能登半島地震で家を失った44歳のひきこもり男性、避難所の仮設トイレに“死んでも行きたくなかった”ワケ…「正義なんかこの世にないんだと思った」
能登半島地震で家を失った44歳のひきこもり男性、避難所の仮設トイレに“死んでも行きたくなかった”ワケ…「正義なんかこの世にないんだと思った」

集団行動が苦手だった石尾大輔さん(44)は子どものころからいじめられていた。15歳で統合失調症と診断され不眠と幻聴、倦怠感に長く苦しんだ。

大学卒業後、10年以上ひきこもっていたが、能登半島地震で家が半壊。支援者の呼びかけで広域避難したことをきっかけに、自立するまでを追った。(前後編の前編)

ひきこもっていた家を失い車中泊

石尾大輔さん(44)が10年以上ひきこもっていた自室を失ったのは2024年1月1日。その日、石川県珠洲市にある実家は、最大震度7の能登半島地震で中規模半壊した。

「正月なんで、食っちゃ寝しながら、茶の間でテレビ見ていたんです。前年から震度5らいの地震が何回かあって。またかと思っていたら、そのすぐ後にとてつもなくでかい地震が来るとは……。

もう、人生終わったかと思いましたね。地面が歪んでいるみたいな感じで、家具には転倒防止の金具を付けてあったけど、バッタバッタ倒れて、食器も本も何もかも落ちて来て、正直、何が起こったのか全然わかんなかった。もし、2階の自室にいたら、崩れ落ちてきた本の山につぶされて、ただじゃ済まなかったでしょうね」

石尾さんは、当時94歳の祖母と、両親、5歳下の弟の5人暮らし。祖母と母親を家の外に出した後、父親や弟と隣近所の家にも声をかけて、潰れた家から出られなくなっているお年寄りを助け出した。

停電して真っ暗な集落の様子を見て回っているとき、排水溝に左足を突っ込んでしまう。

歩くたびにかかとに激痛が走ったが我慢するしかない。そのまま家族と自宅近くで、普通車2台に分かれて車中泊を1週間続けた。

「足は痛いし、寝られないし。もうみんなちょっとしたことでイライラしちゃって、罵声の飛ばし合いで、きつかったですね。汚い話ですけど、小はするけど、大きい方は1週間我慢したんです。友だちが野グソしているときマムシに噛まれたと聞いたことがあったので」

避難所になった地元の小中学校に行けば仮設トイレがあった。だが、石尾さんには行けない理由があったのだ。

「もう、メンタルはヤバかったけど、あんなとこ、死んでも行きたくなかった。あそこで、ある意味、僕の人生がめちゃくちゃになったんで」

小学校3年生で三島由紀夫を愛読していた

幼いころから石尾さんは音に対して過敏で集団生活が苦手だった。周囲に合わせることもできず、自分の好きな世界で生きていたという。

「昆虫が好きで図鑑はよく読んでいたけど、小学校に入ったときは何にもできなかったんです。協調性がなく、勉強もできない、スポーツもできない。能登の言葉で『だら』とバカにされたり、痩せていたんで『ガリ』ってからかわれたり」

友だちもおらず、長い休みになると母方の祖父母の家で過ごすことが楽しみだった。

幼稚園の先生をしていた祖母は読書家で、特に好きなのは三島由紀夫。石尾さんも祖母の影響で小学校3、4年のころには三島の作品を読んでいたそうだ。

「意味はよくわかんなかったけど、すごい人と対話しているような感覚になったんで」

高学年になり勉強のコツをつかむと、国語や社会、理科の成績がぐんと伸びた。関西の中高一貫校に行きたかったが、車のディーラーをしている父親に「お金がかかるからダメだ」と言われ、地元の中学に進んだ。

みんなが自分の悪口を言っている

突然、いじめのターゲットになったのは、中学3年のときだ。

「こんなの嘘八百なんですけど、僕が女の子に酒とかタバコを勧めたとかって。何の根拠もない噂を流されて……。僕は成績もよかったし、意外と女子とも仲よかったんで、気に食わなかったんでしょうね。

いじめの加害者の1人が今、教師やっているんです。ほんで、いじめはよくないと言っているらしい(笑)。それを聞いたとき、正義なんかこの世にないんだと思ったし、すごく複雑でしたね」

