
今年もクマが暴れている。人とクマの共生について取材を続けてきた、経済誌プレジデントの元編集長で作家の小倉健一氏は「日本列島全域で人とクマの距離が危険な水準まで接近している」として、住民の平穏生活を脅かしている実態を指摘する。
目が合った瞬間、クマは男性に覆いかぶさり、鋭い爪で頭部を…
日本列島全域で人とクマの距離が危険な水準まで接近している。ヒグマやツキノワグマによる人身被害は深刻化の一途をたどり、住民の平穏な生活を脅かしている。
2025年になって、栃木県那須地域では人への襲撃事件が立て続けに発生した。那須塩原市埼玉では、農業を営む73歳の男性が自宅近くでクマに襲われ、重傷を負う事態となった。
事件現場はJR黒磯駅からわずか3キロメートルほどの住宅地であり、周辺には田畑や商店、小学校も存在する。早朝、水田の水量を確認しに行った男性は、黒い動物が走り回る姿を目撃した。
犬かと思った動物は、体長1.5メートルほどのクマであった。男性は近所の自治会長宅へ駆け込み警察へ通報した。水田へ戻ろうとしたところ、再びクマと遭遇した。
クマは最初、自治会長に向かっていった。自治会長が軽トラックの荷台へ逃げ込むと、クマは標的を男性に変えた。そして目が合った瞬間、クマは男性に覆いかぶさり、鋭い爪で頭部を激しく攻撃した。
男性は後頭部を35針も縫う大怪我を負った。男性が必死の思いで屋内へ逃げ込むと、クマは網戸に体当たりしてから去っていった。襲撃はあっという間の出来事だったと男性は振り返る。命があったのは奇跡だと語り、子どもが被害に遭う可能性を憂慮し、一刻も早い捕獲を訴えている。
この襲撃事件を起こしたクマは依然として捕獲されていない。近隣の市立埼玉小学校では、事件を受けて保護者による児童の送迎が実施されるなど、地域社会は緊張に包まれた。
那須地域では、この男性の事件に加え、6月末から7月初めにかけて他に2人がクマに襲われ、重軽傷を負っている。
同じ那須塩原市の上塩原でも、別の被害が発生した。塩原温泉郷に近い山あいの地域で、85歳の無職の男性、君島宏さんが被害に遭った。
クマによる事故が全く新しい段階に入った
午前5時半ごろ、自宅裏山で日課としているレンギョウの剪定作業中、背後から突然クマに襲われた。君島さんは尻に鋭い痛みを感じて振り向いた。そこには体長1メートルほどのクマがいた。
君島さんがとっさに「コラ!」と大声で叫ぶと、クマは驚いて逃げていった。
専門家は、市街地で人が死亡するような事故は過去にほとんど報告例がなかったと指摘する。クマによる事故が全く新しい段階に入ったという強い警戒感を示している。
季節的な要因も被害の増加に関係する。5月から7月はクマの繁殖期にあたる。オスのクマは交尾相手を求めて行動範囲を格段に広げる。この時期、オスは子連れの母グマと遭遇すると、母グマと交尾するために子グマを襲って殺すことがある。
そのため、子連れの母グマは極度に警戒心が高まり、神経質になる。人間が意図せず母グマや子グマに近づくだけで、自己防衛のために猛烈な攻撃を受ける危険性が増大するのだ。
住民の間では行政の対応への不満と不信感
相次ぐ被害と高まる危険性に対し、住民の間では行政の対応への不満と不信感が募っている。クマを目撃したと通報しても、行政はパトロールをするだけで、具体的な捕獲にはつながらない。
聞き取りに時間を取られるだけで無駄だと感じ、地域住民の多くは通報自体を諦めているという実態がある。
近年はトウモロコシ畑を荒らし、生ゴミをあさる姿が頻繁に目撃されるようになった。人を恐れなくなったクマが、ついに人を直接襲うようになった。行政は現実を直視し、猟友会が即時に対応できるような法整備を急ぐべきだろう。
行政の多くは、クマと出合わないことが最も重要だと呼びかけ、もし出合ってしまった場合は走らずにゆっくりと後ずさりして身を守ってほしいと注意を促す。このような対応は、切迫した現場の危機感とは温度差がある。
