
2020年の東京五輪のメインスタジアムとして建て替えるために、2014年に解体された国立競技場。そこで初めての音楽イベントが開催されたのは1985年6月15日のこと。
音楽イベントを通じて、日本の青年たちにメッセージを
ことの始まりは1982年。小田和正と吉田拓郎が「日本にもグラミー賞を作るべきだ」として、仲間のミュージシャンたちに声をかけたところから始まった。
しかしこの構想は、レコード会社やマスメディア、所属するレーベルや事務所といった様々な関係から生じる諸問題を解決できずに幻となってしまう。
そこへ舞い込んだのが、国連によって国際青年年と定められた1985年に、「音楽の力で何かやれないか」という日本民間放送連盟からの相談だった。
国際青年年(インターナショナル・ユース・イヤー)とは、21世紀に向けて世界の青年人口が増加し続けていく中で、彼らの役割や意義、抱える問題について、国連をはじめ世界の団体や個人で取り組んでいこうという期間で、世界各地で様々な活動が展開されていた。
その呼びかけに対し、日本民間放送連盟は音楽イベントを通じて、日本の青年たちにメッセージを送ろうと考えたわけである。
ニッポン放送の亀渕昭信がプロデューサーとなって尽力する中、小田和正と吉田拓郎を中心として様々なミュージシャンたちに声が掛けられ、遂に1985年6月15日、国立競技場で「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」が開催される運びとなった。
それは国立競技場での初の音楽イベントだった。1958年の開場以来、30年近くに渡って音楽イベントが実現しなかったのは、フィールドに敷かれた天然芝を保護するため、日本スポーツ振興センターによる厳しい審査をパスしなければいけないという高いハードルがあった。
しかし、日本青年年という大義名分と日本民間放送連盟のバックアップがあることから、初めて音楽イベントとして使用する許可がおりたのだった。
1985年6月15日16時。6万人を超える観衆が見つめる中、吉田拓郎のMCでコンサートは幕を開けた。
「とりあえず景気づけにオレが1曲歌います。ところが今日は俺のバンドがいない。そこで、是非ともこのグループとやってみたかったというグループを紹介します。泣いて喜べよ! オフコースだ!」
1970年のフォークシーンを牽引した両者による共演に、会場からは驚きとともに盛大な歓声が上がった。
日本の音楽界のターニング・ポイントだった
その後もアン・ルイスとラッツ&スター、山下久美子と白井貴子、チューリップとつのだ☆ひろとブレッド・アンド・バターとチェッカーズなど、様々な共演が会場を沸かせた。
後半では12年ぶりにして1度きりのはっぴいえんど再結成が実現し、続いて1夜限りのスーパーバンド、サディスティック・ユーミン・バンドが登場。
元ザ・フォーク・クルセダーズの加藤和彦を中心として、1971年に結成されたサディスティック・ミカ・バンドが解散したのは1975年のことだった。
そのメンバーを中心に、松任谷由実と坂本龍一を加えて復活したこのバンドは、それぞれのナンバーをメドレーで演奏すると、サディスティック・ミカ・バンドの代表曲『タイムマシンにお願い』、それから小田和正と財津和夫も加わって『今だから』を披露した。
トリに抜擢されたのは、佐野元春 with the Heart Land。国際青年年のテーマソングでもある『Young Bloods』をはじめ3曲を演奏したところで、シークレットゲストとしてサザンオールスターズが登場。洋楽カバー・メドレーや『夕方 Hold On Me』を熱唱した。
そして最後は総勢100名ほどの出演者全員で、この日のために作られた『ALL TOGETHER NOW』を歌って幕を閉じた。
このコンサートは全国の民法ラジオで放送され、多くの若い世代のもとへと届けられた。
それから28年後の2013年。当時の音源が見つかったことから、“ラジオ再価値化プロジェクト”の第1弾として、同コンサートを音源とともに振り返る特別番組が放送された。
その番組内で、コンサートの先導役の1人だった吉田拓郎は「決して皆が皆、横でつながっていたわけではなかった」と話している。それでもコンサートのために何かやろうという前向きな気持ちとともに、数々の共演が実現したのだという。
「まあ思い出深い、今じゃちょっと考えられないぐらい、あらゆるジャンルで音楽をやってるビッグネームな人たちがよくこんだけ集まれたなと。今では奇跡に近いくらい夢のようなコンサートだったなと思い出しますね」
