
56歳でファッション界の巨匠カメラマン、ピーター・リンドバーグと写真集を創刊したり、サーフィンを本気で楽しんだり、自由奔放なイメージの俳優・石田えりさん。だが、15歳でデビューして人気絶頂の頃には、実は「世の中」を恨んで、外に出ることができないほど苦しんだという。
テレビ局のディレクターに無理やりホテルに連れ込まれて
14歳で、田舎から出てきて芸能界にデビューした私は、本当に右も左もわからない、世間知らずで、頭が空っぽの子どもでした。
やっとお酒も飲める年齢になったころ、ある民放のテレビ局の連続ドラマに出演していて、その番組のディレクターから食事に誘われたことがありました。どこの局とは言えませんが、フジテレビではありません(笑)。
食事をご馳走になって、お酒も飲んで、タクシーに乗せてくれるので、家まで送ってくれるのかなと思って乗り込んだら、着いたところはホテルでした。
でも当時の私は、本当に子どもでバカでしたから、その意味がよくわかっていなくて、のこのこ付いていきました。
ホテルのバーで飲むのかな、と思っていたら、いきなり客室に連れて行かれました。それでも私はまだ事態を理解していませんでした。
部屋の中で飲み直すのかな、くらいに思っていたのです。部屋の中で、最初どうしていたかは、よく覚えていません。
その後、わけがわからないまま押し倒されて、ほとんど抵抗する余地もありませんでした。でも、レイプとか性的暴力と言うことはできません。本当に何が起こったのか、はっきりと思い出せないくらいだったので。
明け方、一人で家に戻ったあと、後悔の念ばかりが押し寄せてきました。子どもだった私は、ただただ自分を責めました。自分が悪いんだ、自分の責任だと、それからしばらくの間、ずっと自分を責め続けました。
女性の場合、明らかなレイプでない限り、相手が悪いという発想は浮かばないのではないでしょうか。
このような経験は、私が特別だとは思いません。私たちは、そういう危険な世の中に生きているんだと思います。今、あの時のことを思い出すと、その程度の男とその程度のことをしたとしか思っていません。
性的な対象として見られる「世間の目」が苦痛だった
私は、デビュー以来、映画で裸になる作品が多かったので、性的な対象として見られることが、すごく多かったんです。
映画で裸になっているシーンの写真が出回ったりもしましたし、「誰と付き合っている」という話も、性的な対象として噂が出回ったり、記事になったりしていました。
お仕事上のお付き合いのある人とも、ときどき危ない目には遭いましたが、よく聞くような「枕営業」とか、それを断ったら仕事を干されるとか、そういうことはありませんでした。私個人は、そのようにして築いたキャリアは、砂上の楼閣だと思っています。
新幹線のホームに立っていても、男の人たちから、ものすごく舐めまわすような視線で見られて、気持ちの悪い思いをしたことも何度もありましたし、実際に卑猥な言葉を投げかけられることもありました。
「このままじゃ、外を歩けない」と思うほど、私を性的な対象として見ている世間の目が、苦痛でした。
「ひどい世の中だな」と、世の中を恨んでいました。外に出るときには、サングラスをかけて、帽子を目深にかぶり、顔を隠して歩いていました。いつも、コソコソ逃げ回ってばかりでした。
「逃げるのはやめて、全部出しちゃおう」
あるときから、コソコソ逃げ回るのが、本当に嫌になりました。人の視線を気にして逃げ回るのはもうやめよう、と。開き直って全部出しちゃおうと決心しました。すごい芸術作として、ヌード写真集の決定版を出してやろうと心に決めました。
どうせやるなら、ヌードを撮らせたら世界一と言われていたヘルムート・ニュートンに撮ってもらおう、と思いました。
その頃、いろいろな出版社からヌード写真集をやらないかという話が来ていたんですけれど、「ヘルムート・ニュートンの写真集でなければ、やりません」と、条件を出していました。
そうしたら、本当に実現することになったんです。自分の思いが、地球の裏側まで届いて、実現に結びついたことに、感動しました。実際に「どうだ!」っていう作品になったと思います。
とてもよく覚えているのは、契約書にサインした日がお互いの誕生日だったことです。
あの写真集が出てからは、世間の目が変わりました。たぶん、それ以上に、私自身の心が変わったのかもしれません。もう逃げなくていいんだと、完全に気持ちが吹っ切れたんです。
怖い夢をめぐる不思議な体験
今から10年ほど前のことだったと思いますが、とても怖い夢を見ました。夢のなかで私は、お化けに追いかけられて、すごく怖くて、走って逃げるんです。どんどん逃げるんですけれど、後ろからどんどん追いかけてくるんです。
怖くて、怖くて、もうこれ以上逃げられない、もう無理と思って、ものすごく勇気を振り絞って、止まって振り返りました。そうしたら、そのお化けがびっくりして、消えたんです。