一部のメディアもまた、現実から乖離した論調を展開している。朝日新聞社の社説(7月23日)は、住民やハンターの安全確保を最優先にすべきだとしながらも、本質的な解決のためには人間と野生動物のすみわけに本腰を入れて取り組むべきだと主張する。
脅威に日々直面している住民の恐怖を理解していない朝日新聞
また、朝日新聞は市町村長の判断で駆除が可能になる緊急銃猟の導入に触れつつ、ヤブ刈りや餌となる果樹の撤去といった環境整備、専門知識を持つ人材の育成こそが急務であると説く。そして大局的な視点から、人口減少時代の国土全体のあり方の中で生態系の保全を考えていくべきだと締めくくっている。
こうした共存を前提とした理想論は、クマの牙や爪の脅威に日々直面している住民の恐怖を理解していない。
日本国内のクマ問題を正しく議論するためには、クマという動物が持つ捕食者としての本質を理解することが不可欠である。その理解を深める上で、海外で発生した事件は、日本の甘い認識を根本から覆す重要な教訓を与えてくれる。
ロシアから伝えられたニュースは、日本のクマ対策が必ず踏まえておかなければならない、冷徹な現実を我々に突きつける。
まず男性の頭蓋骨をかじり始めた
2025年4月、ロシアの首都モスクワから約125キロメートル離れた森林地帯で、一人の男性がヒグマに襲われ、瀕死の重傷を負う事件が発生した。
ロイター通信が報じた内容によれば、被害者の男性は、シカやヘラジカが春に落とす角を収集して生計の一助としていた。男性が森深くで角を探していた際、巨大なヒグマが背後から音もなく忍び寄り、男性を襲撃した。
ヒグマは男性に襲いかかると、まず男性の頭蓋骨をかじり始めた。次にヒグマは抵抗できなくなった男性の体をひっくり返し、男性の顔面をむさぼり食べ始めた。絶体絶命の状況下で、男性は意識を失ったふり、すなわち死んだふりをすることで、九死に一生を得た。
捕食行動を中断したヒグマは、獲物が死んだと判断したのか、やがて男性をその場に放置して去っていった。重傷を負いながらも意識を取り戻した男性は、自ら緊急サービスに通報した。救助隊が男性を発見するまでには数時間を要した。
救助隊は徒歩で広大な森林を捜索し、ようやく男性を発見。男性はその後、ヘリコプターで病院に緊急搬送された。ロシアの多くの地域ではクマの狩猟は合法である。しかし、事件が起きたモスクワ周辺地域は例外的に狩猟が禁止されていた。
このロシアの事件が示す事実は一つである。クマは、時に人間を食料と見なす極めて危険な猛獣である。頭蓋骨をかじり、顔面を食べるという行為は、単なる威嚇や自己防衛ではない。それは野生動物が行う純粋な捕食行動に他ならない。
まず人間社会の安全を徹底的に守り抜くという国家の強い意志を
日本で頻繁に語られる「共存」という言葉は、クマが本来人間を避け、一定の距離を保つという性善説に基づいている。
しかし、里山という物理的・心理的な緩衝地帯が崩壊し、人里の食べ物の味を覚えた日本のクマは、もはや人間を恐れていない。栃木県での襲撃事件や北海道での死亡事故は、ロシアの事件と本質的につながっている。
最も重要なのは、クマを保護すべき野生動物と見なす視点と、人の命を奪いかねない危険な猛獣と見なす視点の両方を持ち、現実的な対策を講じることである。
住民の安全確保を議論の余地なき最優先事項と定め、危険な兆候を見せる個体、人里への執着を断ち切れない個体については、躊躇なく駆除を実行する断固たる体制を構築する必要がある。
猟友会のような現場の知見を持つ専門家たちが、行政の煩雑な手続きに手足を縛られることなく、即座に行動できる権限と法的な後ろ盾を与えるべきである。
クマとの共存という美しい理想を語る前に、まず人間社会の安全を徹底的に守り抜くという国家の強い意志が求められている。
感傷的な動物愛護の視点から一歩退き、科学的根拠に基づいた厳しい個体数管理を開始することこそ、日本のクマ対策が直ちに実行すべき、唯一の現実的な道である。
文/小倉健一