なぜアジはフライでとんかつはカツなのか? おいしいものをたらふく食べるために心血を注ぐ人々の存在こそ最高の人間ドラマである理由
なぜアジはフライでとんかつはカツなのか? おいしいものをたらふく食べるために心血を注ぐ人々の存在こそ最高の人間ドラマである理由

同じ揚げ物でありながら微妙に名称が異なる、アジフライととんかつ。確かに理由は気になる。

けれどその理由を知ることと、その料理を楽しむことはまた別物だ。料理が生まれた背景やその後の変遷を知ることで料理の味わいが深まることもあるだろう。

料理人・文筆家の稲田俊輔が上梓した新書『食の本 ある料理人の読書録』より一部抜粋・再構成し、洋食文化の変遷について考察した書籍を紹介する。

なぜアジはフライでとんかつはカツか?カツレツ/とんかつ、フライ、コロッケ揚げ物洋食の近代史』(2022年)

※電子書籍のみ

「ゴタクなんてどうでもいい。料理はうまけりゃそれでいいんだよ」という言い回しがあります。一聴していかにも正論めいています。いや、もしかしたら正論そのものなのかもしれません。しかし、僕はこの言葉が好きではありません。

なぜ好きではないのか。それを語り始めると、あっという間に紙幅が尽きてしまいそうなので、あえて簡潔に書きます。あらゆる料理は、その背後に膨大なロマンを秘めています。昔から誰もが慣れ親しんできた料理は特にそう。

料理を楽しむというのは、味だけではなくそのロマンも一緒に味わうことである、と僕は信じて疑いません。



「なぜアジはフライでとんかつはカツか?」。そんなテーマを提示されて、「そんなことはどうでもいいじゃないか。うまいかマズいかが全てだろう」と思う人には、本書は全く向いていません。

著者は、資料からの引用を除けば、うまいかマズいかなんてことにはほとんど言及しません。それは逆に言えば、徹頭徹尾、料理に関して味以外の「ロマン」についてだけがひたすら書かれているということを意味します。

ロマン、と書きましたが、それは決して単に情緒的であることだけを意味するわけではありません。本書の著者名は「近代食文化研究会」となっていますが、実はこれは純然たる個人の活動です。

この筆名から既に、著者が「主観的な感想」「個人の見解」を徹底的に排する不退転の覚悟で臨んでいることが窺い知れます。近代食文化研究会が重視するのは一にも二にも資料です。膨大な資料にあたり、そこから客観的な真実と判断しうるものだけを抽出してまとめたのがこの本ということになります。

そこから浮かび上がる、歴史的変遷や、時代を超えた人々の料理に対する想い、あるいは想いよりも経済性を重視する営み、そういったリアルがロマンとして浮かび上がってくるのです。

「ゴタクなんてどうでもいい」と言う人の気持ち自体は、僕もわかります。

世の中には料理に関するどうでもいいゴタクやいい加減な蘊蓄、お仕着せがましいアピールが溢れているからです。

「高品質な三元豚を、職人が1枚1枚心を込めて手焼きしました。日本各地から厳選した三種類の醬油を独自の配合でブレンドし、三昼夜かけて仕上げる秘伝のタレが決め手です」

この手のゴタクにもはやウンザリしている人は、決して少なくないでしょう。よく読めば、これは何も言っていないに等しい、無意味な情報の羅列です。

「○○発祥の店」

こういった胡散臭さは、商売の料理においてはある種の必要悪ではあります。それを読んで素直に感心してくれる善男善女の存在を信じて、無理やりにでも、(誰にでもわかりやすく≒安っぽい)ロマンをかき立てなければやっていけない。

過当競争の激しい現代において、それは行き着くところまで行ってしまって、むしろ飲食店の首を絞めている感がありますが、大同小異、それは昔からそうです。

世の中には「○○発祥の店」を名乗る店が数多あります。確かにそれはロマンをかき立ててくれます。著者は、本書のみならず一連の著作において、その「噓」を度々暴きます。いわば「お家芸」であり、本書でものっけからそういった話が展開します。

