ナポリタンは「劣った偽物」でもなければ「賞賛すべきノスタルジー」でもない…料理における権威主義と決別した平野紗季子というヒーロー
ナポリタンは「劣った偽物」でもなければ「賞賛すべきノスタルジー」でもない…料理における権威主義と決別した平野紗季子というヒーロー

パスタの偽物として不当な評価を受けたかと思えば、懐かしのメニューとして崇められたりもするスパゲティ・ナポリタン。そんなナポリタンをそのどちらでもなく単に好きになれないと言い切ったのがフードエッセイストの平野紗

季子さんだ。
なるほど確かに料理における権威主義的な考え方は世の中に明らかに存在する。

 

 

料理人・文筆家の稲田俊輔が上梓した新書『食の本 ある料理人の読書録』より一部抜粋・再構成し、平野紗季子の清々しいほどに美味しいものを愛し評する素晴らしさを解説する。

平野紗季子『生まれた時からアルデンテ』(文春文庫、2022年)

※単行本(平凡社、2014年)

平野紗季子さんのデビュー作『生まれた時からアルデンテ』を読んだ時、僕は咄嗟に、「食エッセイの世界にも、ついに同世代の書き手が現れた!」

と感じてしまいました。そしてこの感想は盛大に間違っています。平野紗季子さんは1991年生まれ。1970年生まれの僕とは、どうかすると親子ほども年齢差があるのです。

すぐその勘違いに気付いてもなお僕は、心の中で彼女にこんなメッセージを勝手に送り付けてもいました。

「僕も生まれた時からアルデンテですよ!」

アルデンテの概念を日本に初めて伝えたのは、1965年に出版された伊丹十三氏の伝説的なエッセイ『ヨーロッパ退屈日記』(文藝春秋新社、のち文春文庫、新潮文庫)であるという説があります。

この説自体の真偽はともかくとして、この本は僕の両親の愛読書でもありました。そして少なくとも僕が物心付いた時には既に、我が家にはアルデンテ文化がすっかり根付いていたのです。

もっともそれは、バブル期のイタリア料理ブーム以降に定着したものとは少し異なってもいました。少なくともそれは「パスタ」と呼ばれることはなく、あくまで「スパゲッティ」(当時これまた母親の愛読書であった『暮しの手帖』ふうに言うならば「スパゲチ」)でした。

最も頻繁に食卓を飾っていたのはスパゲッティ・ミートソースです。

他にはボンゴレやペスカトーレ、バジリコ、和風きのこ、たらこスパゲッティあたりが「お家アルデンテ」の定番でした。

逆に、ナポリタンを家で食べた記憶はほとんどありません。それは、自分にとって遠い食べ物でした。『生まれた時からアルデンテ』の中で、平野紗季子さんもナポリタンについてはこのように書いています。

芯のないことが誇りかのように開き直る喫茶店のナポリタンが嫌いだし、それを愛している人たちの団結力やアルデンテに対する反骨心とも出来る限り距離をとって生きていきたいと思っている。

じゃあ高級ホテルのロビーレストランにありがちな「大人のナポリタン」はいいのか、あれはアルデンテじゃないか、というとそうではなく、あれはあれで、ナポリタンという言葉の持つ懐かしさや、それにまつわるホッとした気持ちにつけこんで、容易に客と手をつなぎたいのだろうか、思い出系のあざといメニューに思われてどうも好きになれない。

これは僕にとって、世の中のナポリタンについて書かれた様々な文章の中で、最もすんなりと共感できるものでした。

権威主義から解き放たれた世界観

それはどういうことなのか。その説明のために、今度は『ヨーロッパ退屈日記』からもナポリタンに関連すると言える部分を引用してみましょう。

ちなみに当時の日本では、今で言うナポリタンが「イタリアンスパゲッティ」と呼ばれることも多かった時代です。

マドリッドのイタリー料理店で、メニューにスパゲッティ・イタリヤーノなんて出てる。これはいけませんよ。

こういう店のスパゲッティは、概して日本で食べるスパゲッティに似ています。

スパゲッティが茹で過ぎてフワフワしてる。色んな具がはいって、トマト・ソースで和え、フライパンで炒めて熱いうちに供す、ということなのでしょうか。

これは断じてスパゲッティではないのです。〈中略〉

しからば、真のスパゲッティとはどういうものなのか。

現代日本のナポリタンと同種のものが「断じてスパゲッティではない」と全否定され、そこから「本物はどういうものか」が、微に入り細を穿って語られます。

そして、以降世の中でこういう考え方はすっかり支配的なものとなっていくわけです。日本人はそれまでずっとお世話になってきたナポリタンへの恩を忘れたかのように、それをイタリア式のパスタより劣るものと明確に位置付けました。

ところが面白いもので、そこからはまたすぐに逆の価値観も生まれます。ナポリタンはイタリアのパスタとは全く別の食べ物として愛すべき存在である、という考え方。

現代においてはむしろそれが主流と言えるでしょう。「普段は本格的なパスタを楽しんでいる俺も、時々無性にナポリタンが食べたくなるんだよね」、みたいな物言いが典型的です。

今どき「イタリアのパスタこそ本物でナポリタンは偽物である」なんてことを真顔で言ったら、逆に笑い物になることでしょう。

そういう意味で、今やナポリタンは決して貶してはいけないものになっています。ある種の聖域とも言えます。枕詞に「懐かしの」が付くのもお約束。

それは、イタリアのパスタこそが正しい、という権威主義を否定した結果、また別の権威主義に囚われているようにも思えます。平野さんがなかなかに厳しい言葉で違和感を表明するのは、まさにそこに対してです。