石尾さんがいくら否定しても噂は消えず、眠れなくなった。学校ではみんなが自分の悪口を言っているように聞こえる。家でテレビを観ていても人の話し声が悪口に聞こえた。

不眠と幻聴はひどくなる一方だったが、いじめのことは親にも言えず、朝になると学校に行った。

「明らかに体調がおかしかったので、これはまずいなと思っていたんですけど、学校には行かないとダメだと。でも、そんなに嫌なら行かなきゃよかった。そうすれば、ここまで心が壊れることはなかったんかなと思いますね」

中学を卒業して精神科を受診すると統合失調症だと診断され、精神安定剤などを大量に処方された。

市内の高校に進学したが、中学時代のいじめの加害者と同じクラスになってしまい、1か月も経たずに行けなくなる――。

「もうダメだと思って、ゴールデンウイークに薬をたくさん飲んじゃって……。精神科の先生は激怒して、『高校なんか辞めちまえ』って。退院して、ひきこもり状態になって、留年です。1年遅れで2年生になって、あんまり行けなかったんですけど、なんとかお情けで卒業させてもらいました」

「謎の倦怠感」が続き、ひきこもる

その後、金沢星稜大学に進み経済学を学んだ。幻聴は続いており、入学早々「もう辞めたい」と思った。だが、大学裏の通りでボーっとしていると「ご飯行かねえ?」と声をかけてくれた同級生がいて、仲よくなったことで「もうちょっといようかな」と気持ちが変わる。

「もし、そのとき誘ってもらわなかったら、たぶんすぐ実家に帰って、ひきこもってました。ほんと運がよかったんです」

イベント系のサークルに入り、小学生とキャンプをしたり冬はスキーに行ったり。

友だちと飲みに行くなど、ごく普通の学生生活を楽しむ一方で、体調不良は続いていた。幻聴はだいぶ改善されたが、日中は「謎の倦怠感」があり、眠いのに、眠れない。卒業まで5年半かかった。

「就職氷河期でしたが、一緒にバカやってたヤツらが就職決めていって、やっぱ正直、羨ましかったです。僕は病気がひどかったんで就活もしなかったんですが、周りの大人が『どうするが』って軽く聞いてくるのが嫌でしたね。ヤバいのは自分自身が一番よくわかっとるし、どうしようもならんのに」

25歳で大学卒業後、実家に戻り、ひきこもった。ときどきコンビニにタバコを買いに行く以外、ほとんど自室で本を読んで過ごしたという。「心に残った本は?」と聞くと、太宰治の『人間失格』を挙げた。

「ベタなんですけど、ああいう風に自分の弱さをさらけ出す人ってすごいなと思って。すごい人らが書いた文章を読むことによって、錯覚かもしれないけど、自分も社会との接点があるんじゃないかって思いたかったんです」

自分の限界を知り、再びひきこもる

体調が少し落ち着いたので、30歳で京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)の3年に編入して文芸を学んだ。父親に学費と生活費を出してもらい、もっぱら古本屋巡りをしたり、神社仏閣を見て回った。

「文章を書く仕事なら、部屋にひきこもっていてもできるんじゃないかと、地方の文学賞にも応募したけど全然ダメで。

文学の知識なら誰にも負けない自信があったのに、若い連中にかなわないと思って、白旗を上げました。会社勤めをしている弟に『あいつは何で働かないんだ、病気じゃなくて怠けているだけだ』と怒られたこともあり、卒業はせず珠洲に戻ることにしたんです」

再び、自室でひきこもる生活が始まった。

父親の知り合いから聞いて、障害者向けの就労継続支援B型作業所に月に1~2回通うように。積み木を削るなど簡単な作業をしたが、昼食を食べたら赤字になるくらいの工賃しかもらえない。

30代半ばのころ地元でひきこもりの支援をしている保健師と知り合い、民生委員の集まりなどで自身の体験を話すようになった。

だが、自立への糸口はなかなか見つからない。将来への不安がつのる中、襲われたのが地震だ。何もかも失った石尾さんが能登を出るきっかけは、1本の電話だった――。

取材・文/萩原絹代

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