元々がフランス料理店である○○○で日露戦争後にフランス料理のコートレットをもとにして生まれたのが「ポークカツレツ」である、という「定説」を、著者は膨大な資料をもとにそれが捏造であると喝破するのです。

ちなみに○○○の部分は、本文ではもちろん具体的な店名が明記されていますが、この部分だけを切り取るとあまりにその店が気の毒なので、ここでは伏せておきます。

ポークカツレツ、チキンカツレツ、魚のフライ、カキフライ、エビフライ、メンチカツ、ハヤシライス、オムライス、チキンライス。これだけ多くのメニューを発明をしているにも関わらず、○○○が何かを発明したという第三者の証言や戦前の資料は、まったくといってよいほど存在しない。

バッサリ、です。

しかも、その「作られた伝説」は、後世になってから「3代目・4代目店主」によって捏造されたものだ、という真犯人まで特定してしまいます。この展開は、古畑任三郎かはたまた刑事コロンボかという緻密な詰めで、(お店には気の毒ですが)実にエキサイティング。

著者はひたすら丹念に事実を追っているだけなのですが、そのカタルシスは極上のエンターテインメントに昇華しています。圧巻としか言いようがありません。

さぞかし○○○とその歴代店主は涙目……となりそうなものですが、実はそうもならないのが面白いところ。この一連の話によって浮かび上がるのはまた別のロマンなのです。

激動の時代を長きにわたって生き抜き、今や押しも押されもせぬ名店となった、その裏に潜むしたたかさと周到さと人間臭さ。

今どきの実質的には何も言っていないに等しい、浅い蘊蓄アピールとはちょっと格が違います。僕はこれを読んで居ても立っても居られなくなり、そそくさと久しぶりにその店に「ポークカツレツ」を食べに行ってしまいました。

そんな手続きを経て初めて、あの言葉に本当の意味が備わってくるのです。

「料理はうまけりゃそれでいいんだよ」

ポークカツレツととんかつの違い

食にまつわる文章は、それが基本的に「軽い読み物」と見做されることもあってか、既存の本などからの孫引きが繰り返されがちです。結果、それこそこのカツレツ誕生譚のような誤情報は修正なしに取り上げられ続け、いつしか定説となります。

膨大な資料と、そこからの破綻ない演繹だけをもとにその噓を暴く著者には、もちろんそれらを殊更貶める意図はありません。ただそれは真実一路のブルドーザー。まっしぐらに整地されるその路には、ぺんぺん草の1本も残りません。ある意味、最も恐ろしいタイプです。

本書はこのエピソードを基点として、そこからタイトルで投げかけた通りの疑問を解決していきます。そこではまた、各時代で語られてきた様々な伝説の噓も暴かれていきます。なんとあの文豪・池波正太郎氏の、噓とまでは言いませんが明らかな認識不足も指摘されていてびっくりです。

池波にとって薄い煉瓦亭のカツこそが「ポークカツレツ」、ぶ厚いカツレツはポークカツレツではなく「とんかつ」であるという認識のようだ。

「ようだ」とあることからもおわかりの通り、著者はこれを「誤った認識」であると指摘します。なぜその過ちが起こったかというと、池波正太郎氏は自分が生きた時代より前のことを知らないからです。

これはさすがに池波先生もどうしようもない。欧米から伝わったばかりのカツレツは分厚く、それが次第に薄くなり、その後「とんかつ」の時代が来てまた分厚くなった、それが真相であることが本書では明快に解き明かされます。

池波氏以外の同時代人にもこの(誤った)認識が広がっていたことを示し、一部の証言者だけを取り上げてポークカツレツととんかつの違いを論じることが、いかに危険なことであるかがわかるだろう。

と、結ばれます。

近代日本における洋食の歴史

池波正太郎氏は「食べ物は昔のものほど良い」という価値観をあえて貫き通し、またそれが多くの人々に影響を与え続けた通人ですが、その氏に対して「昔のことを知らないようだ」と指摘できる人物が、この著者をおいてどこに存在するでしょうか!

