料理するかを考え始めます。

そんな著者は味付けに「味醂(みりん)はつかっても、なまなかのことでは酒はつかわない」と言います。ほほう、そこに精進料理のいかなる神髄が?と興味深く読み進めると、何のことはありません。

本孝老師は酒好きだったから、料理の味つけにつかったりすると叱られた。それがいまもぼくにのこっている。

思わず、ずっこけてしまいます。

そんな少年時代を送った著者が人気作家になってから長野の田舎で作る四季折々の料理は、いかにもストイックな精進料理です。同時に、本孝老師の飄々たる振る舞いをそのまま受け継いだかのように、のほほんと牧歌的でもあります。

そして更にそれはある意味、享楽的ですらあるのです。

畑で採れた土の匂いがする季節の野菜や、質素な乾物でシンプルに作られるその料理を、著者は「貧しく汚らしいものに思えるかもしれない」と一応、卑下しますが、もちろん本心ではそんなことは露ほども思っていないのは明らかです。

今どきの言葉で言うならば「自虐風自慢」といったところでしょう。著者はただただ自分がうまいと思うものを喰らい、またそれで来客をもてなしたいのです。

本当にそれだけなのです。

清々しいまでのエピキュリアン。人間、かくありたいものです。

写真/shutterstock

食の本 ある料理人の読書録

稲田 俊輔
「貧しく汚らしいものに思えるかもしれない」…文豪・水上勉が旬の野菜や質素な乾物でシンプルにこしらえた料理の背景にある「自虐的自慢」
食の本 ある料理人の読書録
2025年4月17日発売1,067円(税込)新書判/224ページISBN: 978-4-08-721357-7

人生に必要なことはすべて「食べ物の本」が教えてくれた――。
読めば読むほど未知なる世界を味わえる究極の25作品。

食べるだけが「食」じゃない!

未曾有のコロナ禍を経て、誰もが食卓の囲み方や外食産業のあり方など食生活について一度は考え、見つめ直した今日だからこそ、食とともに生きるための羅針盤が必要だ。

料理人であり実業家であり文筆家でもある、自称「活字中毒」の著者が、小説からエッセイ、漫画にいたるまで、食べ物にまつわる古今東西の25作品を厳選。

仕事観や死生観にも影響しうる「食の名著」の読みどころを考察し、作者の世界と自身の人生を交錯させながら、食を〈読んで〉味わう醍醐味を綴る。

【作品リスト】
水上 勉『土を喰う日々』
平野紗季子『生まれた時からアルデンテ』
土井善晴『一汁一菜でよいという提案』
東海林さだお『タコの丸かじり』
檀 一雄『檀流クッキング』
近代食文化研究会『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』
玉村豊男『料理の四面体』
野瀬泰申『食は「県民性」では語れない』
三浦哲哉『自炊者になるための26週』
加藤政洋/〈味覚地図〉研究会『京都食堂探究』
原田ひ香『喫茶おじさん』
千早 茜『わるい食べもの』
ダン・ジュラフスキー/[訳] 小野木明恵『ペルシア王は「天ぷら」がお好き?』
畑中三応子『ファッションフード、あります。』
上原善広『被差別の食卓』
吉田戦車『忍風! 肉とめし 1』
西村 淳『面白南極料理人』
岡根谷実里『世界の食卓から社会が見える』
池波正太郎『むかしの味』
鯖田豊之『肉食の思想』
久部緑郎/河合 単『ラーメン発見伝 1』・『らーめん再遊記 1』
辺見 庸『もの食う人びと』
新保信長『食堂生まれ、外食育ち』
柚木麻子『あいにくあんたのためじゃない』
森 茉莉/[編] 早川暢子『貧乏サヴァラン』

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