また、プロデューサーの亀渕昭信は、のちにインタビューでこう振り返っている。
「僕にとっては自分でブッキングを担当する最後の仕事だと思っていました。あのイベントは確かに日本の音楽界のターニング・ポイントになったと思いますが、ちゃんと次の世代を担うべき、サザンオールスターズ、佐野元春さん、チェッカーズも出演していたことが、今振り返ると良かったと思います」
このイベントで、大瀧詠一、細野晴臣、鈴木茂、松本隆の4人によって、12年ぶりにはっぴいえんどが再結成するに至ったのも、亀渕が大瀧のもとを訪ねたのがきっかけだった。
はっぴいえんど再結成の裏側
亀渕は、「All Together Now」のチーフ・プロデューサーとして、出演してくれるミュージシャンを集めようと奔走していた。そしてイベントを成功させるために、是非とも大瀧詠一に出演してほしいと考え、福生にある自宅を訪ねた。
ところが「当分ライブはやりたくない」と、あっさり断られてしまう。
その日の夜、大瀧が自宅スタジオを掃除していて見つけたのは、はっぴいえんどの昔のカセットテープだった。テープを聴いた大瀧は松本のことが気になって、久しぶりに電話をかけて話をしてみた。
大瀧との会話で細野の名前が出たことから、今度は松本が細野に電話をかけてみた。すると、久しぶりに渋谷のカフェバーで会おうということになった。
それを聞いた大瀧も加わることになり、3人は久々に深夜のカフェバーに集まった。近況についてあれこれと話しているうちに、亀渕から相談された国立競技場でのイベントの話になる。
「そのイベントのことを“ニューミュージックのお葬式”だと悪口言ってるやつもいるらしいんだよ。どうせお葬式なら、逆に俺たちが出てっても面白いかもね」
「はっぴいえんどなんて、今の客は知らないだろうな」
「いっそのこと新人グループだと嘘をついてステージに上がろうか」
冗談を交えながら話は弾んで、はっぴいえんどの再結成とイベントへの出演に対して、3人は前向きに考えるようになったのだ。
しかし、松本にはひとつの不安があった。はっぴいえんどの解散以降、10年以上ドラムを叩いていなかったのだ。
翌日、松本のもとに鈴木茂から電話がかかってきた。大瀧か細野から再結成の話を聞いたのかと思ったら、そうではなかった。
「たまには松本さんのところに遊び行きたいなと思って、電話したんだけど」
あまりのタイミングの良さに松本は運命的なものを感じ、その場で再結成の話をすると、鈴木は大賛成と喜んだ。こうして松本の心も固まり、はっぴいえんどは1日だけ再結成することが決まった。
多忙な日々を送る4人。誰か1人でも電話がつながらなければ、再結成はなかったかもしれない。スマホやSNSなどない時代。それはまさにいくつもの偶然が重なって生まれた奇跡だった。
強い覚悟を持って最後の大舞台に挑んだ大瀧詠一
久しぶりのステージに上がったはっぴいえんどのライブは、大瀧詠一のこのひと言から始まった。
「はっぴいえんどです」
それははっぴいえんどがライブ活動をしていた頃、ステージで唯一、大瀧が発する言葉だった。手短に挨拶を済ませて演奏に集中する、というのがこのバンドのスタイルだった。
大瀧はコンサート後の感想でこう話している。
「僕は歌よりも何よりも、“はっぴいえんどです”というひと言に命をかけて、数ヶ月間準備をしたということが一番印象に残っています」
大瀧は、1日だけ再結成したはっぴいえんどを最後に、表立った音楽活動を休止した。その理由について、大瀧は26年後に次のように明かした。
「僕は1985年に、それまで続けてきた音楽活動を一旦休止したんだけど、そのとき自分にとって音楽は無ければ無くてもいいなと思った。プライオリティーが下がったんだ。
はっぴいえんどを始めた1970年から85年までは音楽が一番だった。だから音楽をやってきた。で、85年からの一番のプライオリティーは、命になった」
「はっぴいえんどです」と発するひと言に“命をかけた”という大瀧の言葉は、文字通りの意味であり、それほどの強い覚悟を持って最後の大舞台に挑んだことが伺える。
大瀧は国立競技場で実現したはっぴいえんどの再結成を、自身の音楽活動を休止するための、別れの場として選んだのかもしれない。
文/TAP the POP
参考・引用
・「対談 亀渕昭信×大瀧詠一3.11の前と同じようにできるかどうか」
・「オールナイト・ニッポンSPECIAL ~俺たちがはっぴいえんどだ!」(1985年9月4日ニッポン放送)