このように本書は主に揚げ物料理を通じて、近代日本における洋食の歴史を紐解いていく本です。個人的に特に興味深かったのは、日本の洋食が、フランス料理・イギリス料理・アメリカ料理が混淆して生まれたという分析でした。

そしてその3つの料理は当時、国内だけではなく世界的に見ても「三大高級料理」と見做されていた、という指摘。フランス料理はともかく他の2つに関しては、今とはずいぶん感覚に違いがあってにわかには信じ難くもありますが、もちろん、英語・フランス語などの一次資料にもあたった上での納得する他ない見解です。

著者は本書以外にも、お好み焼き、牛丼、カレーといった、誰にとっても馴染み深い食べ物の「真実」に迫ったいくつかの著書があります。

どれも本書同様、徹底的な検証に基づくという意味で極めて学術的でありながら、そこから浮かび上がるのはひたすら豊かなロマンです。時代時代の人々が、おいしいものをたらふく食べるために、いかに心血を注ぎ続けてきたか。

そこには時に、滑稽さや吝嗇(りんしょく)だってあります。でも確実に前進してきた。

それこそが最高の人間ドラマなのです。

写真/shutterstock

食の本 ある料理人の読書録

稲田 俊輔
なぜアジはフライでとんかつはカツなのか? おいしいものをたらふく食べるために心血を注ぐ人々の存在こそ最高の人間ドラマである理由
食の本 ある料理人の読書録
2025年4月17日発売1,067円(税込)新書判/224ページISBN: 978-4-08-721357-7

人生に必要なことはすべて「食べ物の本」が教えてくれた――。
読めば読むほど未知なる世界を味わえる究極の25作品。

食べるだけが「食」じゃない!

未曾有のコロナ禍を経て、誰もが食卓の囲み方や外食産業のあり方など食生活について一度は考え、見つめ直した今日だからこそ、食とともに生きるための羅針盤が必要だ。

料理人であり実業家であり文筆家でもある、自称「活字中毒」の著者が、小説からエッセイ、漫画にいたるまで、食べ物にまつわる古今東西の25作品を厳選。

仕事観や死生観にも影響しうる「食の名著」の読みどころを考察し、作者の世界と自身の人生を交錯させながら、食を〈読んで〉味わう醍醐味を綴る。

【作品リスト】
水上 勉『土を喰う日々』
平野紗季子『生まれた時からアルデンテ』
土井善晴『一汁一菜でよいという提案』
東海林さだお『タコの丸かじり』
檀 一雄『檀流クッキング』
近代食文化研究会『なぜアジはフライでとんかつはカツか?』
玉村豊男『料理の四面体』
野瀬泰申『食は「県民性」では語れない』
三浦哲哉『自炊者になるための26週』
加藤政洋/〈味覚地図〉研究会『京都食堂探究』
原田ひ香『喫茶おじさん』
千早 茜『わるい食べもの』
ダン・ジュラフスキー/[訳] 小野木明恵『ペルシア王は「天ぷら」がお好き?』
畑中三応子『ファッションフード、あります。』
上原善広『被差別の食卓』
吉田戦車『忍風! 肉とめし 1』
西村 淳『面白南極料理人』
岡根谷実里『世界の食卓から社会が見える』
池波正太郎『むかしの味』
鯖田豊之『肉食の思想』
久部緑郎/河合 単『ラーメン発見伝 1』・『らーめん再遊記 1』
辺見 庸『もの食う人びと』
新保信長『食堂生まれ、外食育ち』
柚木麻子『あいにくあんたのためじゃない』
森 茉莉/[編] 早川暢子『貧乏サヴァラン』

編集部おすすめ