
現在国会でも審議されている給持法。現在の制度では教員に適切な残業代が支払われないことが問題とされており、「定額働かせ放題」という批判があがっている。
議論の肝は教員の待遇改善ではない
――現在の国会では給持法についても審議されています。
給特法(注:「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」の略称、1972年に成立)の改正ですね。これは今まさに、衆議院で可決され、参議院での審議が始まろうとしている話です。
教員は「給特法」によって、基本給の4%にあたる「教職調整額」が支払われています。しかし、この法律によって教員には残業代が支払われないため、「定額働かせ放題」じゃないか、という批判があがっていて、今回の議論もそれを受けたものです。
もともと、給特法改正の一番の後押しになったのは、「このままでは現場がもたない」という、長時間過密労働に苦しむ現場の教員たちの声でした。
しかし、いつの間にか議論の核が「教員の待遇改善」へとすり替わってしまった。教職調整額を4%から何パーセントまで引き上げれば良いのか、という話に焦点が向いています。
残業代の代わりに支給される教職調整額を、例えば10%まで引き上げたら、教員の待遇は根本的に改善し、長時間労働がなくなるのか…。そんなわけがありません。
大阪大の髙橋哲准教授が着目しているように、そもそも、給特法は教員の残業時間を減らすことを目的につくられた法律です。
イヤでも残業代を払いたくない文科省
――文科省は現在は残業が発生していないという認識なのでしょうか?
給特法に基づけば、校長が教員に残業を命じることができる4つの領域があります。いわゆる「超勤4項目」と呼ばれるもので、
①職員会議
②生徒の実習
③学校行事
④台風とか災害とかそういう緊急事態の時
これらの時だけは残業を命じることができるんです。でも、いまの教員の働き方を見ていると、これらの4項目によって残業が増えるケースはほとんどありません。むしろ、それ以外の業務で残業時間がどんどん増えていっているのが実情です。
「脱ゆとり教育」以降、授業時数はどんどん増やされ、「カリキュラムオーバーロード」とも呼ばれる今日。教員の持ち時間が増え、空き時間は減り、ただでさえ全ての業務を勤務時間内に収めるのがムリな状態です。
イヤでも残業代を払いたくない文科省はどうしたかといえば、翌日の授業準備や生徒指導や保護者対応、部活動などの業務を、教員による「自発的な業務」と解釈することで対応しました。
翌日の授業準備の時間や、生徒指導や保護者対応。いずれも教員のきわめて重要な仕事ですが、これらは全部、教員が自主的にやっている仕事なんだ。だから残業代は支払う必要がないんだ、と。
文科省のこうした認識が変わらなければ、いくら教職調整額を増やしたところで業務量も勤務時間も恐らく変わらないでしょう。
先述の髙橋哲教授は、4月25日に衆議院で行われた給特法の改正に関する文部科学委員会に参考人として招聘され、「実際に発生している教員の時間外勤務を、労働基準法上の労働時間として認めること。
給特法の改正議論の発端は、「学校における働き方改革」です。だとしたら、まずは「学校」とはどんな場所なのか、「教師」のしごととは何なのかを議論せざるを得ないのではないでしょうか。シンプルに言うならば、「学校」とは、地域から集ってきた様々な子どもたち一人ひとりの「人格の完成」を可能にする場所であり、「教師」とは、子ども一人ひとりの「人格の完成」に寄り添い支援するしごとだと、私は思います。
必要なのは、そのようなビジョンに基づき、教師の業務を精査することです。「人格の完成」には何が大事で、何が関係ない業務なのか。生徒指導、学校行事、部活動などは、学校教育においてどのような位置付けが相応しいのか。
一学級にどれくらいの生徒数が最適で、各授業の準備時間はどれくらいが適当なのか。それを可能にするためには、教員1人につき何コマくらいを上限とし、どれくらい教員を増やさなくてはいけないのか等、具体的な指針が見えてくるはずです。
給特法の改正は「入り口」に過ぎない、というのが私のスタンスです。だからこそ、こんな入り口で押し問答していること自体が「終わっている」のです。日本の教育の未来を真摯に考えるなら、給特法改正の議論をきっかけにして、教員の定数改善、教員の業務の精査、標準授業時数の削減、他の先進国並みの教育予算の拡充に繋げていかなければならないのです。
国が動かないのであれば地方から動いていく
――現在鈴木さんがお住まいの高知県土佐郡土佐町では、町議会議員を務めておられます。地方議員として、直近ではどのような取り組みをされているのでしょうか?
給特法に関しては国会での審議に委ねる他ないのですが、教員の働き方改革に関しては、地方議員としてでできることをやっています。
昨年(2024年)の12月に開かれた土佐町議会では、夏休み前に依頼していたふたつの調査結果を教育長に問いました。ひとつは、「土佐町の教員は、勤務時間内に翌日の授業の準備をする時間が取れているのか」。もうひとつは、「土佐町の教員は、労働基準法で定められた45分間の休憩時間を勤務時間内に取れているのか」。
いずれも「取れていない」という答弁であり、しかもそれが近隣3町村の教育長の共通認識として提示されました。「ということは、労働基準法違反の状態ですか?」と尋ねたところ、「そういうことになる」という答弁が返ってきました。
これ、すごく重大な答弁です。自治体の教育長、つまり教育行政のトップが、自分たちの地域の学校の教員が労働基準法違反の状態で働いていることを認めたのです。教育長としては逃げようがないんですよね。議会では虚偽答弁もできないし、もうみんなわかりきっていることだけれども、正式に認めざるを得ない。
当然、こうした状況は土佐町に限ったことではありません。そして、教員の労働環境は、子どもたちの学習環境です。
土佐町が含まれる高知県嶺北という地域では、今後、土佐町以外の3町村(本山町・大豊町・大川村)でも同様の質問が議会で提出されます。さらに他の自治体でも出されるということを聞いています。
なので、全国で同時多発的に「この地域の教員は労働基準法違反の状態で働かされている」ということが議事録に、つまり公文書に残るのであれば、それは今後、国会質疑のデータにもなりますし、教員による集団訴訟の重要な根拠にもなります。
要するに、法律違反の状態があると認めたからには、それを放置しておくことは教育長の監督責任になりますので、放置はできないことになるわけです。
実際、直近の土佐町議会では、この問題を再度、教育長に追及しました。効果はてきめんでした。土佐町議会では、これまで再三にわたり、国が定める標準授業時数を大幅に上回る、いわゆる「余剰時数」の削減を求めてきました。これまでも徐々に削減されてはいましたが、今年度からそれが「0」になったのです。これにより、教員の空き時間が増え、授業の準備なにあてられるようになりました。
国が動いてくれないんだったら、まずは地方から動かすしかないよね、という気持ちでアクションを取っているわけです。
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崩壊する日本の公教育
鈴木大裕
その結果、教育現場は萎縮し、教育のマニュアル化と公教育の市場化が進んだ。
学校はサービス業化、教員は「使い捨て労働者」と化し、コロナ禍で公教育の民営化も加速した。
日本の教育はこの先どうなってしまうのか? その答えは、米国の歴史にある。
『崩壊するアメリカの公教育』で新自由主義に侵された米国の教育教育「改革」の惨状を告発した著者が、米国に追随する日本の教育政策の誤りを指摘し、あるべき改革の道を提示する!