『生まれた時からアルデンテ』は、この種の権威主義からは解き放たれた世界観で構築されています。

「平野紗季子という事件」

そこにおけるナポリタンは、「劣った偽物」でもなければ「賞賛しなければならないノスタルジー」でもありません。彼女にとっては単に「嫌いなもの」「距離を置きたいもの」、それ以上でもそれ以下でもありません。

ある種の徹底した個人主義です。その徹底ぶりは、パスタのみならず、この本で取り上げられているあらゆる食べ物に関して貫かれています。

それは文化の相対化とも言い換えられるでしょう。従来のグルメ的文脈で語られ続けてきた「上流/下流」のランク付けも、一世を風靡した食マンガ『美味しんぼ』における「本物/偽物」のイデオロギーも、一瞬で無効化してしまうかのようなクリティカルな一撃。

そういった一世代前の価値観に、がっつり影響されつつもどこかで辟易としていた我々が一斉に快哉を叫んだのが「平野紗季子という事件」でした。



そしてまたそれは、東海林さだおさんや椎名誠さんのような、「上流」や「本物」に対するアンチテーゼたるパンクスピリットとも無縁です。

とにかく自身が経験してきたあらゆる食べ物を、権威も反骨も関係なく自分がどれだけ愛せるかだけを基準に選別した、さしずめ「食べるセレクトショップ」といったところでしょうか。そこには、そのセンスや美意識に共鳴した人々が集います。

サブカルヒーロー

そんな平野紗季子さんの文化相対主義に、僕はどこか90年代のサブカルチャーを重ね合わせてしまいます。

つまり、既に評価の定まった文化も、取るに足らないものとして見過ごされてきたモンドカルチャーも、分け隔てなくシャワーのように浴びに浴びた上で自分好みにセレクトして再構築する文化。

そしてそんな極めてパーソナルな営みに新たな価値が生まれるか否か、それは、愛の深さと、そしてズバリ「文化資本」次第です。文化資本という言葉は、時に、やっかみや分断を煽るものとしてネガティブな文脈で揶揄的に使われたりもします。

しかし文化資本というのは文字通り「資本」なのであり、それが投下された世界を確実に豊かにします。平野紗季子さんは間違いなく、今も世界を豊かにし続けている、同時代のサブカルヒーローです。

『生まれた時からアルデンテ』の、内容のみならず装丁やデザインにまで横溢する古き善きサブカル感は、いったい何に由来するのでしょう。それは、(アルデンテのパスタ同様)平野紗季子さんが生まれた時から当たり前に吸い込んできた時代の空気なのでしょうか。

それとも若き彼女を見出した(元サブカル少年少女であろう)大人たちにとって、彼女が久々のヒーロー、しかも「食」という領域で初めて現れたと言っていいサブカルヒーローであった、その熱狂が醸し出したものなのでしょうか。

僕は勝手に、その両方だろうと思っています。



この本の中で、石毛直道氏のエッセイを引いて、食べるシチュエーションそのものがある種の料理たりうると喝破した鮮やかな文章には、ご自身が妹君と一緒にバスルームでパピコを楽しんでいる写真が添えられています。

その写真は、食がテーマの本としてはあまりにも、あまりにも斬新であると同時に、そんな懐かしいサブカル感にも溢れています。あのページを開いた瞬間に、僕の頭の中にはフリッパーズ・ギターの『バスルームで髪を切る100の方法』が鳴り響きました。

写真/shutterstock

食の本 ある料理人の読書録

稲田 俊輔
ナポリタンは「劣った偽物」でもなければ「賞賛すべきノスタルジー」でもない…料理における権威主義と決別した平野紗季子というヒーロー
食の本 ある料理人の読書録
2025年4月17日発売1,067円(税込)新書判/224ページISBN: 978-4-08-721357-7

人生に必要なことはすべて「食べ物の本」が教えてくれた――。
読めば読むほど未知なる世界を味わえる究極の25作品。

食べるだけが「食」じゃない!

未曾有のコロナ禍を経て、誰もが食卓の囲み方や外食産業のあり方など食生活について一度は考え、見つめ直した今日だからこそ、食とともに生きるための羅針盤が必要だ。

料理人であり実業家であり文筆家でもある、自称「活字中毒」の著者が、小説からエッセイ、漫画にいたるまで、食べ物にまつわる古今東西の25作品を厳選。

仕事観や死生観にも影響しうる「食の名著」の読みどころを考察し、作者の世界と自身の人生を交錯させながら、食を〈読んで〉味わう醍醐味を綴る。

【作品リスト】
水上 勉『土を喰う日々』
平野紗季子『生まれた時からアルデンテ』
土井善晴『一汁一菜でよいという提案』
東海林さだお『タコの丸かじり』
檀 一雄『檀流クッキング』
近代食文化研究会『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』
玉村豊男『料理の四面体』
野瀬泰申『食は「県民性」では語れない』
三浦哲哉『自炊者になるための26週』
加藤政洋/〈味覚地図〉研究会『京都食堂探究』
原田ひ香『喫茶おじさん』
千早 茜『わるい食べもの』
ダン・ジュラフスキー/[訳] 小野木明恵『ペルシア王は「天ぷら」がお好き?』
畑中三応子『ファッションフード、あります。』
上原善広『被差別の食卓』
吉田戦車『忍風! 肉とめし 1』
西村 淳『面白南極料理人』
岡根谷実里『世界の食卓から社会が見える』
池波正太郎『むかしの味』
鯖田豊之『肉食の思想』
久部緑郎/河合 単『ラーメン発見伝 1』・『らーめん再遊記 1』
辺見 庸『もの食う人びと』
新保信長『食堂生まれ、外食育ち』
柚木麻子『あいにくあんたのためじゃない』
森 茉莉/[編] 早川暢子『貧乏サヴァラン』

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