ああ、そうか。こうやって、逃げるとどんどん怖くなるんだな。そうじゃなくて、怖くても勇気を出して直面すればいいんだなって思ったんです。
それからしばらくして、詩人の谷川俊太郎さんが、テレビで、私が見た夢とまったく同じ夢の話をされていたんです。
そのときは気づかなかったのですが、今から考えると、私が見たこの夢は、世間の目から逃げ回っていたときに、開き直って全部さらけ出して、最高の写真集を出そうと思った、あのときの体験と共鳴するものがありますね。
最近、セクハラやパワハラ、性的虐待、暴行などの事件が、大きく報道されています。フジテレビやジャニーズのことは、言わば組織的な犯罪で、私が以前、ディレクターにされたひどい行為とは、また全然違う問題だとは思います。
ただ、私がデビューして間もない頃とは違って、今の若い俳優やタレントの人たちは、みんなしっかりしていて、勇気を出して声を上げることも多くなってきていると思います。
数年前には、ハリウッドを中心に、#MeToo運動などが起きて、世界的に大きな広がりを見せました。女性たち、少年少女たちも、勇気を出して声を上げることが増えてきています。
それでも、芸能界やメディアに登場する人だけではなく、普通に生活している人々も含めて、性的な被害を受けて、心に傷を受けて苦しんでいるケースは今でもたくさんあると思います。
そして、事件が明るみに出ることはなく、弱い立場の人たちがが泣き寝入りして、被害者だけが苦しんでいるケースが山ほどあるはずです。
逃げ回って、時効数日前に逮捕された福田和子の視線
福田和子さんの物語を映画にしたいと思ったのは、あの逃げる夢を見てから何年か経ってからのことです。彼女に関する本を何冊か読んで、イメージがものすごく浮かんできて、これを映画にしたら面白いなと思ったのがきっかけです。
1982年に起きた松山ホステス殺害事件の容疑者で、全国に指名手配されながら、何度も整形手術をして顔を変えて15年間逃げ回り、当時の法律で時効になる数日前に逮捕された人物です。
でも、彼女の自伝をはじめ、いろいろな本を読んで感じたのは、本当に彼女は極悪人なのかな、という疑問でした。そして、彼女の視線から見た映画を作るというイメージを持ちました。
たしかに、生まれや育った環境は、表社会とは言えないものだったところもありますが、殺人事件を起こすまでは、普通に生きていた人です。
世間は彼女を、極悪人扱いしていましたが、逃げている間も、彼女は誰に悪意を持っていたわけでもありません。ただ、普通に生活していただけなんじゃないか。悪意があったのは、福田さんじゃなくて、むしろ福田さんを追い詰めた「世間」の人だったんじゃないかと。そういうことも含めて描くことができればいいのかな、と思いました。
これまで、短編映画を監督として作りましたが、長編映画の監督をするのは、初めてです。
15年くらい前からでしょうか。演じるのと同時に、作る方に興味を持つようになってきました。
その後、短編映画も作りました。舞台の頃は、脚本家に脚本を頼んで、演出家も選んでお願いしたりしていたのですが、だんだん、脚本を自分で書いてみたくなってきまして、短編映画のときには、台本も自分で書いて、演出も自分でやるようになってきました。
その流れで今回は、初めて長編映画を、脚本も監督も、自分でやろうということになりました。
これからどういう風になっていくのか、自分でもわからないですけれど、やっぱり、自分で納得のいくものを作りたいと、そちらの気持ちの方が強くなりました。
こういうのって、あまり考えていくと、無理じゃないですか。考え過ぎちゃうと、まあちょっと辞めておこうと、やらない方に傾いてしまいます。やりたいと思ったことができたら、やっちゃえばいい、と思います。
そう考えるのは、姿が見えないお化けを怖がって、そして逃げ回るのをやめて、恐怖と直面した方がいいという、あのとき見た夢に通じるものがあるのかも知れませんね。
私の見た世界
監督・脚本・編集/石田えり 出演/石田えり 大島蓉子 佐野史郎 ほか 配給/トライアングルCプロジェクト (25/日本/69min)1982年(昭和57年)、松山ホステス殺人事件の犯人として指名手配された福田和子を基にした逃亡劇。顔や名前を変えるなどして警察の目を欺き、時効直前の約15年間にわたり逃走を続けたが、時効直前に逮捕される。その15年間、彼女は何を見て、何を選択したのか……。何が彼女を追い詰め、どのようにして彼女自身がその道を選んだのか……。7/26~シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
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構成/髙田 功