
父親はヤクザで、母親に抱きしめられたこともない。佐野靖彦さん(63)は幼少期に親から十分な愛情を受けられず、大人になっても他人を信頼できなかった。
〈前編〉
生きづらかったのは、あなたのせいではない
ある日、佐野靖彦さん(63)が向かったのは区役所だ。双子の兄に生活保護の申請を勧められたのだ。
幼いころ祖母に引き取られた兄とは別々に育てられ、佐野さんが兄と初めて会ったのは小学6年生のとき。兄は大学を中退して関東の生協で働いていたが、うつ病を患い、生活保護を受給していた。ちなみに弟は生後すぐにアメリカに養子に出され、生死すらわからない。
佐野さんは怯えながら窓口を訪れた。兄からは「議員と一緒に行け」とアドバイスされたが、地元の区議に断られてしまい、泣く泣く1人で行ったのだ。
だが、予想に反して、担当者はこれまでの経緯をていねいに聞き取ってくれ、こう言ってくれた。
「ひきこもりから回復するのは時間がかかりますからね」
53歳で生活保護を受給し始めると、佐野さんは遮光カーテンを買い、昼夜問わず家にひきこもった。
「お金の心配をせず、思いっきりひきこもって、人生を見直そうと思って。親父が54歳で死んだから、自分の人生もそのくらいで終わるって、ずっと思ってたからさ。死ぬ前に自分の正体を知りたいと思ったわけ」
精神科に行くと抗うつ剤を処方された。不安感はやわらいだが眠気がひどくなったので「服薬をやめてカウンセリングを受けたい」と希望した。2回目のカウンセリングでカウンセラーに言われたことが、転機になる。
「生きづらかったのは愛着障害が原因です。お母さんの軽度の知的障害により引き起こされたものです。あなたのせいではありません」
愛着障害とは、乳幼児期に親や養育者から十分な愛情やケアを受けられず、愛着関係を築けなかったことが原因で起こる障害だ。対人関係が不安定になったり、感情の抑制が難しくなったりする。
「母親のせいだとはっきり言ってもらって、うれしいっていうのもあるし、診断名が付いて安心したっちゅうのもある。その反面、本当にそうなのかとも思って、愛着障害のことを勉強したよ。愛着って、人間関係の一番の大元なの。
笑う練習をして感情を取り戻す
10回目のカウンセリングで「佐野さんは表情がないね」と指摘され、子どものころから感情を押し込めて生きてきたことに気が付いた。
すぐにテレビで喜劇映画などを観て、笑う練習を始めたという。佐野さんは「最初はフッフッて感じよ」と再現してくれたが、片方の頬がゆがんだ苦笑にしか見えない。
「1か月ぐらいして、近所中に響き渡るような大声で笑えるようになってな。自分で考えてやったことがうまくいって成功体験だと思えた。自分に自信がついたら、それをきっかけに感情がドッと出てきてさ。親に対する怒りとかも出てくるようになったよね。なんであのとき、抱いてくれなかったのって。
自意識が変わると、絶望からひっくり返るのは早かった。ただ、愛着障害っていうのは、一生付きまとうもの。だから、時間をかけて折り合いをつけていくしかないんだよね」
その後に佐野さんが始めたのは、幼少期からの生育歴を思い出して書き記すこと。『私の60年とライフエピソード』と書かれた分厚いファイルを見せてもらうと、失敗も挫折も何一つ隠すことなく、詳細に書かれていた。
プライドの高かった兄は孤立して、孤独死
幼いころに親の愛情を十分に受けられなかったのは双子の兄も同じだ。大人になってから兄とはたまに会って飲んだりしていた。
そんなある日、突然、警察から電話があった。兄がアパートの玄関で倒れてノブで頭を打って出血。大量の血が玄関から外の廊下に流れ出て、亡くなっているのが発見されたのだという。まだ61歳だった。
「解剖所見は急性心筋梗塞。だけど、服薬記録を見ると、心臓の薬とうつの薬が1日に37錠処方されてた。医者に殺されたようなものだと思っているよ。死んだ後、部屋に行ったら飲んでない薬が山のようにあった。
兄貴は頭がよくて勉強家で、プライドも高かった。俺と同じように、愛着障害だと想像できるけど、カウンセリングは受けてなかったと思うよ。相談できる人もいなくて、どんどん孤立していって、最後は孤独死した。
佐野さんは、30代のころ身を寄せていた共同体での暮らしは続けられなかったが、そこで知り合った人たちとのつながりは切らなかった。生活保護を受ける前に心身の不調がひどくなったとき、途方に暮れて相談すると玄米食を勧められた。すぐに圧力釜を買い、玄米に小豆やヒジキを入れて炊いてみた。くわえて早食い、大食いをやめると、不調が改善していったのだという。
「その健康法を教えてくれた人は30歳年上で、親身になって話を聞いてくれてな。実の親父にはない父性を感じたの。『健康でないと何もできんよ』と言ってもらって、自分にとっては神にすがるというか、そういう感覚だったね」
ひきこもりの自分でもできること
今の住まいは都立石神井公園のそばにある。佐野さんは自主的に公園の掃除や草取りをしている。
きっかけは雪かきだ。遮光カーテンを閉めて一日中ひきこもっていたとき、一晩で20センチくらい積もったことがあった。坂道で車がスタックしている音が聞こえてきたが、外に出る勇気が出なかった。
「手伝いたい気持ちもあったけど、やらない理由をいっぱい並べているわけ(笑)。ひきこもりだし、道具もねえしなと。
自分でも何か社会に貢献したいという思いがあったのだろうか。そう聞くと、佐野さんは慎重に言葉を選ぶ。
「社会のためにって言うより、社会の一役。それと中村哲さん(※パキスタンやアフガニスタンで30年にわたり民生支援などの活動をしていた医師)の講演会で聞いた『自分のできることで社会作りをしてください』っていう言葉がずっと心に残っててな。だから、ひきこもりの自分でも、何ができるんだろうかっちゅうのは、どっかで考えていたんだよね」
草取りをして見えてくる社会
公園内の木道に積もった落ち葉の掃除は9年ほど続けている。始めた当初、年配男性の威圧的な声が降ってきた。
「どけ、邪魔だ」
下を向いて作業していたので、男性の真っ白いスニーカーだけが見えたという。佐野さんは「命令ばかりしてた人なのかね」と苦笑いする。
今年の春からは歩道の草取りも始めた。作業は早朝からスタートする。
「いつもやっていますね」「ご苦労様です」
散歩をする人たちに、ねぎらわれることも多い。佐野さんの体を心配して、毎回、水を持ってきてくれるおばあちゃんもいるそうだ。
週末になると親と一緒に公園を訪れる子どもに、よくこう聞かれる。
「何しているの?」
「何していると思う?」
佐野さんはすぐ答えずに、自分で考えさせるという。そして、「やる前とやった後と比べてどう?」と聞くと、子どもはうれしそうに答える。
「あ、キレイになってる!」
玄米のおにぎりを30数個作り、ホームレスの人たちに届けることも続けている。11年前の大みそかに新宿駅でホームレスの路上死に遭遇した経験が、のちにホームレス支援をしている人たちと知り合うきっかけになったのだ。
「今は自分がやれることをね。できないときはやらないし、できるときはやりたいなと思ってさ。それだけだよ」
「佐野さんって、哲学者みたいですね」と言うと、「実践する哲学者だな」と笑う。自然ないい笑顔だった。
〈前編はこちら『「父親はヤクザ、母親に抱かれた記憶もない」ヘドロの川に面した6畳間で育った63歳の“逃げ続けた人生”』〉
取材・文/萩原絹代